見出し画像

ハロー・ワールド

今日は誕生日
わたしがこの世界に生まれ落ちた日


思い返すと、昔から誕生日を楽しみにしていた記憶があまりない。
別に家庭環境がめちゃくちゃ悪かったわけではないし、誕生日プレゼントなんかも欲しいものをもらっていた気がする。
そもそも過去の記憶が薄い人間なので、それなりに楽しんでいたんだろうとは思う。でもあんまり覚えていない。

他人の誕生日にも大きな感情を抱いたことはなかった。
もともと他人への興味が薄い方で、未だに長年の付き合いのある友人の誕生日が曖昧だったりする(ここはもっとちゃんとしたい)。


なぜなのだろうかと改めて考えたときに、他人からの愛や、他人への感謝を感じることがあまりなかったからというのがあると思った。

昔から他人や世界への感謝ができていなかったように思う。通り一遍のありがとうではなく、心からの感謝を。
すべてが当たり前だと思っていた。
自分は何も返していないのに。
頑なに凝り固まった心で、誰もわかってなどくれないと思い込んでいたのだろうか。
「三つ子の魂百まで」とはよく言ったもので、なかなかこの気質は変わらなかった。


感謝と愛は密接な関係にあると思っている。
誰かからの愛を感じたとき、自然と感謝が生まれてきた。

私の場合、それは推しに出会ったことがきっかけだった。
普通の人は、家族や友人、恋人などの愛を受けて、それを実感するのかもしれない。
繰り返しになるが、自分が殊更に不幸な境遇にあったというわけではない。
ただ、そこにあったものの有り難さに気がついていなかっただけ。
むしろ、自分が直面したわけでもないのに、世界の、人間の汚い部分ばかりを感じてしまっていた気がする。

やっと愛を実感したのが、私「だけ」への愛でなかったのは、自分でも興味深い。
推しの愛はどちらかというと、慈愛・アガペー方面で、世界へ広く向けた大きな愛に近い。その範囲は一般の人より広いとはいえ、すべてを分け隔てなくというわけではないけれど、それでもその対象に自分も含まれていると感じられたこと(思い込めたこと)は大きな救いだった。
推しからの愛だけでなく、推しを取り巻く人々の愛にも、感銘を受けたかもしれない。



他にもあれこれあって、やっと人の愛に目を向けることができるようになったと思う。
両親も、友人も、私のことを想ってくれていたのだろうということに、やっと思い至った。
世界の美しさとありがたさを、やっと再認識できた。
それらに、少しずつだが感謝することができるようになってきた。

世界はそう簡単には変わらないけど、世界の見方は少しずつ少しずつ変えていくことができる。
そしてそれこそが、よりよく生きることにつながっていくと信じている。
愛や感謝は、一人では感じられない。人と人との反射が重要だと思う。
わたしはまだまだダメなところのある人間だけれど、それでもどうにか生きて、世界に少しでも愛や感謝を増やしたい。


「奇跡は誰にでも一度おきる だがおきたことには誰も気がつかない」
というフレーズがある。
最近読んだ、楳図かずおの『わたしは真悟』という作品からの引用だが、この作品は複雑で、このフレーズの意味しようとするところを読み取りきれなかった。

世の中に奇跡などないと言うことは簡単だ。すべては偶然で、神の思し召しなどどこにもないと。

しかし、そんな偶然に勝手に意味付けができるのが人間だと思う。

比較的平和で生きやすいこの国、この時代に生まれたこと
完璧ではないにせよ、そこまで悪いこともなく生きてこれたこと
この広い世界で、手遅れになる前に推しや音楽や友人に出会えたこと
これまで出会ってきた人々や創作物、環境に
この偶然に大きな感謝を


HELLO AGAIN MY BIRTHDAY
HELLO AGAIN MY WORLD


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?