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読解『アイデンティティと共生の哲学』1

 前提事項については関連記事(導入)を参照してください。この記事から、私なりの読解を行っていきます。その際、テクストの中身、著者の主張や内容にあたることを(都合よく)捨象するために、私が必ずしも得意とするところではない、いわゆる構造主義的な方法を使うことにします。形式的には、『アイデンティティと共生の哲学』を歴史的な文脈や書かれた経緯といった通時的な側面を無視し、一つのサブジェクトとして扱うということです。
 読書ノートとの違いでいえば、対象のテクストがお手元にないと成立しません。まぁ、でもそれは原則なんで、気軽に楽しんで頂ければと思います。言いたいことは、読解記事を読んでも、『アイデンティティと共生の哲学』に触れたことにはならないということです。
 (数字)は該当するページ数。引用の場合は、「 」かnotoの引用機能で区別します。

はじめに

 テクストに対しては上述のように扱うとして、私とテクストとの関わりについて、最初に述べます。これは私のパレーシアに関わることと思ってください。まず、この著書を私は大学院生時代に研究費で購入しています。私の専攻が人間共生であるならば、妥当な使い道でしょう。ただし、「序章」で読むことを断念した形跡が残っていました。皆さんにお伝えしたいのは、序章以降に目を通したのは、ごく最近で、それまでに書かれた私の記事には(読んでいないのですから)影響/関係がないということです。
 したがって、テクスト内の諸テーマ――例えば、「私=私」という自己同一性というのは差別する側の権力構造(220)という主張や、出来事を三人称の存在とむすびつける(234)といったこと、また、大きな話としては「近代批判」、小さい話としては「市民化」と「文明化」が西欧語ではおなじ言葉であることについて(348)、網野善彦の「無縁」についての肯定的な言及(405)といった、私がこれまで記事の端々で扱ってきたこととの共通点が多くあったことは、文字通り驚きの連続でした。
 もちろん、同意することが到底不可能な事柄――意見の水準ではなく、哲学のベースという水準のそれも多くありました。こちらの側面は、今回の読解の試みでは重きを置きません。何点かだけ取り上げるだけにしたいと思います。

後付けアドホックな事実認識の違い

 読解に入る前に、時系列に関わること――テクストより未来にいる私たちだから分かること(事実認識)の齟齬について、一点に絞って指摘し、根底の思想(思考様式)についても一点、指摘します。
 著者は、和田春樹を引きながら(現代という言葉で言い表される特定の)時代の総括/流れを要約します。それをさらに要約すると――①世界大戦と冷戦の時代は「戦争の時代」、②冷戦後を「世界経済の時代」(著者にとっての現在)、③そしてその「あとにくるであろう現代史の第三期」(401)を、ざっくりいって共生の時代にしないといけないと述べます。著者はこの②〜③の移行期について多くの提言を書くのですが、例えば……

和田春樹いうように、「世界経済の時代」が来ていて、その主役が日本であるとすれば、経済成長と生産力の発展、自国経済の一方的繁栄のために他国の資源と安い労働力を搾取するといったふるまいを批判する経済倫理が日本人にはとりわけ緊急に必要である。

404-405頁

 この事実認識は、内容としては間違っていません。そのような「経済倫理」を当時の日本は得ることはできなかったというのは反省点とも言えるでしょう。とはいえ、逆に言えば、そういう搾取にブレーキをかけることがなかった末の(私たちにとっての)現在の日本は、世界経済の主役どころかかろうじて脇役に留まれるかどうかのところにいることを知っています。これは、後付けの評価ですが、著者が想定した事実認識は(こういう意味では内容的に)間違っており、それに基づいた提言に現代的意義は当然ありません。さらに著者は①→②→③を不可逆の流れであると、想定しています。それについても、これまた後付けですが、現在私たちはむしろ①の時代に生きているのですから、③という時代区分そのもの(およびその特性の一つ、国家という単位が不要になっていくなど)が、誤認に基づいている=考慮に値しないといって差し支えないと思います。だって、現代は明らかに国家という単位の重要性が(良くも悪くも)増していますし、このことはしばらく続くでしょう。
 上記のいわば「誤認」は、著者の「主張」の現代的意義にとっては致命的ではありますが、読解においてはあくまで「共生の哲学」を対象とするので、問題にならない(しない)ということを確認しておきます。
 もう一つ、思想に関わることで、著者も明示している事柄を挙げておきます。さっきの(直線的な)歴史認識もその現れなんですが、それは〈マルクスにしろ社会主義運動にしろ、それらの批判的継承〉という思想的ポジションです。たしかにマルクスや社会主義は乗り越えられているのですが、(私から見れば逆に)ヘーゲルに戻ってます。つまりヘーゲルの弁証法――スパイラルしつつ上昇するという進歩史観が、著者の思考(テクストとしてはエクリチュール)の根底に常にあるわけです。しかしそれも基本的には無視することにします。
 そのうえで……さあ、読解をはじめようか。

テクストの構成からの短評

序章

 「希望」の文脈で語られる虐殺器官のエクリチュール。書いてある内容は共生の哲学に関することながら、特徴的な話法――「この問題は……日本人が解決すべき」「○○ならば……深刻な衝突が生じざるをえない」「私たちは……対決しなければならないことになろう」「○○(のためには)……という問いに答えなければならないだろう」といった、義務表現が連発される。これは(伊藤計劃の)小説の設定に忠実な意味での虐殺器官(の話法)であり、それゆえ、人をとにかく〈駆り立てる〉エクリチュールである。
 改めて読み直して、学生当時の私がここでこの本を手放すのも無理はないと、今でも思います。もっとも、同時期の授業で私自身が市民化=文明化civilizationを主な論点にして市民社会論の先生と論議していたのですから(それについて言及がある序章以降を読まなかったのは)もったいないことをしたとも思いました。

第1章

 虐殺器官のエクリチュールから一転、評論家風の(悪く言えば)大風呂敷な議論と自治についてのアナクロニズム。大風呂敷というのは、大きなスケールの話題ということ。つまり、著者の本領である「生活」の視点はここにはまだ現れない。アナクロニズムというのは、内容的に(「はじめに」で指摘した事実誤認がベースだから)ご破産しているということ。
 「人権宣言」について詳述され、日本分析を経て「日本の人権宣言は空論」(65)とするが、これは日本分析としては有効ながら、ペルソナ分析(ヴェイユ−エスポジト)から、そもそも人権宣言が空論であることを学んだ私としては、空論とは何かを体現しているようなテクストであった。
 時代的にイタリアン・セオリーが著者の目に触れることがないのは当然だが、トロツキーに親しんでいたのならなおさら、ヴェイユを見逃したのは、人権や正義にこだわっているゆえに残念というのが率直な感想。

第2章

 理想と現実のギャップを埋めるものとして召喚されるヘーゲル弁証法。「権利」の差別性を近代啓蒙主義の限界と(狭く)捉えることで、それ以上分析が深まらない。(人権概念の)「その一面性を、そして一面的であることによる抽象性を克服する努力が、今世紀後半の五十年に、かなりの成果をあげてきている。」(89)と書かれるときの「成果」の具体例は、総じて構成的−立憲的コンスティチューショナルなものが挙げられる。コンスティチューショナルなものが抽象性の克服の手段(成果)として妥当なのかは、私にはピンとこない……正確には「成果をあげ」た、後の時代にいる私たちの世界で人権に関する問題が一向に無くならないか、あるいは悪化しているのだから、実際にはそれは成果ではなかったし、それゆえテクスト当時より厳しい世界に私たちは身を置いていることをひしひしと感じる。

第3章

 アイヌ民族の復権運動への実際のコミットメントから「共生」について、徐々にコンスティテューションから、構造や倫理の記述に重心が移っていく。アメリカ先住民の(顔に描かれる)模様の「仮面の役割」(116)、(ネガティブな文脈から)「集団の人格化(あやつり人形)にすぎない」(119)といった諸テクストを目にするに、依然としてヴェイユとのミアミスが目立つ。

第4章

 エスニシティ(共同生活集団=民族集団)についての研究ノートという体裁の章。ダニエル・ベル、ウォーラーステインについての論評とウェーバーの諸テキストについておおよそ肯定的な考察。最もカタカナが多い(=アカデミック風な)章とも言える。結論に近づくにつれ、(著者は名前を挙げないが)著者と同じように近代を乗り越えたところで多元的な集団秩序を志向するローティとの近さを感じる。ただし「プラグマティズムの哲学では……内面の考察が欠ける。色彩のスペクトルの色区別が活きたまま、共生できる社会・経済・政治・倫理が構想され、チャレンジされなければならないであろう。」(172)と厳しい。あと、変わらずの義務表現。

第5章

 「エスニシティの主張は、……人間生活に根ざした、人間の歴史に偏在する自覚の在り方であるとみなすべき……」(175)。歴史という大きな視点やべき構文を脇に置けば、「生活」への重心移動が顕著になっていく。またそれは「在り方」という、いわば〈生の形式〉を問うことでもある。テクスト全体を通してフーコーの名前が挙がることはないが、まさに生政治的な分析がこの章以降、しばしば現れる。
 序章と終章に挟まれた、1章〜9章という全体構成の中で、この5章は4章までテクストの「調子」の終わりに位置づけられている。
 些細な疑問点を一つ。「古代以来の神聖な権利としてのアジール(避難所)を求める権利」(185)と書かれている。アジールという言葉はここでのみ使われるが、終章で言及される「無縁」と結びつけるのが妥当な理解だろう。しかしながら、網野は(無縁についてもアジールについても)基本的には中世という時代区分で論じていたはずだ。網野が古代に言及するのは極めて限定的で、そして何より「権利」の文脈ではない(むしろ近代に近づくほど権利の文脈になる)。つまり、権利としてのアジールがどのようなものなのか、管見ながら全く不明である。
 5章(およびそれ以前の章)を象徴するであろう段落を少し長いが引用する。

エスニシティが肯定的役割を発揮するのは、人権運動、女性運動、エコロジー運動などの社会運動や市民運動と手をつなぎ、それらの諸運動が投げかけるあたらしい社会意識と、積極的にむすびつくことをとおしてである。そして、その自覚的で、理性的なむすびつきをとおして共同のアイデンティティをうみだすことによってである。このような共同のアイデンティティ意識の獲得なしには、エスニシティの多様性についてのあたらしい自覚でさえ、他者の排斥による自己中心的な普遍化の根を断ち切れず、現行の国家システムとたたかうのとおなじやり方で市民社会を破壊する傾向へおちいるだろう。

 内容に対する賛否は置く。この構文・話法は、素直な目で見て恫喝の構文ではないか。しかもそれは二重である。つまり、著者から見て「適切でない」あたらしい自覚を恫喝しつつ、新しい社会意識についても「自覚的で、理性的」であれと恫喝している。……ところが、このようなエクリチュールが次の6章で、動揺にさらされ、見える形で歪み、変調していく。ここまでは、読解のチュートリアルであったのだ。

次回に続く

 ここからハイライトというところですが、文字数を基準にここで区切ることにします。まだまだ踏み込んだ読解になっていませんが、それは次回からです。
 さいごに、同じく5章から、内容に関わるコメントで締めたいと思います。この部分は読解ではないので、ヘーゲル的な側面にも再び目を向けましょう。
 5章の終わりの方に「多様性の祝福」という節があります。著者は多様性を自然の本性ネイチュア・オブ・ネイチュア――「人間の歴史をつらぬいて、文化の本質的特徴をなすもの」(206)と定義します。まぁ、定義の仕方(本質主義的な言葉づかい)には目をつむりましょう。問題はそれではありません。
 こういう多様性は、「平和と秩序を探っている世界における統一と内的結合の、唯一の、長続きする創造的な基礎となる。」……「このような多様性の称揚(祝福)をつうじてこそ、人間の生活がつづくかぎり絶えることはないだろう人間の紛争も、民主的な変革の触媒となることができる。」(207)
 昨今の世界情勢を踏まえて、いくつかの感想があるわけですが、注目すべきは節題にある「祝福」が、括弧に入れられていることです。何に対する括弧でしょうか。見ての通り「称揚」です。意味は「褒め称えること」ですから=祝福なんでしょうが……でも「止揚アウフヘーベン」(のお尻)が顔を見せていますよね。だからこそ、「統一」とか「内的結合」と書かれるわけです。
 このように、統合(別の箇所では全一性インテグリティ)という言葉で多様性と共生を考えること(道・方法)は、選択肢としてありです。モダンな道と言えるでしょう。
 ただし、著者の書くようにそれが「唯一の、長続きする」方法ではありません。いわばポストモダンな道もあって、例えば杉村さんの『分裂共生論』(人文書院)などがそれです。こちらも、書かれた時代の制約で現代的意義を直接見いだすことは難しいものですから「興味があったら手にとってください」と言いにくいのですが、少なくとも「共生」について全く違ったアプローチもある、ということは知っておいていただきたいと思います。


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