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『7つの習慣』を読んでみた 1:誤

はじめに

 この記事はなんどか追記訂正を行っています。その際、私の読み落としなど、初歩的なミスもあったことも白状しておきます。その意味も込めて副題を「誤」とします。

 なかなか記事の更新ができいませんが「やりたい」とは思っているんですよ。そして、できれば「ビジネスと哲学」ジャンルがいい。ということで、適切かどうかは別にして『7つの習慣』を読んでみました。複数の記事になりますが、まだまだ夏は続きますからやってみようと思います。

 最初に読後の感想から……いい本だと思いますよ。話題はフォーカスされていて、正味繰り返しも多いんですが、自分を振り返ってみたときに、いろんな感想が浮かんだり、これからの人生のヒントを得るといった機会になったのですから、そういう意味で深みがあると思います。取り上げられている話題については後々整理していくとして、あえて一言(一つの観点から)でいうなら――例えば、ワークライフバランスって言葉がありますねよ。あれって、仕事をしている人にとっては関心事になりえますけど、逆に仕事に就いていない人にはなにも響かないと思います。この本はそういう本です。ビジネス書だから当たり前だろと思うかもしれませんが、本書は自己啓発書でもあります。ある意味、(世俗的)人生論なんですが、それでも響かない人には全く響かないだろう、と少なくとも私は思いました。ようするに一つ目の感想としては、(ベストセラーなのに)想定読者「狭っま」となります。

形式的な情報明示

 いつもの私のスタイルで恐縮ですが、テクストに向き合った諸状況を明らかにしておこうと思います。読んだのはスティーブン・R・コヴィー『完訳 7つの習慣(普及版)』2020年、キングベアー出版。
 このテクストについて、以下「本書は」と書きます。そしてスティーブンについては「著者は」です。さて、問題は「訳者は」なんですが、奥付を見るに、フランクリー・コヴィー・ジャパンという法人名になっていますね……ごく些細なポカミスを除いておおよそ訳文は完成していると思いますが、例えば、本書の明らかなキーワードの原文が添えられていなかったりで「不親切な訳だなぁ、誰やねん」とは感じていました。まさか法人とは。私の見識が狭いだけでしょうけど、こういうパターンもあるんですね。でも、訳文の責任が曖昧になるだけで、メリットなんてないと思いますけどね。
 読むにあたって、「完訳」を待っていたということはあります。実際はハードカバーで2018年に出ており、「普及版」というのはソフトカバー版だということで間違いないと思います。初版の副題は「成功には原則があった!」で、完訳版の副題は「人格主義の回復」です。この辺りは内容に関わるので一旦保留しておきます。
 原著のタイトルは「The Seven Habits of Highly Effective People」です。エフェクティヴというのはテクストでは「効果的な」といったように頻出するキーワードの一つになります。そうそう、初版は1989年ですが、15年後の2004年に著者による「はじめに」が加わっており、おそらく中身もある程度見直されていると思います(でもそうすると、「訳者あとがき」の2018年8月吉日という日付と前後しますけどね)。

 さて、私はこの本の存在を(完訳以前から)もちろん知っていました。「20世紀にもっとも影響を与えたビジネス書1位」であるとか、自己啓発系の本のいわば頂点で、これ以後の自己啓発系の本は焼き直しのようなもの(それぐらいすごい)という評価ぐらいは知っていました。また、関連書籍が沢山あったり、ネットの記事で……例えば(本書の中心的概念である)「インサイド・アウトの弱点」といった肯定的であれ否定的であれ多くの関連テクストがあるのを目にしていました。私はそれら一切に触れていません。興味がないからです。しかし、これはテクスト読解においては利点になります。有象無象の情報による先入見なしに、本体と向き合えるからです。それに加えて私には、色んな哲学者の本を読んできた経験から、著者の言説――言葉の選択や話の組み立て――に寄り添って/あるいはエポケー(無視)して読む技術が多少はあります。つまり、少なくとも一旦は内在的に読みました。批評に際しては、内在的に読んだ後、外在的に――例えば関連書籍をあたったり、既にある批判なども考慮すべきですが、そういうのはやっていません。面倒だからです
 つまり、大物相手に徒手空拳で体当たりしたといったところでしょう。これから、いくつかの観点から評してみたいと思いますが、内容の解説はしませんよ。有益なまとめはいくつもあるでしょうから。

明らかな間違い1:パラダイム

 こういう単なる事実関係は、はじめの方に済ませておきましょう。この種の明らかな間違いは本書の価値を(ある意味では)貶めるものですが、私としてはそういう意図は別になくて、たんなる情報整理です。
 本書の第一部がいきなり「パラダイムと原則」なんですが、テクストで、パラダイムとは的に言及されている箇所を見てみましょう。

パラダイムという言葉はギリシャ語に由来している。もともとは科学用語だったが、昨今はモデルや理論、認識、既成概念、枠組みを意味する言葉として広く用いられている。平たく言えば物事の「見方」であり、物事をどう認識し、理解し、解釈しているかである。

20頁

 まぁその、ツッコミどころは沢山あります。詳しくはクーンを取り上げた記事を読んでいただくとして、そもそもパラダイムは科学用語じゃなくて、「科学哲学」もしくは「科学史」の用語です。あと、たしかにギリシャ語(パラディグマ)由来ですが、クーンは(もっと後の時代の)ラテン語のパラディーグマ――文法の語形活用表(模範例)、こっちの意味を転用して使っています。
 本書では少し離れた頁で(科学史家として!)クーンの名前は挙がります(30頁)。それに続くパラダイムシフトについての記述からも、読解としてはクーン(『科学革命の構造』1962年)の用法――それが粗雑に世俗化したものとしてパラダイムという言葉を著者は使っている考えるのが無難でしょう。
 なぜ粗雑なのかというと、著者はパラダイムを、「地図」とか「眼鏡」などに言い換えます。そこまではいいんです。クーンだってパラダイムという言葉に振り回れて、そういう使い方もしてますからね。ただ、最も大事なのは、著者が「「7つの習慣」を本当に理解するためには、まず自分のパラダイムを理解し、パラダイムシフトの方法を知らなければならない。」(19-20頁)と書くとき……あるいは「人は皆それぞれ頭の中にたくさんの地図を持っている。これらの地図は二つに大別できる。「あるがままの状態」が記された地図(現実)、そして「あるべき状態」が記された地図(価値観)である。」(21頁)と書くとき、その行間にある前提――例えば「シフトは個々人(の意志)で行える」だったり「地図/眼鏡は任意に変えることができる」といったものが、クーンのパラダイムと抜群に相性が悪いということです。クーンはむしろそういうことができないということを言わんがためにパラダイムという言葉を使ったんです。パラダイムは個人でどうこうできるものではない、それゆえパラダイムは好きに選べない=簡単に変わったり、元に戻ったりするものじゃない、これらが『科学革命の構造』のポイントです。
 そういう文脈で、クーンの方は(別々のパラダイム/公理では)複数の真理が並存するという相対主義や、別々のパラダイムとの間の共約不可能性(そしてクーン自身はギリギリ到達できなかったガダマーの地平融合)などにつながっていく、という……現代哲学(メタ哲学)でも非常に有益な概念なんです。
 ところが、本書の内容はそういったものとことごとく相性が悪いです。一例ですが、本書の595頁で示される「成長の螺旋」=「上向きの螺旋を登るように成長していく」……そんな(二次元にすれば)右肩上がりの成長を否定したのがクーンとそれ以降の科学哲学ですからね。また、「インサイド・アウト」という発想そのものとの相性も抜群に悪いとも言えます。
 これがね、普通の本なら、「当時の流行語はやりことばだから使っちゃったんだね、残念」で済むのですが、世界的ベストセラーで、かつ現在でも売れ続けているとなれば……粗雑なパラダイム理解の再生産と、結果として現代哲学がとっくに乗り越えている相対主義の手前に(主にビジネスマンを)留め続ける――言い換えると、アホのままにしている、ぶっちゃけその原因の一つが本書なんでしょうね。

明らかな間違い2:エトス、パトス、ロゴス

 この間違いも相当なものです。ちょっと長いですが引用文にお付き合いください。

 古代ギリシャには素晴らしい哲学があった。それは、エトス、パトス、ロゴスという三つの言葉のまとまりで表される哲学である。この三つの言葉には、まず理解に徹し、それから自分を理解してもうこと、効果的に自分を表現することの本質が含まれていると私は思う。
 エトスは個人の信頼性を意味する。他者があなたという個人の誠実さと能力をどれだけ信頼しているか、つまりあなたが与える信頼であり、信頼残高である。パトスは感情、気持ちのことである。相手の身になってコミュニケーションをとることだ。ロゴスは論理を意味し、自分のことを筋道立てて表現し、相手にプレゼンテーションすることである。
 エトス、パトス、ロゴス。この順番に注意してほしい。まず人格があり、次に人間関係があり、それから自分の言いたいことを表現する。

486頁

 まぁその、ツッコミどころは沢山あります。そもそも、「エトス、パトス、ロゴスという三つの言葉のまとまりで表される哲学」ってのがあるなら、教えてくださいよ。知っていて明示しないというのは、読者に対してあまりに不親切でしょ。ただ、これは意図的でしょうね。だって、別の箇所でアリストテレスの引用があるのですから。
 で、該当箇所に戻ると管見ながら、アリストテレス『弁論術』のごくごく一部分のことだと思います(1356a)。そうだった場合、著者はここでも間違った理解をしていることになります。

言論を通してわれわれの手で得られる説得には三つの種類がある。すなわち、一つは論者の人柄にかかっている説得であり、いま一つは、聴き手の心が或る状態に置かれることによるもの、そうしてもう一つは、言論そのものにかかっているもので、言論が証明を与えている、もしくは、与えているように見えることから生ずる説得である。

『弁論術』戸塚七郎訳、岩波文庫、32頁

 こんなつまらないことを指摘すること/それを読むことはぶっちゃけ時間の無駄なんですが、取り上げたのには理由があります。余談になりますが……実は私は、本書の先の引用と同じ間違いに、全く別の(『7つの習慣』と関係のない)場面で出くわしたことががあります(最近のことです)。つまり、またしてもベストセラーが故に、間違いを再生産している/人びとをアホのままに留めている、その元凶の可能性があるということです。
 では、話を戻して――分類マニアのアリストテレスは、ドライに「説得には三つの種類がある」と書いています。いいですか。この時点で本書の主張したいことと大きなズレがあるんですよ。その証拠も提示しましょう(03b)。

説得手段については、それがどれだけであるかは、つまり、それが三つであること(中略)はすでに述べられた。すなわち、判定者たちはすべて、自分自身がなんらかの感情を抱くことによって、或いは論者を或る人柄の人物と受け取ることによって、或いは、弁論による証明が与えられることによって、説得されるのである。

『弁論術』304頁

 順番、違うでしょ。一つ目の引用は、エトス、パトス、ロゴスの順でした。二つ目の引用では、パトス、エトス、ロゴスの順です。
 第一に、アリストテレスは三つのいずれかの方法で説得できる/される。と書いているのであって三種類を網羅すべしというようなニュアンスは全くありません。第二に、当然ながら順番は関係ありません。当たり前です、どれか一つでいいんですから。第三に、(実際には背景に訳語の問題もあるのですが)アリストテレスはよい人柄であるように見えていたらいいとか、(話し手ではなく)相手がそう思ってくれたらいいとか、理屈が通っているように思われたらいいということを言っています。ようするに、著者の主張は、まるっきりでっち上げです。もしくは本書で推奨したいことの例としては極めて不適切です。
 くどいですが、私は論破とかしたいのではないんです。実際、まさに「人柄」として優れているのは著者の方であって、アリストテレスはそんな立派な人じゃないです。したがって、擁護もできます。著者は(少なくとも引用箇所では)アリストテレスの名前を出していません。もしかしたら、人から聞いた話だったのかもしれません。でも、『弁論術』かどうかは別にしてアリストテレスのテクストには触れているようですし、そもそも著者にとって思い入れがあるであろうこの本書で取り上げるにあたって、なぜ『弁論術』を読もうと思わなかったのか、これが不思議です。
 あるいは違う観点から――多くの人脈があったであろう著者に、誰一人この件を指摘しなかったのでしょうか? こんなことは実につまらない事で、単純に知っているかそうでないかだけのことです。それとも分かっていて事実でないことを書いているんでしょうか。アリストテレスって書いてないからOKだよね的な。その場合、本書の言葉を借りるなら、この件は本書の信頼残高にとってマイナスです。それよりも現実的なのは、著者があまりにエライさんで、周囲の人が(この件が本書の価値を貶めていることを)進言できなかったのかもしれません。その場合、著者の信頼残高は低かったんだろうと推測できます。
 私がこの記事でお伝えしたいことは、説得の順番とは、エトス、パトス、ロゴスなんだよということを言う人がいたとき、その人は誠実な人ではない可能性が高いということです。その人が単に誤解をしているからではありません。間違いであることを知って(こっちの方が分かりやすいからといった理由で)広めているか、あるいは、間違いと知らずに/知る必要性を感じず広めている――いずれにせよ人に影響力を及ぼすに際して誠実さがないから気をつけようということです。

まとめと次回について

 今回は、二つの事例を取り上げました。「揚げ足取り」だったでしょうか。ある程度はそうですね。だから最初の記事で片付けて、二度と触れないことにします。一方で「いちゃもん」ではないということはお分かりいただきたい。
 さて、次回はアプローチをガラリと変えて、著者が肯定的に、しかも今度はきちんと名前を出して言及するヴィクトール・フランクルについて、彼のテクストを参照しながら読解してみようと思います。

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