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今見ている世界と感じている世界と

今でも鮮明に覚えている小学生くらいの時、自分の知っている「赤」という言葉が実は他の人は「赤」という言葉では認識しておらず同じ物象を別のワードを介して理解しているのではないか.つまり、「赤」という言葉ではない別の言葉に聴こえているのではないか、ということ.
これを思い出したきっかけはふと気付かされる一言にあったわけで.
それは
「デジタルはすでに自然に内包されていたものである」
という言葉だった.
そこから、なるほどアートは自然の現象ないし表象を人間というバイアスを通して表現されたことなのだ、と.
であれば、あの小学生の頃に感じたあれは間違いではなく、言語というアート(人工物)は自然に内包されていたものの表現であるわけだから、人それぞれの受信感度によっての認識は異なってしまうほどの曖昧な表象として我々のあいだに表象されるものなのだ、という思考に至ったわけである.
恐らく、「赤」という言葉は「aka」と聴こえ、「あか」ないし「赤」と文字表記され、このシニフィアンはこれを認知している人に共通のシニフィエを提供する事実は変わらないだろう.
しかし、もしも、「赤」が「ao」というシニフィアンで認識されているコミュニケーションがあるのであればこの事実をどう証明できるだろうか.
つまり、コミュニケーションを取るためにアートされた言語はネイチャー(自然)を表現するいちツールに昇華され我々はネイチャーの壮大さをなんとか操作し、使用しようとアートを生み出すことに邁進する.現代科学がまさにそれを体現してくれているといっても過言ではないだろう.
そして、ネイチャーに内包されてしまうとも知らずに、あるはずもない「答え」をアートの叡智として崇め奉る現代の風潮が辟易する.
だって、「赤」が本当に「aka」というシニフィアンである証明は誰にもできないのだから.

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