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暴力の連鎖を法によって断ち切ることはできない

はじめに

 ここでいう「法」は、いわゆる国際的に認められたもの(=正しい暴力)です。そのため主権(者)が明らかになっていて、多くの場合はnation、あるいはその連合です。
 この記事は、もちろん昨今の世界情勢を念頭に書かれるものではありますが、敢えて約20年前の本――酒井隆史『暴力の哲学』河出書房新社、2004年の引用から始めましょう。
 先に言っておくと、この本の欠点は、いわゆるネオリベ批判に重きを置いていることによる時代遅れなところと、著者を知っていれば分かることですが、結局アナーキズムに希望を見出して結論にしているところです。逆に、良い点は、リアリティ――それゆえ地政学的に複雑な諸事情から一定の距離をとって暴力を理念的に扱っているところです。

序からの引用

「暴力はいけません」というモラルなら、だれでもいえるし、実際、あふれています。(中略)暴力はいけない、だから、暴力を憎むのだ、暴力をふるう者を憎むのだ、暴力をふるう者に暴力を――このような言表の連鎖を、「暴力はいけません」という言表は決して排除するものではない。

10-11頁

いま流通するようなかたちでのこのようなお説教的な言表がもくろんでいることは、この世界に満ちているさまざまな力を感受し腑分けする能力をつぶすことです。そのことによって、人は暴力に対する感覚を摩耗されているのです。

11頁

……それと同時に「暴力はいけません」という漠然としたモラルは、暴力の非対称性と(正しい)暴力の肯定を容認する一つの動力である(14頁)

暴力と名指されている行為は世界にあふれています。しかしたとえば、国際的にもいくども非難されている占領地においてタンクでもっていきなりパレスチナ人をひき殺す強大なイスラエル軍の暴力とパレスチナの子どもが握りしめた石をそのタンクに投げつける暴力が、あるいは手榴弾を身体に巻いて警察の前で自爆する若者の行使する暴力が同じ力なのでしょうか?

11頁

 引用は以上です。「序」しか読んでないだろと思うかもしれませんが、最後まで再読してます。そして、ご紹介したいと思う箇所を中心にまとめもしましたが……記事にするほどのことでないと判断して削除しました。この本がつまらないというわけではないので(文庫本にもなっているようですし)興味がある方は直接読んでいただければいいかなと思います。控えめに言って、一昔前の哲学的な文体が鼻につきますが、良い意味で難しい文章ではありません。まぁ、だからこそ解説もいらないってことになるんですが。

取り上げたいポイント

「暴力」について考える力

 取り上げたいポイントの(きわめて程度の低い)一つ目は、この記事のタイトルの通りです。覇権国家や国家の連合による干渉や、戦争(そして実質的にそれとイコールである反戦)志向が暴力の連鎖を焚き付けることはあっても、その逆の効果を持つことはないってことです。付け加えるなら、いわゆる「政治」も、その主語が国家であるかぎり同じことです。
 その他の現実的アプローチとしては、経済(制裁/支援)があるでしょうが、そのお金は食料などよりも武器に使われるんなら、これまた火に油を注いでいることになります。あるいは宗教、もしくは信仰……これはまぁ、どっちかというと原因側の要素ですからねぇ。
 経済と宗教はさておき、問題は、こういうことはとっくの昔に分かっているのになぜ未だに世界各国とそれらの政府で働いている多くの人――およびメディアやいわゆる知識人といった周辺の人々は、日々多大な努力を重ねているのか、ということです。
 酒井が強調し、私が取り上げたいポイントの二つ目は、そういう現象への一つの答えといえるものです。すなわち、「人は暴力に対する感覚を摩耗されている」からというもの。
 私も含め、暴力を腑分けすること、その質や効果について考えること、ざっくり言って「暴力の哲学」が足りないか、ほとんどない。これは現代における知的貧困といえるでしょう。

テロかどうかは関係ない

 ここでいう「腑分け」は、特定の暴力について、それが正当なものかそうじゃないかということについてではありません。言い換えると、テロなのかそうじゃないのかは関係ないってことです。私、そして多くの読者は、幸いにもいまのところ世界的な暴力沙汰の直接的当事者(加害者/被害者)ではないはずです。それゆえ、距離を保って考えることができます――ちょっと話が逸れますが、直接的当事者であれば距離を取れないものです。あくまで想像ですが、家族が犠牲になれば私は参戦するかもしれません。
 距離を保って……つまり冷静に考えれば、現実の破壊的暴力があり、それへの報復的、もしくは防衛的暴力があったとして、どちらか一方をテロと(国際的に)レッテルを貼ることになんの意味があるんでしょう。いや、やりたいことは分かります。テロと呼ぶことで非難の対象をつくれますからね。それによる副次効果も沢山あるでしょうから。
 今回注目している、テロというレッテルの問題は、物事を単純化しているということです。ざっくり言えば、考えなくていいようにしている。暴力の歴史的背景や、いわゆる構造(体制)を切り捨てているともいえるでしょう。もっとも、背景を知ったところで解決はできないでしょうが、少なくとも私は、背景も知らずに一般的にテロと呼ばれている方を非難するのは馬鹿だと思います。
 もうひとつ、こっちの方が大事だと思うのですが、ぶっちゃけテロかどうかは関係ないです。だってどっちもテロなんですから。酒井が考えるべきと著作で示唆しているのは、その暴力によって成し遂げようとしていることや状態です。これは、いわゆる「大義」と確かに重なる部分もありながら、それとは違っている部分もあることに注目しなくてはいけません。
 そして、そのような「目的」が主権の確立/奪取でない場合、暴力はエスカレーションしない、と酒井は書きます。明らかな、アナーキズム的楽観主義と思うものの、歴史を見渡せば、暴力がそのように収束した事例もなくはないです。この点について、私としては態度を保留しておきましょう。

法は平和をもたらさない

 これは、そこそこ複雑な話です。いくつかの観点を挙げると、どこの国がどの事案で拒否権を使ったか、それぞれ事情はあるでしょうが、ようするに国際法を機能させることができていません。各国のお偉方の時間が盛大に無駄遣いされているだけです。
 次に、どこの国とはいいませんが、ダブルスタンダードが過ぎます。民主主義を応援するはずが、民主的な政権をテロと言ってみたり、明らかに民主主義でない国を支援し続けたり、その支援疲れをしてみたり……理念を掲げるなら、完璧とは言わないまでもある程度徹底してもらわないと白けます。
 あと、最初の方のテーマに戻りますが、法のゲーム=国家のゲームは、しばしば暴力を一方的なものにします。一方的な暴力による解決を、私は平和とは思いません。
 最後に少し話がズレますが、紛争なり戦争なり、はたまた世界大戦なり……バブリーな話だなと思います。人(人類)はこういうことにはお金をジャブジャブ使いますよね。貧困の撲滅なんか、ガチの夢物語なんだろうと――言い換えると、実際には本気で取り組むつもりのないテーマなんだろうと思います。そういうのを綺麗事というんですよ。

さいごに

 今回は「哲学」の名前こそ出ているものの、哲学的な視点をメインのテーマにしませんでした。ベンヤミンとかシュミットとか、いろいろいますけど、私たちにとって大事なのは、現在の暴力とその趨勢です。約20年前の本を題材にしたのは、私たちは暴力についての思考を(おそらくは近代国家成立以降)ほとんどほったらかしにしているというのに気付かされたからです。一方で、時代は変わりました。ある種の経済的グローバリゼーションも、ネオリベラリズムも過去のものです。そういう時代にはそういう時代なりの(狡猾な)暴力がありましたが、現在は違います。それに対して、シニカルな見解しか言っていないのがこの記事ではありますが、それは私なりの意見を引っ込めた結果です。
 ただ、改めて思うのは、現実の暴力に対して、哲学やその周辺的なウンチクというのは無力なものです。テロの語源(はじめは体制側に対して使われた)とか、どうでもいい話ですからね。まだ歴史の方が役に立ちます。
 そういう意味では、正義論だったり倫理学よりの話も、屁の突っ張りにもならないな、とも思います。

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