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ネガティブ・ケイパビリティと教育の可能性

皆さん、こんばんは⛰

本日は一つの区切りとして現時点ではありますが、改めて自分の"想い"を綴ることができればいいなと考えております。

題名にあります通り、今回は物事全体の見方としての「ネガティブ・ケイパビリティ」と教育観としての「教育の可能性」を考え、最後に両者のつながりを見出して着地したいなと思います~

1.ネガティブ・ケイパビリティとしての"自分"

僕はよく内省をしているのですが、よく考える問いは「"過去"の自分は何を思ってその行動を起こすのか?」と「”これから”の自分は自分に対して、社会に対して何を為すのか」の二つです。

考える入口では「何か答えを手で掴みにいくぞ」と思って足を踏み入れるのですが、全く自分のことを掴み・捉えることができず、また入口に戻ってしまいます。

この前者の問題の設定とそれに対する解答を即座に求める姿勢を「ポジティブ・ケイパビリティ」と言い、後者のような「どうしても解決できない、宙ぶらりんな状態でも、それに持ちこたえる能力」を「ネガティブ・ケイパビリティ」と言います1)。

後述しますが、僕は日々「教育には何ができるのだろうか」という問いを前にして無力な自分に時に怒りを感じることもあります。

しかしながら、答えをすぐに出すことが善である訳ではないと最近思うようになりました。

そして、世の中の諸問題は自分が思うほど平易なものではなく、常にそこには"複雑さ"が共存していると思います。

僕自身は「答えのない不確実な世界を耐え抜いていきたい」と思うようになり、逆に「不確実であるからこそ、もしかしたら解決の糸口がつかめるかもしれない」という多少の希望を抱くようにもなりました。

2.教育の可能性—個人の「善き生」が実現された社会

僕は主に教育格差・子どもの貧困・不登校など(教育における排除)を起点として、「(じゃあ)教育には何ができるの?」という問いを自分に投げかけています。

現時点で教育の可能性と考えているものはいくつかあります(ここでは書ききれないです…)が、自分ではまだもう二・三歩くらい行けると感じています。

では、現時点で僕が考える「理想の社会」は

「一人でも多くの人が自分の可能性や自分の"想い"(=声)に気づくことができ、それを少しでも形にできる社会」と考えています。

正直まだまだ粗削りな思考・言葉ですね…

この部分をこの一年間で考え、自分自身も理想の社会の「体現者」としてありたいと思っています。

最後に1と2のつながりは、

教育と人間の可能性(ケイパビリティ)を"想い"として持っている自分は、今もこれからも不確実で常に途上。

この宙ぶらりんの状態で耐える力(ネガティヴ・ケイパビリティ)。

ここで両者が自分の中でつながったという感覚になりました。

今日はここら辺で失礼いたします。まだまだ書きたい想いや、書ききれていない想いがあるのが現状です。

話をしたい方がいらっしゃいましたら、お気兼ねなくTwitterのDMにてご連絡下さい!僕の方からもご連絡させていただく場合があるかもしれません。その時はどうぞよろしくお願いします。

皆さん、よい一日を!

1)帚木蓬生『ネガティブ・ケイパビリティー答えの出ない事態に耐える力』朝日新聞出版

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