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カント:『純粋理性批判』『実践理性批判』

カント哲学の現代的意義を一言で説明できる人はいますかー。はーい、いませんね~。では始めまーす(講師風)


はじめに

カントがみずからコペルニクス的転回に比した認識論的主観主義の思想はそれ自身としてはもはや決して現代的意義を有するものではない。それは先天的認識のみ真に学問的意義を有するという合理主義的前提の上に打ち立てられた思想であり、すでに過去のものとなった思想であると言わねばならない

岩崎武雄『カント』勁草書房

 解説本の引用からはじめました。この本、もう手にはいらないのかなとなんとなく思っていたんですが、ちゃんと新装版が出てますね。値段は10倍ぐらいになってますけど(物価)。
 さて、岩崎さんによれば、カント哲学の現代的意義は「(神のような)無限者の立場の哲学を、有限者的・人間的立場の哲学に転換」したこと、となります。
 ようするに、カントはカント以前の形而上学をぶっ壊して、形而上学を現代風に作り直しました。ただし、それは完璧に成功しているわけではなく、カント以後のドイツ観念論ではカントがぶっ壊したはずの形而上学に逆転する場面もあります(その原因は主に『判断力批判』です)。
 さ、というわけで哲学の大物カントです。すでに(引用を使うなど)ビビっている様子が見えているかもしれませんが、いつもどおりラフにいきましょう。ちなみに、『純粋理性批判』と『実践理性批判』の二冊を選定した理由はこれらがコインの表と裏だからです。

どんな人物

時代背景は特記事項がないので、こっちに吸収させます

ドイツの哲学者ではない

 ドイツ語の哲学者とは言えても、ドイツの哲学者とは普通言えないでしょう。そもそも、カントの時代にドイツという統一国家がなかったからです。生まれは東プロイセンのケーニヒスベルク(今の名前はカリーニングラード)。それはどこなのかというと、ギリギリヨーロッパじゃないといえるような場所ですね。東欧です。

職業的哲学者の原型

 いままで、デカルトとかスピノザを紹介してきましたが、私たちがイメージする(多くの場合大学に所属している)哲学者の、おそらく最初の成功事例にして、後の原型になったといえます。
 生まれは庶民で、22歳で両親を亡くしています。今でいう進学校(小中高一貫)で勉強して、ケーニヒスベルク大学に入学。大学生時代は、親戚からの援助やアルバイトするという苦労人ではありますが、キャンパスライフも十分に楽しんだそうです。卒業後は家庭教師とかで食いつなぎつつ、なんとか私講師(今でいうフリーランス)をしながら、教授職を狙うのですが、自分に合ってないのは断り、46歳で母校の論理学・形而上学の正教授になりました。ここで、出世というか、きちんと成果を出し、学部長とか学長にもなったわけです。

厳格な人柄/親しみやすい人柄

 カントは、生涯ケーニヒスベルクをほぼ出ることはなく、出たとしてもすごい近く程度でした。有名なエピソードとしては、毎日のルーティンがとても厳格で散歩に行く時間が正確だったから、ケーニヒスベルクの人はカント(の散歩姿)を見て時間を知ったというようなものがあります。あと、両親の影響もあり敬虔主義でした。
 ただ、なんとなくガチガチに厳格な人物を想像しちゃいますけど、そうじゃない面もありました。ケーニヒスベルクは港町です。しかも当時は栄えていて、マルチカルチュラルな都会だったんです。だから、カントも若いとき(貧乏学生時代)は派手なかつらをかぶったり、口紅をつけたりする社交界にも出入りをしていたようです。今でいうなら髪の毛を染めてピアスをあけたとかですかね。私講師時代の講義も、哲学に限らない広いテーマと話題でユーモアもあり、人気だったそうです。ちょっとは、カントの人物像が伝わったでしょうか。
 生涯独身は、哲学者あるあるですね。長生きしたんですが、晩年は今でいう認知症になり、家を訪れた弟子に「よく来てくださった。……ところでどなたさんでしたかな」という、これもあるあるな感じですね。

何をした

人生として

 後の世への影響を別にしたら、既に書いたように、大学の先生をしてあと、本をいっぱい出しました。それだけっちゃあそれだけです。

哲学者として

 こっちが、ヤバいわけですね。最大級の影響力をのこしたといえるでしょう。すごく簡単に言うと、ヒュームの「形而上学なんて原理的に無理なんだよ」という結論をむしろスタート地点にして、これまでの形而上学をボコボコにしつつ、人間が知りうること(限界)を基にした形而上学を一から作りました。しかも、当時最新の自然科学(主にニュートン力学・物理学)でもって、哲学を基礎づけたもんですから、哲学と自然科学の分断すらも調停したんです。
 ここで、「物理学」というのは、カントなりのこだわりポイントです。カントとしては、哲学を数学のように考えるのは間違いと考えます(おそらく、スピノザやライプニッツを想定しているのでしょう)。なぜなら、数学は定義があり、その答えは事実上定義に含まれているからです。それに対して(物理学をモデルにした)哲学は、具体的な対象を取り扱いながら、そのつど抽象的概念を構成し、最後に定義がくるというものと考えました。でもって、カントの有名な言葉「哲学ではなく哲学することを学ばねばならない」というのは、こういう思考のプロセスをフォローすることが哲学を学ぶということなんだよと言っているんですね。ようするに、哲学者が最後に出す結論だけを取り上げて○○は△△というテーマに対して××という結論を出したというように哲学を学ぶのは、間違いというわけです。そういうふうに考えるのは数学風でしょ、と言っているんですね。

『純粋理性批判』と『実践理性批判』

 カントは生涯でたくさんの本を出していますが、明らかに純粋理性批判以前と以後は別物です。純粋理性批判以前は、自然科学に関する本をいくつか出していたんです。純粋理性批判は大学の先生になってから出したもので、意図的にアカデミックな体裁を整えた本になっています。だから、テクニカルターム(専門用語)が多用され、専門的な知識がないと読めないものになっています。そうすることで、大学における哲学という地位を確立したんです。その際、当時最新の科学を基にしたことは書きました。これは、カントにとっては手段の一つでしたが、結果的には、哲学の使命は(自然)科学を既成事実として受け取り、そこに意味を見出すこと、という現在にもつながっている哲学の位置づけの原点にもなったのです。単純化すると、いままでは哲学が上でその下に諸科学、というイメージだったものが、(哲学を学問として守るために)諸科学の成果が先で、その後に哲学というイメージに変わったということです。
 カントの目的は、いったん純粋理性批判で片付きました。ただ、これはいわば理論上の決着です。カントは「純粋理性はそれ自体で実践的であって、普遍的法則(倫理的法則)を与えることができる」と考えます。実践というのは、普段の生活での行動のルールとして使える程度の意味で捉えましょう。で、実践理性批判を書くのですが、それは(実際の本の構成とは別に)純粋理性批判の構造を逆転したものになっています。つまり、純粋理性批判は、直観(現象の観察)→概念→原則なんですが、実践理性批判は原則→概念→感性(動機)という流れになっています。

命令と自由と自律

 一つだけ、有名な定言命法(kategorischer Imperativ)にだけ軽く触れておきましょう。この言葉の意味は単純に「無条件的な命令」です。具体的には、理性による人間の意志に対する規制(それに反することは意志することできない)のことです。そして、この命令は、(人が本来的に持っている)理性の外にあるどのような刺激にも影響を受けずに自分自身で呼び出すことができるもの、という意味で、自律的というわけです。ようするに、経験によらずに自分を律する規制を生み出せる(意志の自律)んだから、人は自由だよね、ということです。
 このような、「経験によらないで」という考え方は必然的に、次の効果を伴います。こういうルールは普遍化できる(だれにでもあてはめれる)よね、というものです。これも、現代に続く倫理の基本傾向になっています。

私見

 カントの意義は「人間的」立場からの哲学を構築したこと、だとしましょう。私は、この文脈で使われる人間的という言葉に、それ以外のものへの強い憎しみを感じます。理性がない(と思わるような行動や病気、欠陥)ものは人間じゃない。裁判などでもそういった判断がされることがありますが、その根源がここにあります。でも、定言命法なんて、ぶっちゃけカント(西欧の大学教授)が考えた命令でしょ。それがどのような状況でもどこのだれにでもあてはまると思うのは、傲慢ですよ。「どのような状況」という例としては、強盗に追われている友人が家の扉をノックして助けを求めたので中にかくまった。そこに強盗がきて友人が家の中にいるかどうか質問した。ウソをつくのはよくないことなので、中にいると教えた。するとどうなりますか? 友人は襲われるでしょう。誰にだって予想できることです。この例え話を、カントに反論する人が言っているのではなくて、カント本人が、ウソをつかない例として言っているんです。なんというか、よく自律とか言えるな……と思いますが、百歩譲って、私は、カントと友達にはなりません。実際に困ったときにかくまってくれないことが確定しているからです。逆に、カントが追われる側だった場合、(他の友人にはそんなことはしませんが)私はカントの正確な位置を襲う側に伝えるでしょう。

現代的評価:★

 上の私見はおいておきましょう。★1の理由は別にあります。
 一つ目は、構造的なものです。当時最新の科学に基づいて構築された哲学体系は、その基になった科学が進歩した(古くなった)場合どうなるでしょう。論理的に、価値がなくなります。そして、ニュートン力学は、古いです。哲学研究者の中に、カント哲学を現代物理学で基礎づけ直すという努力をしている人がいますが、論理的には正しいと思います。とはいえ、科学だけじゃなくて哲学だってその後の展開があるのだから、なぜカントで立ち止まるのかは、意☆味☆不☆明。
 経緯を書きましたが、アカデミックな体裁と膨大なテクニカルタームというのは、研究者以外にとってクソです。クソと言える理由は2つあって、まず、理解できません。こっちは単純なクソです。もう一方は、理解に多大な努力(時間的投資)を費やしたものを、人はそれに価値あると思ってしまうものです。しかし、その価値は思い込みです。もし、しっかり理解できたのなら、冷静にカントが言っていることと向かい合ってみましょう。わりと無意味な(か、現代では通用しない)こと言ってますよね。それはつまり、価値がないということです。こっちは複雑なぶん余計にクソです。

カントを大事にする人へ

 例えば、教育学(私は教育学について悪い印象はありません。むしろ親しいから目についたとお考えください)の分野で、カントの「自律」について研究、分析し、現場の教育に活かそうとする論文を目にする機会がありました。その研究に限らず、今、カントを読んだり、役立てようとする人は、一人の人間としてのカント、つまり、時代や文化、背景知識による限界に、目を向けましょう。カントは偉大な人です。しかし、偉大だからといって無条件に時代を超えることはできません。
 いや、どちらかといえば、そのように時代を超えれる(普遍性)とか、無条件にとか、そういう威圧的な言葉を使う人は、気をつけた方がいいです。理性に高い価値を置くだけでなく、人間であることの条件のように考えるからこそ、その条件から外れた人を人間以下の扱いができるんですよ。このことは、また、『啓蒙の弁証法』で取り上げましょう。
 ちなみに、純粋理性批判以後の著作は、純粋理性批判や実践理性批判の考えの発展です。同じ欠陥があると考えて、ほぼ間違いないです。

哲学研究者にとってのカント

 さいごに、擁護します。別にビビっているわけじゃないですよ。
 哲学をアカデミックに勉強しようとする人にとって、純粋理性批判ほどよい勉強材料はないでしょう。「ア・プリオリな総合判断」とか、「超越的と超越論的の違い」とか、原著とともに読むことは、よいトレーニングになるでしょう。書いてある内容とは別に、その過程で得たスキルは、アカデミックな哲学研究では大いに役立つと思います。これは、事実です。

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