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[読書ノート]11回目 2月16日の講義(第二時限)

講義集成12 1982-83年度 303頁~318頁

今回のまとめ

  • ピタゴラスイッチ(手紙を書く→読む→燃やす)

  • 哲学は学問じゃない

  • プラトンを全体主義的と読むのは馬鹿げている

ディオニュシオスが落第した理由

一つ目の理由

 ディオニュシオスは哲学の最初の教えを聞かず、最も重要な事柄をすでに自分が知っていると思い込み、それについては十分知っているのだからそれ以上修養を積む必要はない、と考えたから。単純には、哲学の長い道のりを辿ることができないということだが、非常に興味深く、重要なの【このようにフーコーが強調するの】は、でディオニュシオスが実際に哲学的な論考を著していたということ。時系列的にはプラトンの訪問以後に書かれたものだが、それに対して(第七書簡のなかで)後付的に、落第(の徴を)見て取ったということ。

哲学を「書くこと」の拒否

マテーマタの道程

 (プラトンの非難の要点は)哲学において最も重要な問いについて書こうと欲することは、哲学を何も理解していないことを示しているということ。このことは「第二書簡」(第七書簡よりも明らかに後世のもであり、新プラトン主義による翻案であるもの。また、全般的な主題は秘教主義エゾテリスム)では、プラトンの書くことエクリチユールに対する明確な拒否が表現されている。つまり、暴露すべきでないような種類の知があるということ。これは秘教主義的であるが、おそらく【プラトン以前からありプラトン自身も影響下にあり新プラトン主義でより顕著になる】ピュタゴラス学派の影響が作用している。
 プラトンによれば、哲学における本質的な事柄については語り得ないのであり、哲学的言説は、マテーマタ(知識)のかたちをとっている時には、それ自身にとっての現実、つまりエルゴンに出会うことはできないのだ。
 マテーマタとは、その内容の面から見た知識であると同時に、その知識がマテーシス――すなわち、師が与え、弟子が聞き取り暗記することで、その弟子の知識となるような定式の修得――において与えられるその仕方のことでもある。マテーマタの道程……教育され、学ばれ、それらが魂のうちに記入されたり堆積していくことで、知識となった定式の中で認識が形成されること。それらは哲学が通過する道ではない。※

 ここに違和感を感じるのは普通です。整理すると、①プラトン自身が哲学を書いている ②師は弟子に教えるものではないのか ③ウィトゲンシュタインを是とすると詰み……。といったところでしょうか。
 しかし、単純に科学的知識、あるいは学問的知との違いを示している、と捉えるととてもわかりやすくなります。いまさらですが、「哲学」あるいは「哲学者」と日本語で書いていますが、哲学は「学」ではないです。フィロソフィーとは単に知を愛することですから。したがって、社会学(ソシオロジー)とか心理学(サイコロジー)のように、末尾に「-logy」が付くのが○○学ってやつですが、それは○○の「ロゴスを扱う」と書いてあるのです。哲学(philosophy)を「ロゴスにしてエルゴン」であるプラグマータに対して、知識はロゴスのみを扱うマテーマタだ、というこの対比をおさえておきましょう。
 違和感の①についてもこの記事の後半で解消されます。③は詰みなので諦めてください。
 また、講義原稿では次のようにある。(哲学者のイメージとして)「相補的な二つの形象が遠ざけられる。まず、別の現実へ目を向けて、この世界から遠ざかるような哲学者の形象。そして、完全に書き上げられた法の一覧表を携えて現れてくる哲学者という形象。」

哲学の養われ方

 では哲学はどうやって伝達されるのか。彼(プラトン)はスヌーシアという、「共にいることであり、結合や接合」といった意味の言葉を使う。つまり、哲学の試練を受ける者は、「共に生き」なければならないのであり、哲学とともに「共存」しなければならない。哲学するものが哲学と共存することが、哲学の実践そのもの、そして「現実」を構成することになる。
 (プラトンは続けて)スヌーシアによって灯火【ローソク】に火が点るように――つまり、火を近づけた時に灯火が点るように、魂のうちに光が点る。そして灯火が点された時から、灯火はそれ自身を、またそれ自身の油を糧としなければならないのであり、魂のうちに点された哲学は魂自身を糧としなけばならない。このような仕方で、哲学は永続的に養われていく。

哲学をマテーマタで残すことについて

 もちろん、もし仮にそうしたことが可能であって、マテームのかたちで書かれ、伝達され得るなら、それほど世界にとって有益なことはないだろう、とプラトンは付け加える。しかし実際には、それは無益であるか、危険である。危険というのは、哲学にはそれ自身の実践以外の現実はない、ということを知らない人々が哲学を知っていると思い込み、その結果、何か厳粛なことを学んだとでもいったような、思い上がった空疎な夢想を持ったり、他者を軽蔑する心を持つようになれば、それは危険なことだからである。

認識と知識エピステメーについての理論

 プラトン自身による書くことの拒否の建設的な側面についてが上述の「危険」の直後に書かれる。それは、一種の認識論から始まる。

物事について認識を持つことを可能にする5つの要素(段階)

 ①名前②定義③模造イメージ、さらに方法として④知識……そして5つ目が「擦れ合い」。
 5つ目の認識のあり方は、事物そのものを、その固有の存在において認識することを可能にするもの。5つ目の認識が形成とは、他の4つの認識の段階に沿って【何度も】行き来することと、魂が事物そのものと親近性を持つこと。魂が、知識の他のさまざまなあり方に沿って、緩慢で長く、困難な上り下りの営みを続けたとき――つまり擦れ合いを実践したとき、その存在そのものにおける現実を認識することが可能となる。
 「擦れ合い」という言葉は、灯火に点される火のイメージに呼応し、想起させるもの。また同様に、一般的な意味においては、実践や訓練であるようなものでもある。

第三の循環構造:認識の循環構造

 第七書簡全体の問いである「単なるロゴスとしてではなくエルゴンとして思考しようとしたとき、一体哲学とは何なのか」に対して、聴衆の循環構造があり、現実と実践の循環構造があり、そしてここでは認識の循環構造とでも呼べるものがある。

再び書くことの拒否

 認識に5つの段階があり、その存在そのものにおける現実を認識することが、さまざまな認識の様態同士の互いの擦れ合いによってしかなされ得ないというのが正しければ、真面目な人はそうした事柄を著作によって扱うことはできないだろう。書くことエクリチュールは、知られていることや知るべきことに対してもろもろのマテーマタというかたちを与えるが、そのかたち(定式)は、いわば、すでにできあがった知識を、それを知るべき人に運ぶ道具である。
 したがって、書くこととは、いかなる仕方においても哲学的認識にとっての現実――認識のさまざまなあり方が、絶えず互いに擦れ合っていること――に答えることはできない。
 以上のことは、われわれにとっても重要であるが、そもそもプラトンに対して非常に逆説的なものである。もし哲学が実践され修得されうるのがマテーマタというかたちにおいてでないとしたら、哲学者の役割は決して立法者であることでもなく、また、国家がしかるべく統治されるために、その国家の市民たちが従うべき法の総体を提示するということでもない、ということになる。

書かれたものは真剣な関心事ではない

 プラトンはそのことを、344cのくだりではっきり述べている。「とすれば、以上からして……立法者によって法令について書かれたものであれ……ともかくどんなものにせよ書物を目にした場合には、いつも、こうと知らねばならない。つまり、書かれてある事柄は、筆者にとって、いやしくも彼自身が真摯であるからには、何も特に真剣な関心事ではなかったのであり、特に真剣な関心事は、むしろ、彼のうちの最も美しい領域に置かれてある。」
 ここに見られるのは、【プラトン自身のテクストである】『国家』のようなテクスト、そしてとりわけ『法律』のようなテクストを斥けるようなテクストである。

フーコーの仮説

 純粋な単なる仮説として私(フーコー)が考えるのは、プラトンが「神話というのは文字通りに信じるべきものではなく、ある観点からすればそれは真面目なものではなく、あるいは、それを真面目に解釈することに自分の真面目さのすべてを賭けねばならない」と言っているのと同じことが、プラトンが実現すること望むような国家に対して与えられた理想的な形態としてしばしば解釈されてきた『法律』や『国家』などの有名なテクストに関しても言えるのではないか。哲学の中にある真面目なことは、それ以外の場所を通過するものではないだろうか。哲学が語るべきことは、神話のゲームを通じて述べられるのと同じく、別のことを述べるためなのではないか。

現代の批判的な指摘についてのコメント

デリダのロゴス中心主義批判に対して

 書くことエクリチュールの拒否について話してきたが、先ほどの提案(仮説)のような意味を与えるならば、それは【本文中には明示がないが明らかにデリダ向けられた言葉として】「西洋哲学におけるロゴス中心主義の到来のようなものを見るべきでは決してない」、ということがお分かりいただけると思う。「物事はそんなことよりもずっと複雑なのです。」書くことが拒絶されているのは、それがロゴスに対立するからではなく、逆に、書くことはロゴスと同じ側にある。書くこと――書くことに結びついたロゴスの拒否は、肯定的な物事の名においてなされているのであって、それは、「擦れ合い」(実践、労苦、労役)、そして自己の自己に対する苦心に満ちた関係のある種の形態の名においてなされているのだ。
 そこに、哲学にとっての現実が、まさしく自己の自己についての実践にほかならないような哲学の到来を見ることができ、また、ある西洋的主体のようなものが、書くことの拒否のなかに関わっている

プラトン哲学の解釈の見直しについて

 『国家』や『法律』に「全体主義的な」政治思想の基礎や起源を見ようとするような読解については、完全に見直さなければならないだろう。あのカール・ポパー大先生※のかなり空想的な解釈は、当然ながらプラトンが述べる細部や複雑なゲームが実際にどのようなものかが考慮されているものではない。

 ポパーは、尊大な態度や露骨な自己認識のためにこのようによくいじられる。ここでの「大先生」や、ファイアアーベントのように「サー・カール・ポパー」など。プラトン解釈として該当するのは『開かれた社会とその敵・第一部 プラトンの呪文』。
 ポパーは、プラトンが真面目に書いていると思って読んでいるという点で、ある意味真摯ではあるが、書簡集含め、テクストの細部を読めていないという点で、極めてチープな読者であるといえる。もっとも、その種の不真面目さ=解釈の余地がある読解はまさに「開かれて」あるべきだが、表面的読解にもとづいて「敵」と断じるのは……控えめに言って幼稚といえるだろう。ポパーらしいといえばポパーらしいが。

 そして哲学の政治に対する関係が、強制的な言説でないとするならば、哲学にとっての真面目さとは、現実に対する実践のうちにあることになる。第七書簡は、哲学がそれ自身にとって責務でもあり現実でもあるエルゴンというものを定式化するのは、まさに自己を統治するという問題と他者を統治するという問題のつながりとしてであるということを示している。

今回は以上です。次回はプラトンが実際に行った助言を手がかりに、哲学者のポジションを明らかにしていく……のですが、一時限まるごと割愛するかもしれません。ちょっと、内容がつまらない上に、大事なポイントは、二時限目でも繰り返されますので。

私的コメント

 今回は、読解におけるヒントは注釈で述べました。ポイントは、哲学は学問的営みではない、ということに尽きるでしょう。これは一つの結論なのですが、一連の流れで述べられているので、前回(あるいは前々回)も見ていただければと思います。
 それから、「宗教との違い」については、基本的には第三の循環で解決したといえるでしょう。宗教はまさに認識において(カントの言葉を借りるのに躊躇がありますが)超越的になりますからね。ただ、逆に言えば、第一の循環と第二の循環だけでは、哲学と宗教家の違いがないともいえます。また、細かいことではありますが、ピュタゴラス学派が、秘教主義的という点では、宗教的なものとも依然つながってはいます。
 前回に引き続きになりますが、私たちが教科書的(まさに知識的)に知っていた哲学の特徴がバッサバッサと切り捨てられていくのは爽快ですね。この力量はさすがフーコーと、素直に思いますよ。ちなみに私だって『国家』の内容について「全体主義」と評していますから、まぁ、耳が痛いですね。
 その中のひとつ「書き上げられた法の一覧表を携えて現れてくる哲学者という形象」……今の時代、立法に哲学者は絡みませんが、例えば、倫理学的な側面。これはどうでしょう。しばしば哲学(者)が頼られる機会ですが、その際にロゴスとして正しさ(エシカルであること)を知っている人としてなら、その人は哲学者ではない。と言えるかもしれません。


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