【自動運転社会を見据えて】地域公共交通政策は「東部戦線のドイツ軍」ではなく「長 篠城の徳川軍」ではないか

 少子高齢化が進む過疎地域、赤字まみれでどんどん縮小・廃止される路線バス、投入される赤字補助への批判、救いようのない感じがする中山間地の公共政策の中でも特に「筋悪」と言われる地域公共交通政策ですが、本当に救いの無いものなのでしょうか?

 自動運転技術が大きく進む中で、それが我が国の「地方創生」の根っこを支える地域公共交通にどう影響するか考えてみました。

 地方部を中心に利用者が減っている公共交通には、地域の人々の最低限の移動手段を確保する、という理由で運賃収入で賄いきれない「赤字」に対して、公的な補助金が投入されています。国費ベースで数百億円、自治体含めればさらに多くの公的資金が民間事業のはずの交通事業の赤字を補填するため、投入されています。

底抜けに拡大すると思われている公共交通への赤字補助

 この地域公共交通の補助金の話になる度に良く出てくる台詞が「財政当局が(拡充を)許さない」という表現です。
 これは、財務省にしろ、自治体財政当局にしろ、バスなどの地域交通への赤字補助というのは、だらだらと拡大し、ずっと続く財政負担、というイメージがあるからだと思います。
 これを予算要求する側も自明のことと捉えてしまって、収支率向上!と無茶を言ったり(人件費を削るか、サービスを削るかになりがちです)、他の路線の減廃便をバーターに差し出してしまったりということが起きがちです。

 例えば、全国の路線バス(乗合バス)事業の平均収支率は、平成28年の数値ですが、全国97%、三大都市圏除く地方部72%。ちなみに山形県はR元年度値で48%です。この数字を見ると、赤字補助を全部面倒見ていくのは無理だ!となるかもしれません。

実際の運送コストから見える自動運転普及後の未来

 しかし、こうした事業の運送コストの過半は人件費を占めます。
 そして、現在、すさまじいスピードで発展している自動運転はこの人件費コストを劇的に削減します。(あと、人件費の追加コストがほぼゼロになって、運行を増やせるので、収入も大きく増えるはずです。)
 例えば、人件費が80%減り、収入が20%増えれば、山形県のバス事業ですら赤字が消滅します。

 そして、自動運転が普及すれば、「自家用モビリティ」という概念がほぼ消滅する、というのは専門家のほぼ一致する見解でもあります。
また、走行ルートや時間帯の限定、追加的な安全規制のかけやすさ、個人よりも事業者の方が初期コストをかけやすい等の様々な要因で自動運転は公共交通によく馴染みます。

実は公共交通赤字補助は「援軍が来るとわかってる籠城戦」なのでは

 つまり、地域公共交通の公的赤字負担というのは、いずれ自動運転でも赤字になるような過疎地交通へのユニバーサルサービス負担くらいしか残らない、期間限定の負担と言えるのです。
 逆に、自動運転が普及したときに、既に地域が死んでしまっていたら、どんなに効率的な交通手段があっても地域がゼロからよみがえることは無いので、自動運転が普及するその時まで、なんとか耐え忍ぶ、ほとんどの地域における公共交通政策は、どれだけ戦術的勝利を重ねても最後には敗北しかない東部戦線のドイツ軍のような「終わりの見えない消耗戦」ではなく、徳川・織田連合軍がいずれ長篠の戦いで武田軍を撃破してくれるまで我慢してれば良かった長篠城のような「援軍が来るとわかってる籠城戦」というのが、実は、正しいのではないでしょうか。

公的負担の一時的拡大⇒投資増⇒技術革新⇒負担激減というあり得る未来

 逆に言えば、自動運転の普及スピードが速ければ速いほど、地域公共交通への財政負担の総額は減ります。
 そして、公共交通への投資額が増えれば増えるほど公共交通に自動運転を普及させる市場のインセンティブは高まります。

 つまり、地域公共交通へは、極論すれば、短期的にはとにかく赤字補助も含めてじゃぶじゃぶ公的資金を投入することが、そのまま総額としての財政負担の減少と交通技術・サービスイノベーションの進展と地方創生の三点を同時に達成する解決策に繋がるわけです。

マインドセットが技術革新のスピードに追いついていない?

 逆に、財政当局の意識が、目の前の負担にばかり目がいって、結果的に大損しそうな今の近視眼的思考から早く抜け出さないと、日本は技術イノベーションに取り残され、世界の進歩が遅れて国内に浸透する頃には、既にそれで救われるはずだった地方は荒廃しきって今更草も生えない、みたいなことになってしまうのでは、という焦燥感に駆られます…。

 また、財政当局だけでなく、業界所管の方を振り返っても、自動運転の国支援メニューを探そうと思ったら、国のHPのどこにも自動運転を支援するメニューをまとめた場所や資料が見当たりません。前は、内閣府とかにまとめたサイトがあった気がしたのですが…。
 地域公共交通政策をつかさどる国交省としても、自動運転を直接支援する予算措置をもはやほぼ持っていない(国交省自動運転戦略本部のHPはもうずいぶん長く更新されておらず、今年度予算要求資料にもほとんど出てきません)、という現状があります。(MaaSや観光地再生のような他の事業とのセットメニューではあります。)
 自動運転は既に公的支援から、民間投資で、どんどん進んでいくフェーズに入った、という認識なんでしょうか?あるいは、自動運転単体で支援する意義は薄れた、と?
 少なくとも、山形のような中山間地に特に大きな公共交通課題を抱え、民間投資だけで自動運転を進めていく余力は残念ながら乏しい地域としては、そういう認識からははるか遠い地平にいますし、自動運転の発展がもたらす産業・社会全体への波及効果を考えると、まだまだ全然直接支援していい時期ではないかとも思いますが…。

 地域公共交通への財政負担拡大への懸念とその対応(たいていの場合は、地方部赤字事業者を悪者にし、そうした悪者への鞭を中心に議論されます)はよく議論されます。でも、そうした状況を根本的に変えるはずの技術革新とそれがもたらすパラダイムシフトへの議論が本当に政府部内で議論されているのか、公共交通政策関係者としてはもっと真剣に議論すべきではないでしょうか。MaaSというキーワードが巷間かまびすしいですが、もっと基礎的な自動運転技術に目を向けるべきではないのか?と思う今日この頃です。

余談:「自動運転が進むから」と公共交通をないがしろにした先に見える地域の未来

 自動運転が進む未来を話すときに、よく聞く話として、「自動運転が進めば、高齢者や障がい者も不自由なく自家用車を運転できるようになるから、現在の自家用車依存社会のままでも大丈夫なのではないか?」あるいは「自動運転が普及すると公共交通を軸とした居住や観光に意味がなくなるのでは?」という想像です。

 これは、危険な発想だなぁ、と思います。

 現在、自家用車のほとんどは、一年間の総時間で数%しか稼働していません(駐車場に止まっている時間が圧倒的に長い)。自動運転が普及すると、駐車場に止まっている時間帯、人に貸したり、他の用途に使ったりできます。目的地に駐車場が無くても、車が勝手に遠くの駐車場に行ってきてくれます。トヨタ等の車産業が、現在、MaaSを筆頭とした公共交通モビリティ関連分野に多く投資しているのは、こうした「今の数%の車両台数で現在の移動ニーズを満たしてしまう」未来を想定しているからです。

 つまり、自動運転が普及すると、自家用車は基本的にはなくなります。そうなると、

・自家用車依存地域の中心市街地にあるたくさんの駐車場がすべて無価値になる。

・人の移動にとって一番のハードルが、「自動運転車両の呼び出しや乗り降り」になるので、手間が一度で済む、従来の公共交通向けの「歩けるまち」の利便性がさらに高まる。

・観光客の動ける範囲が無制限になるので、地域全体で多様な観光スポットを持ち、総合力の高い観光地が有利になる。(大多数に訴求する強い観光地がひとつだけ、という団体旅行向けの観光地は、その強い観光地が圧倒的に強くない限り戦えなくなる。)

 という、公共交通中心の歩けるまちづくりや、団体旅行減・個人旅行増を見越して、公共交通主体の観光開発をしている地域がさらに有利になり、自家用車依存の地域は、無価値になった駐車場を抱える虫食い市街地を抱え、郊外のかつての人気観光地は、周囲に様々なニーズを汲み取るマイナー観光地を育てられず、価値観の多様化で置いて行かれ、と衰退の道をたどることになるのではないかと思います。

 だからこそ、「時限的な負担」と割り切って、公共交通にしっかり投資し、自動運転社会にスムーズに対応できる地域を作っていく必要があるのです。

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