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就活。

最近の面接官は、唐突な質問をするらしい。

自分ならば何と答えるだろう?



Q.もし道でおばあさんがいきなりうずくまったら、あなたはどうしますか…?



「私は最低な人間です。ですからすぐにおばあさんに駆け寄って、大丈夫ですかと声をかけます。」

Q.なぜそれが最低なのですか?

「私は、おばあさんに声をかけようか、いやかけないでおくか、いや…という煩悶を抱えたくはないのです。そしていざということがあったとき、一生の後悔をするでしょう。それが嫌なのです。それらの時間の苦しみを味わいたくないし、すぐに解放されたい。だから駆け寄り声をかけます。自分の良心の呵責が恐ろしいのです。それから逃れたいのです。
つまり、私の行動は完全なエゴなのです。
利己心でしかないのです。」

Q.ではどのようにするのが正解なのですか?

「何が正解か、と問われれば、以上の私の行動が正解なのだと思います。ただそこに至る動機が汚れているのです。

私はよく自身に問います。

……誰かを助けたいと思った時、誰かに優しくした時、私はそんな自分が好きなだけだろ。
他人のことを考えるなどと言っているが、自分の世界からしか他人を捉えられない私たちは、利他的な想いなど抱いたところで、本当にそれは他者のためになるのか?
自分がされてうれしいことでしかないのではないか?
自分のされてうれしいことは、他者にとってもうれしいとは限らない。
そのようなエゴを撒き散らすことこそ迷惑なのではないか?
私たちは純粋に善をなすことは可能なのか?

このような煩悶のない人にとって善をなすことは可能かもしれない。(それは独善かしら)
一つ言えるのは、私のような人間に、自分を納得させる善をなすことなど不可能なのだということ。

……私の逡巡はこのようなところとなるのです。
かと言っておばあさんを無視する、見て見ぬふりをする、そもそも気づかないのも罪深いことです。私はもしその時声を掛けなければ一生後悔し、自分は最低だと思い続けることでしょう。現に私は、見てられなくなってもう何度も、重い荷物を持った方に声をかけたことがあります。」

Q.では、おばあさんに声をかけたとしてもかけないとしても、自分は最低だと思うのですか?

「はい、そうです。」


……その時、面接官は理解できないといったように顔を顰めた。もしくは、気の毒なやつだとも思ったのかもしれない。

だから私は続けてこう言った。

「でも、それが私の感受性なのです。仕方ないのです。救いようがないのです。
だから私はこの世界が生きづらくてしょうがない。
この感覚だって滅多に理解してくれる人はいません。


それでも私は、



…そんな自分を、愛してます」



後日、面接官の期待していた答えについて聞く機会があった。合否はまだわからない。面接官の期待する答えとしては「いや、自分は迷って、結局声をかけないかもしれない」というものだったようだ。
その方が人間味があって親近感がわくのだとか。
つまり私のような人間は、
つまりうずくまっている人を見て、
声をかけたいと思うような人間は、
人間味が無く、異常だということだろう。
…社会とはそういうものだ、今まで生きてきて何度も心で唱えた言葉を、私はもう一度繰り返した。

_____うんとひどい嘘、たくさん吐くほど、   嘘つきでなくなるらしいのね?
(human lost)


一つの仮定。