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自分(らしさ)について:長田英史さんのテクスト分析から

 以前に、安冨さんの『ありのままの私』について読書感想の形式で、共同体――しかし結局「私=自分」についての予備考察の記事を書きました。今回はその続きに位置づけられるものです。

はじめに

 私にとって、安冨さんについての記事とこの記事の間には、フーコーの「読書ノート」シリーズがあり、大きな存在感を持っています。したがって、まずは、長田さんのnotoのテクスト(のごく一部)を、フーコーの真理概念を通して分析してみようと思います。と……形式的に書いていますが、私の記事ですから、いつものようにラフなものです。テクストを体系的に追っているわけではありませんし、整理程度のものです。それからなんといっても、不十分な理解、誤解が含まれているであろうことを強調しておきます。

参照軸:真理の4つの意味・形式

 「読書ノート」24回目にあるものです。フーコーが真理アレーテースや真なるものがもつ形式を(系譜学的に)整理したもので、分析の参照軸として使いたいと思います。ここでは読書ノートではないので言葉も少し平易なものに変えます。

① 隠蔽されていないこと
② 混ぜものがないこと
③ まっすぐであること
④ 堕落しないこと→幸福につながる

「本心を話す」について

テクスト分析

 本心を話すことについては、本当の自分を表現するとも言い換えられます。対置されるのは「嘘」を言うことなんですが、それは(周囲に対する嘘よりもまず)自分自身への嘘であると書かれています。
 私としてはもちろん、パレーシアとの隣接が興味深い――例えば、「本心を語ることはチャレンジである」と書かれるとき、それは明らかにパレーシアにおける「リスク」を引き受けることと関係している――わけですが、ここはグッと抑えて「真理の形式」と関連づけて考えてみましょう。
 テクストでは、嘘は真のない世界に結び付けられます。したがって、本当のことを語ることは真の世界に結び付けられます(本当の自分を表現することで世界とつながれる)。そして、もっとも注目すべきは「まっすぐ伝える」という表現でしょう。上記の③そのものです。
 また、フロムが参照され、「嘘の言動を示すことが、人の弱小感や劣等感の根源であると書いてい」ると書かれます。この点、改めましょう。

 フロムの該当部分(と思われる部分の引用です)

自発的に行動できなかったり、本当に感じたり考えていることを表現できなかったり、またその結果、他人や自分自身にたいしてにせの自我をあらわさなければならなかったりすることが、劣等感や弱小感の根源である。

『自由からの逃走』東京創元社、109版、288頁

 まず、「嘘」という言葉は使われていないのに気付きますね。「にせの自我をあらわさなければならなかったりすることが」が「嘘はの言動を示すことが」に言い換えられているわけですが、フロムとしてはそれはあくまで結果で、劣等感や弱小感の根源は、一義的には「自発的に行動できなかったり、本当に感じたり考えていることを表現できなかったり」することと書いています。
 実際、ここの文脈は、個人的自我の自発性をゴリ押ししている文脈で、フロムは「自我は活動的であるほど強い」とも書いています。逆に、弱さについての言及はありません。あくまで弱小「感」であり、嘘の言動を取っていると弱くなっていくというのは、長田さんの経験であって、フロムはそうは言っていません。また、「自分(らしさ)」と、フロムの言う「自我」がどの程度一致するのか、明確ではないです。とはいえ、今回の記事のテーマとはズレるので指摘にとどめておきます。

コメント

 自分が世界と結びつく、その実際の形はスペクトルムに表れるでしょうね。例えば、本心で話せる個人との結びつきなり、いわゆる心理的安全性の高い集団との結びつきなりです。私にとってそれらの具体的な表れは、重要ではありません。重要なのは、いずれにせよ「真の」結びつきであり、それは③だけでなく、①②の形式もともなった結びつきであるだろうということです。
 また、人としての「在り方」という表現は、そのような世界との結びつきは、ある種の〈生の形式〉であること――つまり、真の生アレーテース・ビオス(同じく24回目参照)についても同時に検討されていると考えて間違いないでしょう。……もっともこのことは先に分かっていました。なんといっても「生き方開発lab」ですからね。

「自分らしさ」について

参照したテクスト(ニュアンス抜粋)

 自分らしさは構築するものというより壊したときに湧き上がってくるものである。(本来簡単であるはずの)自分らしく存在することが困難なのは「行動パターン」を身に付けさせられているからである。行動パターンとは、常識や社会通念。自分らしさは、そのような雑多な行動パターンの寄せ集めや、その上に構築されるものではない。(そのような)余計なものを壊すことで表れる地面や地肌が自分らしさと言える。

コメント

 ごく些細な事柄を導入にしましょう。(抜粋元の)テクストで「常識を吟味にかけると浄化が起こる――ソクラテスの授業で知られる林竹二さんの言葉です」と紹介されています。えー……私は林竹二さんを存じ上げませんし、「ソクラテスの授業」(!?)なるものがどのようなものか想像もつきませんが、「浄化」というのはプラトンのピュタゴラス主義の影響が顕著な部分です。ソクラテスは、十中八九そんなこと言わないと思いますよ。それはさておき、フーコーは「浄化というアプローチ」はピュタゴラス主義以来、近代哲学に至るまで見られるもので、真理に接近するためには主体が、不純なものの場を構築する世界全体に対し、ある種の断絶を保ちつつ自らを構築しなければならないという考え、というように(21回目参照)言ってます。
 さて、参照したテクストを浄化という観点から整理しましょう。といっても、本筋はシンプルなものです。常識を疑う→浄化→真理。これについて余計な言葉を付け加える必要はないと思います。
 むしろテクスト中の本筋でない言葉/表現――「余計なもの」「雑多なもの」このような言葉は、非常に明瞭なかたちで示されている②の対置表現であると言えるでしょう。
 フーコーとの違いに敢えて注目してみると、フーコーは「真理は(混ぜものなく)構築しないといけない(と考えられてきた)」と言っています。他方、長田さんのテクストでは、(真理は)余計なものを取り除くと自然と表れるものというニュアンスで書かれているように思います。西欧との違いと言ってしまえばそれまでですが、少し立ち止まって考えてみると自然と表れるというニュアンスや「本来簡単であるはず」という言葉は①と結びついていると思います。つまり、本来の自分らしさというものが、常識(ギリシア人はドクサと言いました)によって覆われている。その覆いを取り除けば、真の状態が表れる、こういうことです。

「ありのままの私」との隣接

 きわめて限定されたテクストからでも、「自分らしさ」というものと「ありのままの私」との近さが見て取れます。少し整理すると、安冨さんが、「立場/役割」から離脱すべきと言うとき、長田さんが「常識」や「社会通念」を壊すべし(疑うべし)と言うのは、意味としては同じと考えていいでしょう。他方で、安冨さんの「美」に関するこだわり……以前の記事に言葉を加えるなら、いわばルッキズムの順転(反転ではない:ルッキズムから離れるのではなく別のルッキズムに切り替わること)は、長田さんのテクストに見られるでしょうか。長田さんは服(ファッション)について、「自分らしく生きたいなら自分の好きな服を着よう」と書いています。(その際、裸はあり得ない=服は裸を「隠す」手段という言及があったり、無難な服を着ることで自分を隠すこともできる――ただし隠しすぎるなという言及などは、極めて重要なので後で触れます)
 安冨さんの、真と善と美の観念的な結合よりは控え目ですが、美についても方向性は同じ(少なくとも反対ではない)と言えるのではないでしょうか。では、真と善の結合はどうでしょう。それは真理の形式の④にかかわること(善=幸福)ですが、自分らしくあること(①②③であること)は、「身体にいい」といったような表現があります。したがって、私は、④についても控え目な、しかし結合は見て取れると考えます。
 さて、あくまで形式的で暫定的な結論ですが、安冨さんの著書に対して同様、「自分らしさ」という概念には、虐殺器官に転じることを防ぐセーフティロックがかかっていない、としておきます(単にまだ発見できていないだけだと思います)。

「自分らしさ」についての吟味

 ここからは、上記を踏まえた私の吟味です。私の他の記事でお馴染みでしょうが、私の吟味において浄化は関心の埒外ですよ。

「自分-らしさ」という言葉

 ここまで書いてきてなんですが……シンプルに日本語として「自分らしさ」ってなんのことなんでしょうか。私には分かりません。普通の言葉のように使われているからさらっと読むことはできますが、まずはこういうところから躓いて考えてみる……いつものスタイルです。
 外堀から埋めていきましょう。そうですねぇ……(最近PCを自作したので)マザーボードについて、MSIらしさとかASUSらしさっていうのがあるのは感じるし、分かるんです。なんでもいいんですよ。テニスのラケットなら、ウィルソンらしさとか、ヨネックスらしさ、そういうものです。これらはブランドですね。特定の企業が戦略的につくりあげているものです。そのブランドにおおよそ一貫している特徴/欠点などが「らしさ」として、消費者が感じる(あるいは期待する)ものです。

第一段階

 一方で、「自分」というのは、捉え方次第ですが、基本は所与です。誰かにつくられたものではありません。あとは……ちょっと一般論になりますが、いくつか挙げてみると、いわゆる自己意識でもないはずです。自分には意識も無意識も含まれているからです。また、性格というような観点としては、かなり柔軟性のあるものです。つまり、時間経過で変わっていくものです。それから、ポンティ風に身体として捉えることはできます。ただし、その境界は思っている以上に曖昧です(血液は自分なのか、毛は自分なのか)。
 このような、捉え方が様々……ということよりも、どういう捉え方であれかなり曖昧なものに対して、「らしさ」という言葉が接合され、ここで躓いているのでしょうが、第一段階では、「自分」と「らしさ」を別々に考えてみましょう。
 自分らしさの場合の「らしさ」は、誰が感じるものなのでしょうか。ブランドの例だと、消費者なり、それに関わる人たちとなります。しかし、取り戻されるような「自分らしさ」。本来あるべき「自分らしさ」。長田さんのテクストにおけるこういった用途が示すのは、一義的には「自分」が「自分らしさ」を感じているという状態です。だからこそ「ありのまま」と並んで語られるのです。
 そうすると、(長田さんによって)問題にされているのは「らしさ」の方ではない、ということが分かります。「自分」の方です。自分とは、①思い込みなどによって隠され、②社会的役割などが混ぜられ、③まっすぐであることが難しく、④したがって堕落した(生きづらいまま生きていたり、自分に嘘をついている)ものということです。このような(いちいち述べられない)前提があったうえで「自分を壊すことで見つかるのが本当の自分らしさ」という文が成立しているのです。もちろんこんなことは、長田さんの読者にとっては、あたり前のことなんでしょう。
 さしあたって第一段階の締めとして、「自分」が「自分らしさ」を感じるという前提は、それなりに特殊であり、いわばAutismのような構造を有しているようにも考えられる点、留保しておきましょう。

第二段階

 さて、汚染された/構築された「自分」と、真的で本来的在り方としての「自分らしさ」の対置が明らかになりました。これを図式的に人為的な自分自然な自分らしさとしておきましょう。注目すべきは後者が(自然なという言葉の通り)むしろ所与と考えられていることですが、これは上記の特殊性の一つの帰結です。
 そして、所与が所与であるがゆえの曖昧さ(お好みなら現存在の被投性と言っても構いません)は素朴な形で考慮から外されているように思います(お好みなら企投的な在り方は理屈っぽいとして排除されていると言っても構いません)。ここでもまた、ありのままの名のもとに真善美の素朴な結合(形而上学の端緒)が感じられるところです。
 第二段階として注目すべき点は、A.自然な自分らしさというものの観念的な人為性です。そういう自分らしさって、ある種の理想という意味でものすごーく人為的だと思いませんか。もう一つ、B.自然な自分らしさが持つ構成的コンスティテューショナルな特性です。(研究の対象であり実践が試みられるような)在り方なんだから、構成的で当然だろうと思うかもしれませんが、テクストでは(明確ではないにしろ)そのようなものではないというニュアンスで語られているような気がします。これらについて私は端的に、真理の構成の試み(つまり人為である)と位置づける方がよいと思います(既に位置づけられているのかもしれません)。

第三段階:犬

 第三段階は、私の意見ではありません。キュニコイなら、「自分らしさ」をどう考えるだろうというものです。
 ①隠蔽されていないことについて――その生(在り方)において一切の矛盾や欺瞞を持たないことは可能だろうか。あるいはそのような完全に可視的な生は「自分らし」くないものではないか。だからこそ諸君は、服で裸を隠すのだ。自然な自分らしさは隠蔽を含んでいる……このことは悪くないが、しかし人為的な自分からますます離れることはできうるし、その徹底をものにしなければならない。
 ②混ぜものがないことについて――純粋、浄化といった観念は観念であることに留まらず、心理的/物理的な排除(現実的なことは考えたくない・落ち込んでいるので誰かに頼りたい・スピリチュアルな体験や興奮を求めているような人へのそれ)を伴うだろう……このことは組織化の実際として悪くないが、この点において既存の組織とどのように違っているのかに強く注意を向け続けなければ、諸君が壊そうとしたものとの差は紙一重である。
 ③まっすぐであることについて――まっすぐさは、確かに強さである。強くあるために、多くのモノは必要ない。そして周囲との摩擦、周囲からの悪評、不名誉がその強さをより確かなものにしてくれるだろう。
 ④堕落しないことについて――社会は堕落している。自然な自分らしさと強さを我がものとしたとき、世の堕落に対して介入すること。それこそが、真理を手にした王に授けられた使命であるが、それは立法者や統治者の使命ではない。諸君の目標は、人間を変えること……人間をその道徳的態度エートスにおいて変えるのみならず、それと同時に、人間をその習慣、そのしきたり、その生き方において変えることである。

さいごに

 予備考察としては、少しは前に進んだと思うものの、「自分」よりも「自分らしさ」がメインになってしまいました。まぁ、でもそれこそが「共同体」と「自分」との丁番になるものではないかと捉えています。
 第三段階は、余談のようなものです。本来のキュニコイなら、極端化による価値の反転を行うでしょう(例えば、「ありのままであること」と「自分らしくあること」は両立しないとかです)が、そっちは読書ノートで扱っていますからね。ちがったアプローチによる脚色です(一方で④はほぼ引用だったりします)。


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