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ヴェイユに捧ぐ#1:ボエシへの付論から

 ヴェイユについては「哲学者の紹介」記事として仕上げます。その関連として、今回は「服従と自由についての省察」というテクストを扱います。

はじめに

 いきなりぶっちゃけますが、私はヴェイユをなめていました。具体的には、イタリアン・セオリーなどに拾われることで現代的意義がある少数のテクストを遺した思想家……したがって、バタイユみたいなもんだろうと思っていました。
 そういう軽い気持ちで、ヴェイユ研究の成果物である『シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー』河出文庫(2018年)を読んだわけです。アンソロジーですから選集なんですが、その中の「神への愛と不幸」というテクストにおいて私は打ちのめされました。ヴェイユは、私が紹介してきた哲学者たちにひけをとらないばかりか、第一級の哲学者です。
 これは、紹介記事にしなけれないと思ったわけです。幸いにも、過去の人ですから歴史的事実に関する資料には事欠きません。問題は、私のヴェイユに対する「理解の度合い」と「相性の良さ」ですが、後者は抜群です……自分で言うのはおかしいことを忘れるぐらい(少なくとも哲学としては)抜群です。それは前者を補うほどですが、とはいえ今まで全く触れたことのない人物であることは事実。慣れのために短いテクストからアプローチしよう――これがこの記事です。

テクストの背景

エティエンヌ・ド・ラ・ボエシについて

 昔の人ですよ……16世紀のフランス人でモンテーニュの友人です。32歳という若さで、流行病(赤痢かペストといわれています)で死にました。彼について一言でいうと、終生王国の体制とキリスト教の擁護者たらんと努めた司法官、といったところです。

『自発的隷従論』

 この本は、死後に出版……というより(モンテーニュが持っていたものの写本が出回るかたちで)流出したものですが、ボエシが16歳か18歳の時に完成していたものです。つまり、学生のときに書いたものですね。分量は多くないです。ちくま学芸文庫から出ていて、それには付論が二つ(一つがヴェイユのもの、もう一つはクラストルのもの)が併録されています。
 内容としては、国家が一者に支配されることの弊害を述べたもので、「なんでそういうことが起こるのか」への答えが(支配される側の)自発的隷従だ、というものです。ポイントは、絶対的な権威を持つ一者の支配は、支配される側の支えあって成立している、という分析です。もちろん、いくら短いテクストといっても、それ以外のいろいろな分析があるわけですが、興味があれば手にとってください。
 お伝えしておくこととしては、この本は、歴史的には「支配される側の自覚と、その帰結としての革命」が有効であることを示す古典として読まれていた時期があるということです。ただ、読めば分かりますがこのテクストは革命を扇動するようなものではないです。したがって、啓蒙主義時代の社会契約論の先駆的理論の書、というのが実際のところです。まぁ、だから実は、現代的意義は……私はないと思います。ヴェイユとの関係でいうと、彼女はまさに革命の書として読まれた時代にこのテクストを書いていたということです。

「服従と自由についての省察」について

 ヴェイユについて詳しくは、紹介記事にまわすとして、このテクストは二次大戦の前、ヴェイユが病気休暇をとっていた時期に書かれたものです。背景としてテクスト内でも言及される出来事としてパリのゼネスト――史上初めて選挙による社会主義政権を誕生させたものがあります。ところがそれは長続きせず、人々は(以前の)日常の生活に返っていきます。このことを考える上で、ボエシを参照してみた、ということでしょうか。ハッキリしませんけど。
 以上、簡単に事実や関係性を整理しましたが、以下の読解では、このような経緯をとりたたては気にしません。まずは、ヴェイユの考え=省察に触れていきたいと思います。
 引用文中〈 〉は私による補注、また「 」での引用文中のボールドは私による強調です。

読書感想

 ヴェイユは、ほとんどすべての社会組織に見られる基礎的な事実として「多数者が少数者に服従すること」の、いわば不自然さには、みんな驚かされるよね……ということから始めています。次に、人間には、意志とか知性とか信仰といった高貴な要素があることを確認した上で、「ここではそんなものは無関係だ」「ここに人間の精神などなんら関与していない」――つまり自然法則のように必然的に、支配者/被支配者という現実があるわけです。このような現実に対してボエシは、それを問題として提起したが「彼はそれに答えを出したわけではない」と言われます。
 それはたしかにそうで、ボエシは分析し、理想(自然/本性ネイチャー)の方向を示しただけですから。じゃあヴェイユはどのような結論を出すのか、読んでいきましょう。

服従の不条理

 ヴェイユは(ヴェイユにとって)現在の出来事として、ソ連のスターリン支配に言及し、次のように書きます。「多数者が一者に対して、その者に命令されれば死ぬことをも受け入れるまでに服従をつらぬくという事実については、どう理解すればよいのだろうか。服従が少なくとも反抗と同じだけの危険をともなうという状況で、いかにして服従が維持されうるのだろうか。」……ちょっと単純にして言い換えると、どうせ死ぬなら反抗して死ねばいいのになぜそれをしないのか、ですね。これはソ連みたいな大きな単位でなくとも、小さな集団でも、そして今でもよくあり得る状況ですね。
 「このような現象は、生存への本能的欲求によっては説明できない」し、いわゆる損得勘定――経済合理性でも説明できません(合理的に判断するなら、どのみち死ぬのでその前に敵に一矢報いることを選択する)。説明するためには「欲求という観念ではなく、力という観念」が鍵になる――この「力」は少し前で「社会の力」と書かれています。そういう力の観念から見ると……

多数の側〔服従する側〕につく者たちは、この状況は不公平きわまるのみならず、少なくともこの先は、近い未来であれ遠い未来であれもはや発生しえないということを〈自分自身に〉示そうと努める。他方、秩序と特権の維持を望む側は、軛などたいしたものではないということ、さらにはそれは〔服従する側の〕合意に基づくものであるということを証明しようとする。いずれの場合も、社会の仕組みがもつ根源的な不条理の上に覆いをかぶせている……

 この見解の基礎はボエシからのものでしょう。しかし、それ以上のものがあります。不公平から目を逸らすことと合意に基づいているんだと示すこと、どちらもあり得るわけですが、それが不条理なのではありません。もっと根源に不条理があり、それが一見では見えないように覆っているものだと言われているのです。

多数者はまとまれない

 服従する側の人間は常に数の上で多い……つまり支配するのは一人かあるいは少数者なんだから、「数は力」というのは真実じゃない、とヴェイユは言います。「数は弱さなのである」「民衆は、多数であるにもかかわらず従うのではなく、多数であるがゆえに従う」このことは矛盾じゃない。「命ずる者はまさにより少数であることによって、ひとつのまとまりを形成するのに対して、従う者はまさにより多数であることによって、個々別々のままにとどまる。こうしてごく少数の者の力が、多数者の力によって支えられることになるのだ」……「だがこのことから、多数者をまとめれば関係が逆転すると結論づけてはならない。多数者をまとめるということがそもそも不可能だからだ。」
 ヴェイユがこのように断言できるのは、あくまで推測ですがギリシャ哲学の常識からのことでしょう。しかし、ヴェイユは、いわば例外状態――上述のゼネストに言及して「われわれはこの種の奇蹟に立ち会った。その衝撃はいまだに冷めやらない」と言います。ところがそういう状況は一時的temporaryなものです。「そうした一致団結はいつも、すべての行動を中断させ、日常生活の流れをせき止めてしまう。この宙吊りの時間は長続きしえない。日常生活の流れは回復されなければ……ならないからだ。」
 大事な言葉が出てきました。「行動を中断」させること、あるいは「宙吊りの時間」、これらはヴェイユ理解において重要であるとともに、アガンベンが意味を加えつつそのまま使う言葉でもあります。

支配者側のうまい策略

 一時的とはいえ、多数者の一致団結は支配者側からすれば妨げるべきことです。ヴェイユが(支配される側が事を起こそう思う)「そのような感情は、わずかに芽生えたとたんに、いかんともしがたい自己の無力感によって抑えつけられてしまう。この無力感を持続させることこそが、支配者側から見たうまい策略の第一条件である。」と書くとき、実質的にフーコーのミクロ権力や生政治についての一側面を見通していると言えるでしょう。
 一方で、なぜ無力感を持つのでしょうか。「人間の精神は信じられないくらいに……外的な状況に応じてすぐに変化してしまう。服従する者、つまり他者の言葉によって自分の行動を決めたり、悲しみや喜びを感じたりする者が、自分は劣っていると感じてしまうのは、またまたではなくて本性によるのである。」この点には、ヴェイユの意見――ボエシは人間の本性に楽観的すぎる――が現れているとともに、外的な状況=社会構造に注目する、構造主義(あるいは制度主義)の先取りとも読めます。すごいですよね……まぁ、トロツキーと大喧嘩になるのもよく分かります。

二つの幻想

 そして直後のテクストです。「そして、〈社会〉階層においてこれと対極にある者〈=少数者〉は自分が優れていると感じるものだが、この二つ〈無力感と優越感〉の幻想はたがいに補強しあう。」注目すべきは、補強関係ではありません。さらっと書かれていますが、無力感にしろ優越感にしろ、それらは「幻想」あるいはフィクション、欺瞞だとヴェイユは考えています。人の生死に直接関わるような――そういう意味できわめて現実的な、そういう精神の状態(感情)は、幻想である。だからこそ「自己の内在的な価値〈肯定感〉に対する認識が外的な支えをすべて失ってしまった場合、英雄のように確固たる精神のもち主でさえ、その認識を維持することは不可能である」と書かれるのです。つまり、人の精神の可変性は、弱者だけの特性ではありません。英雄ほどの強者でもそうなのです。
 鋼メンタルという(現代の)言葉のバカさ、お分かりいただけるでしょうか。そういうのは、人間についてきわめて表面的なところだけしか見ていないってことです。
 さらに、ボエシにおいては支配と被支配が(素朴に)支え合っていると分析されているものが、実際には……いや、この言葉は適切ではありません……なぜなら「幻想」においてですから――つまり、内在的な認識の水準で支え合っているんだよ、というように深められています。

社会を統治している力とその敵

 「社会の力は、欺瞞なしには機能しない。だから、人間の生におけるもっとも高貴なものすべて、すなわち、あらゆる思考の働きや、あらゆる愛の働きは、秩序にとって有害なものになる。」この文章には解説が必要でしょう。まず「秩序」とは既存の社会秩序のことです。「高貴な」という表現は、ヴェイユにとっても肯定的なニュアンスです。したがってこの文章を言い換えると、〈思考することや愛することは欺瞞を機能しないようにし、社会の力を不活性化する〉――アガンベン風の言葉で恐縮ですが、意味はこういうことです。そしてヴェイユはさらにラディカルに「社会秩序というものは、どんなものでも、いかに必要であっても、本質的に悪である」とまで言います。
 さて、このような文脈で「思考がたえず「この世のものではない」価値の序列を構築するかぎりにおいて、それは社会を統治している力の敵となる」のは当然です。「この世のものではない」とは、直接的にはキリスト教的に使われている言葉ですが、単にオルタナティヴな、に言い換え可能だと思います。
 ヴェイユは(賢明にも)ニーチェに言及することはありません。ニーチェのいう「あらゆる価値の価値転換」と似ているようで決定的に違うのは、ニーチェのそれは「力への意志」(このタイトルの本はでっち上げでしたが、この概念がニーチェにあったのは事実です)であって、ヴェイユのそれは「力の敵」だからです。

根絶不可能な闘争

 一方でこの文脈は、(オルタナティヴな価値の序列を構築する)いわゆる革命闘争に肯定的ともとれるのですが、即座に否定されます。段落すら変わっていません――「だが、その同じ思考は、社会を転倒させ変革することを目指す企てにとっても、有益なものとはならない。」なぜでしょうか。ヴェイユによればそれは同じ欺瞞による力だからです――「その企ては、それに身をささげる人々の間で、成功する前からすでにして必然的に、多数者の少数者への服従、特権階級の無名の大衆に対する軽蔑、そして欺瞞の操作を引き起こすことになるからである。」
 ここからヴェイユの結論まではあと一歩です。ヴェイユは、抑圧されている人々がその状況を覆そうとするのを責めることはできないと言い、社会秩序側の人々が現状を擁護するのを非難することもできないと言います。そうだとすると、対立は無くならないわけですが、「同胞同士の闘争は、相互理解の不足に起因するものでもないし、思いやりの不在によって生じるものでもない。それはものごとの自然〈自然科学における物理法則のように「社会の力」〉によって生じるのであり、根絶は不可能である。」と言います。ようするに、支配と自発的隷属、および双方の闘争は無くならないってことです。そして「相互理解」を試みることやまして「思いやり」を求めても無駄です。そういうものは闘争の要因ではないからです。

ヴェイユの結論

 できるのは闘争を無理に抑えつけることくらいだと書いた後――「自由を愛するすべての人にとって望ましいのは、そうした闘争が消失することではなく、その暴力の程度がある限界のなかにとどまっているということなのである。」これがヴェイユの結論です。
 ヴェイユの見る社会の自然(対立関係)と、それへの人間の意志などの無関係さ……これらはテクストのはじめから一貫しています。ボエシが「答えを出したわけではない」と言われるのは、ボエシの立てた問いではなく、ヴェイユの立てた問い――人は革命のあとなぜ既存の日常に返ってしまうのか、に対してです。ヴェイユ自身は、そのことには早々に答えを出していて、いずれにせよ支配関係はなくなりません。だから、ヴェイユは逆に、ボエシが出した問い――なぜ支配関係が成立するのかには答えていない……というより、「社会の力」で片付けています。
 ヴェイユの結論は、ここではじめて使われる「暴力」というものの(構成的−立憲的ではなく)構造的な抑制です。いずれにせよ、テクストがここで終わっている以上、読解は前に進むことはできません。まぁ、こんなもんでしょう。少しはヴェイユの考えに馴染んだ、ということにしておきます。

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