[読書ノート]13回目 3月2日の講義(第一時限)
講義集成12 1982-83年度 367頁~381頁
今回のまとめ
パレーシアの悪しき分身――追従
弁論術はAだろうがBだろうが、説得したい方に説得できる
イデオロギー分析よりも、真理のゲームの歴史と見るべき
(フーコーはこれまでの講義の要点を振り返り)パレーシアの直接的かつ一様に肯定的な価値が揺らぎ始める地点から詳細に話を始めていく。
追従とパレーシアとの対立
沈黙の掟
もしパレーシアにおいて、(民衆に対してであれ君主に対してであれ)本当のことを語ることが危険となるなら、そしてもし彼ら(民衆や君主)が本当のことを語ると主張する人々をあまりにも脅かすなら、あるいは、彼らが自分たちの前にいるパレーシアストに対して節度を保つことができないなら、誰もが口を閉ざす。誰もが恐れてしまうからだ。
偽りで歪められた言説
というよりむしろ、その沈黙は満たされているもの。パレーシアの悪しき模倣であるような言説によって満たされることになる。つまり、君主や民衆に向かって、本当のことであるように見せていることを語るふりをするのだが、それは、すでに出来上がった民衆や君主の意見を繰り返し、それを真実であるかのように示す言説である。それは追従と呼ばれるもの。パレーシアに対立する追従の問題は、ほとんど8世紀間にわたって政治的な問題、理論的な問題そして実践的な問題だった。(フーコーは、現代における出版の自由や言論の自由と同じぐらいの重要なものだったと説明を加える)
弁論術と哲学のあいだの大きな亀裂
では、一体誰が(偽物ではない)パレーシアを用いることができるのか。このことをめぐって紀元前5世紀と4世紀の境目の少なくともアテナイの文化を出発点にして争点でありつづける。
弁論術とは
言葉の技芸――教えることができ、他者を説得するために用いることができる言葉の技芸、そして同時に、弁論家が良き人間でなければ完全に実行し、実現し、遂行することができないような言葉の技芸としての弁論術は、「真実の語り」についての、またしかるべく語り、その言説が説得的となるような技術的条件のもとで語る技芸そのものとして自らを提示しうるもの。つまり、弁論術は実際にそうしたパレーシア、「真実の語り」に固有の技術として現れうる。
対して哲学は
それに対して、哲学はパレーシアの新しい要求に応えることができるような唯一の言語実践として姿を現す。その定義からして幾人かに語りかけ、大多数に語りかけ、集会に対して語りかけ、制度的な領域の内部で作用する弁論術とは異なって、哲学的パレーシアというものは、個人に対しても同じように語りかけることができるからだ。【新しい要求に応えるとは、これまで見てきたようにパレーシアが必要とされる場が民主制下ではなく、君主の魂の場になったことに対応できるということ】
また、哲学は、弁論術と対照的に、本当のことと虚偽を見分けることができる唯一のものとして姿を現すことになる。パレーシアが、追従として現れてくる自分自身の影を常に追い払わねばならないとすれば、まさしく哲学以外の何が、そのような区別ができるだろうか。
弁論術の目標、目的、作用
弁論術の目標は、真実によってであれ虚偽によってであれ、正義によってであれ不正によってであれ、また善によってであれ悪によってであれ、聴衆を説得することができるかどうかという点にある。
弁論術とは、権力を行使したい人間が、民衆、首長や君主が望むことをそのまま繰り返すための道具であり、人々がすでに納得していることについて説得することを可能にする手段である。【あるいは逆の特徴もある】弁論術とは、それを聞く人々の意志とは関係なく繰り広げることができ、またその効果を上げることができるものである。いわば聴衆の意志をおのれに反してとらえ、それを望むままにすることこそが弁論術の作用である。【フーコーは、哲学が聞き取ってくれる聴衆がないと成立しないということと対照的に示している】
再度、対して哲学は
哲学はパレーシアの独占的な所有者として現れるのであり、それは、魂への働きかけ、魂の教導として現れる。そして哲学は、すべての人々の、また相手に関係なく誰の魂をも納得させる説得の力である代わりに、魂がしかるべく真実と虚偽を区別できるようにし、また哲学的な教養にとってそうした区別を行うために必要な手筈を与えることができるようにする、ひとつの操作として現れてくる。
フーコーによる研究主題の概略についてのコメント
ここ【弁論術と哲学の違い】を出発点として、古代思想からキリスト教の発展に至るまでの主要な側面のいくつかについて、俯瞰的な視点を得ることができる。
「真実の語り」の場所はどのようなものか
「真実の語り」はどこにその場所を見出すのか、そしてどのような条件において、その場所を与えることができるのか、また与えるべきなのか。(具体的には)どのような政治体制が、そうした「真実の語り」に対して最も好意的なのか。民主制なのか、君主制なのか、あるいは専制的な帝国の体制、また元老院の影響や役割によって釣り合いが取れているような帝国の体制もあり得るだろう。(物理的な場所としては)君主を教育するために、君主の次の間にいるべきか、それとも元老院のような集まりの場にいるべきか、政治的な会合や、哲学の学校にいるべきか。あるいは、キュニコス派のように公共の場でソクラテス的な振る舞いをすべきなのか。これら「場所」の問題は、哲学者においてであれ、道徳家においてであれ、歴史家においてであれ、一連の問いかけのすべてに[結びついて]いるように思われる。
哲学と弁論術との存在様態の違い対立
そこで対立しているのはただ単に二つの技術、二つの語り方なのではなく、実際に二つの言説のあり方であり、本当のことを語っていると主張する言説と、他者の魂の内部における説得というかたちで真実を操作していることを主張する言説という、二つの言説のあり方。
真実の言説の存在論における三つの問い
私(フーコー)が思うに、形式的だけであるだけでなく歴史的でもあるような分析に値するのは、真実の言説の〔複数の〕存在論とでも呼べそうなものの問題である。それに対して(強調したいのは)、それが真実を語っているのか虚偽を語っているのかを決定することを可能にするような、もろもろの認識の歴史という尺度からそれを測定するにとどめるべきではない。つまり、(それがなぜ真実の代わりに虚偽を語っているのかを問うような)観念形態の歴史、以外の尺度と視点から分析される価値があるだろうからだ。真実の言説の存在論の歴史において少なくとも次のような三つの問いを提起できるだろう。
①他のすべての言説のうちで、これこれの言説が、ある特定の真理のゲームを現実のうちに導入するとき、その言説固有の存在様態はどのようなものか。
②真実を語る言説が、それが行使する真理のゲームを通じて、それが語っている現実に対して付与する存在様態とは、一体どのようなものか。
③真実を語る言説が、それを語る主体に課し、その主体が特定の真実のゲームをしかるべく行えるようにする存在様態とは、一体どういうものか。
行為する資格の原理に関係づけられるフィクションの歴史
これら三つの問いの提起が意味することは……a. あらゆる言説、あらゆる真実の言説は、本質的にひとつの実践と見なされるだろう。b. すべての真理は真実の語りのゲーム【そのルールや制度】をもとにして理解されるだろう。c. あらゆる存在論はひとつのフィクションとして分析されるだろう。
次のように言い換えることもできる。a. 思考の歴史というものは、常にもろもろの単独的な発明の歴史でなければならない。b. 思考の歴史というものを、真理という指数に応じてなされる認識の歴史や、また現実という基準との関係においてなされるイデオロギーの歴史から区別するには、c. その思考の歴史は、ある自由の原理――その自由は存在する権利としてではなく、何かを行為する資格として定義される――に関係づけられる存在論の歴史としてなされねばならない。
今回は以上です。せっかく弁論術と哲学の違いに入ったのにフーコーが今後に研究したいことを語り始めて、語り終えたので、きりのいいところで回を改めます。次回は、プラトンのテクストにおける弁論術と哲学の「違い」をガイドラインにしつつ、哲学に固有なテーマを明らかにしていくことになります。ただ、次回に関しては字数が多くなるかな。減らす努力はしますが。
私的コメント
まずは、概観が述べられる「弁論術と哲学の違い」ですが、これまでの講義でちょいちょい触れられてきた部分は、この記事で合流させています。すごく簡単にまとめると、弁論術はパレーシアの役に立つけど、多くの場合その逆……つまり「追従」のパフォーマンスのための技術だよね。あるいは、弁論術とパレーシアは両立するけれど、目的じゃない(むしろ「率直に語る」ことは弁論術における一つの手段、技芸)といったところでしょう。
それでまぁ、後半のフーコーが研究したいことの概略ですが……最初の方は、読んだ通りの理解でいいと思います。ややこしいのは「三つの問いの提起が意味すること」以降です。直前の①②③と連動しないので、アルファベット(a. b. c.)で整理しましたが、キーワードはフィクション、あるいは(真理の)ゲームです。a. は、科学哲学的な発想で、何を真実(事実)にするかというのは(例えばパラダイムの)発明だ、ってことです。b. については、講義の中で「この点について、歴史的なもろもろの分析は、地味とは言わないまでも比較的不十分であったように思われる」と言っているのですが、例としてイデオロギー分析では、真理とそれに付随するルール(数学でなら「公理系」といわれるような)として思考を捉えることができないというネガティブな指摘ですね。何が正しいとか、どっちが正しいとかでなく、(ある種の相対的な)真理のゲーム(のサバイバル=進化論的なもの)として思考の歴史を捉えることができるよねということです。c. は明確にフーコー自身がやりたいと思っているもので、「あらゆる」は(彼に残された時間的に)無理でも、「主体」がフィクションとして存在論的に歴史上現れることについては、今後の講義で明らかにすることが試みられるものです。
えー……これぐらいで勘弁していただけますか。
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