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[読書ノート]6回目 2月9日の講義(第一時限)

講義集成12 1982-83年度 231頁~243頁

今回のまとめ

  • パレーシアが厳密な意味での政治機能から離れていく

  • その移行のキーパーソンは哲学者(あるいはその「誕生」)

  • プラトン哲学をパレーシアの観点から再解釈することができるかもよ

聴講者からの質問への回答より:パレーシアの政治的問い「統治するのは誰か」

真実の名において、また真実から発して統治するのは誰か。これからみていくのは、パレーシアが民主制の領域内のみにとどまるのではなく、その逆に、専制的権力の作用の内部においてさえ、政治的・技術的問題を提起するということ。
パレーシアの広い別の意味においては、それは単に民主制におけるゲームであるだけではなく、独裁制を含むあらゆる形態の統治における発言権のゲームであり、真実のゲームである。※

フーコーは前回の講義原稿(記載はあるが講義の中では触れなかった部分)で次のように書いていた。
「民主制において勇気あるパレーシアストが支配力を持つという問題を専制政治へと移しかえたのは、主に哲学者であったということである。こうしてパレーシアの問題は統治の術へと発展していったのであり、その問題は、16世紀から17世紀に国家理性というものによって、道徳や君主の教育に対する自律性を持つことになったのである」。

3つの場面の再検討

戦争についての演説の確認

人々がペリクレスとともに、あり得る成功を分かち合おうと考えているなら、もし敗北や不首尾となったとき(ペリクレスはその可能性も考察していた)、それらの敗北や不首尾もやはり分かち合わなければならない。これは政治における「本当のことを語ること」の内にある、危険や危機の側面。

「平和について」の確認

このテクストは歴史的な現実からは遠ざかっている。実際は和平に賛成する宣言書のようなものであり、ある存在し得た演説のかたち【つまり実際には演説されなかった】で残ったテクスト。
とはいえ当時実際の民会は、民会の望むように語らない者は追放されるという状態だった。イソクラテスの主張は……民会の大勢が望んでいることと違うことを考えている人々は、民会を説得し、その意見を変えさせるために、合理的で真実であるような議論を探し求めることを余儀なくされる。他方で、民会としては、自分たちの意見に反して語っている人びとの言説こそ丁寧に耳を傾けねばならないだろう、というもの。

プラトンがディオンとともに暴君に立ち向かう場面

ディオンの話は、イソクラテスの話とほぼ同時代(紀元前4世紀前半)に起こったこと。
プラトン、そしてディオンがそれぞれディオニュシオスにパレーシアを用いる(危険も冒す)。プラトンの方は、殺すための陰謀を企てられるという結末になり、ディオンの方は、直後に何もお咎めがないだけでなく、その後しばらくの間ディオニュシオスに対する支配力〔=影響力〕を、他の側近のうちで彼だけが持ち続けるという結末になった。

3つの場面に共通に見出されるもの

①パレーシアはある構成された政治的空間において作用し、繰り広げられている。
②パレーシアを構成しているのはある種の言葉パロールが発せられるということだが、その言葉【の特徴】は、本当のことを語っていると主張する言葉であると同時に、その本当のことを語っている人物が自分をほかならぬその本当の命題の発言者として同定するような言葉である。
③どの場面でも問題になっている、あるいは作用しているものは、本当のことを語る者によって用いられたり用いられなかったりする支配力。人が、本当のことを語るのは(相手が誰であれ)、ある種の支配力〔=影響力〕を行使するためであり、その支配力は、決定が下される仕方や、都市や国家が統治される仕方に対して実際に影響力を持つことになる。
④引き受けられる危険リスク

3つの場面の突き合わせから見えてくる4つの変化

パレーシアの価値の両義性

民主制においてはパレーシアがなければならないし、君主の周囲にもなければならない。パレーシアはひとつの必要な実践である。そしてそれは効果がない上に危険なものとなる危険があるものだった。「効果がない」というのは、パレーシアが実際にしかるべく機能し、それが目指していたのと逆の結果をもたらさないと保証してくれるものは何もないということ。

パレーシアの位置付けの変化

『イオン』ではパレーシアと民主制は互いに一体のものだった(循環構造)。ディオニュシオスの場面では、もはや民主制と全く一体となっていない。パレーシアは独裁権力という全く別の種類の権力の内部で果たすべき、積極的で決定的な役割を持っている。民主制の構造から非民主的な統治の形態への転位。

パレーシアの二分化

パレーシアは直接的に政治的なひとつの行為である。他方で、(君主の魂を育成するように)個人や個人の魂に語りかけるひとつの行為、ひとつの仕方でもある。【後者は】直接的に政治的な領域においてではなく、君主の魂の中で彼こそが政治的役割を果たすという具合になるように、君主を取り巻く人々が果たすべき役割である。これは、パレーシアが厳密に政治的な機能から離れ、政治的なパレーシアに新たに魂の教導的サイコロジカルと呼ぶことができるものが加わったということ。

パレーシアにおける哲学者の登場

これがいちばん重要な点。パレーシアストとしての哲学者というものが現れてくる。もちろん、哲学者が国家における主要な役割を演じるのはこれが初めてのことではない。哲学者は、法をもたらす者、調停者、国家の均衡を調整する者、結果として、不和や内紛や市民戦争が起こらないようにする、というのは紀元前5世紀には確実に見られる古くからの伝統。ただし、パレーシアの場面での哲学者は、あるひとつの政治的局面の内部において、国家の政治なり、国家の政治を司る人物の魂なりを導くことを目指して政治状況についての真実を語る人物である。言い換えると、【哲学(とその誕生)において】パレーシアは本来的に哲学的な実践の対象あるいは主題であったということ。

古代の政治思想における4つの大きな問題(展開)

理想国家(リクスの解消された国家)

第一の問題。パレーシアという、常に危険に満ちたゲームを免れることができるような都市国家の体制や組織、ポリテイアは存在するか? 大雑把に言って理想国家に関わる問題だが、それはパレーシアの問題があらかじめ解決されているような国家のこと。

民主制/君主制

第二の問題。「どうした方が良いのか」……具体的には民主制と君主制とのあいだの政治議論だが、[その]議論は、単に民主制と専制的権力のあいだで行われたのではない。そうではなく、その対立は①民主制と語る権利を持ち、それを行使する市民というペアと、②君主とその助言者のペア【のどちらが良いかという選択】。古代の政治思想にとっての問題系のひとつの核心には、この2つのペア同士の対立と比較がある。

教育法ペダゴジー

君主に対する助言【という形式】の前に、どのように君主の魂を育成し、その魂が、権力を行使する際に絶えず魂をとらえていなければならない「真なる言説」をどのように受け入れられるようにするべきなのか、という問いがある。それは民主制に関しても同じで、市民の中から、発言し、他者を導く責任を負うような人々を、どのように育成することができるか、という問いがある。

パレーシアの技芸を身に着けた人物は誰か

パレーシアを手にすることを可能にするのは、どのような知、どのようなテクネー〔技術〕、どのような理論あるいは実践、どのような知識、そしてまたどのような鍛錬、どのようなマテーシス〔学び〕とどのようなアスケーシス〔修練〕なのか。それは弁論術なのか哲学なのか。この弁論術か哲学かという問いは、政治思想のあらゆる領域を貫いていると思われる。

今回はここまでにしておきます。いつもより短めですが、この後の「プラトン的な交差点」に入ると長くなりますので。したがって、今回は前回までの復習と、これからのテーマの予習という構成になりました。読解において難しいところは……「民主制/君主制」の部分でしょうか。単純な対立に見えるものが実は単純じゃないというのは、良い意味でフーコーらしい分析ですから、ここは堪能するところです。
さて、そのプラトン的交差点に立ち戻ることについては(今回注釈で示したように、講義原稿では)次のように説明されています。
「悪しきパレーシアへの批判、民主制と弁論家たちへの批判、弁論術への批判【といった古くからのプラトンの主張】が、良きパレーシアという問題系、賢明な助言者という問題系、哲学者という問題系へと移行しているのが見出される。実際、プラトンの多くのテクストはこうした観点から読み直すことができるだろう。」
プラトン哲学全体の再解釈の可能性とは、心躍るものがありますが、パレーシアがテーマの講義ですから、次回は「取り急ぎプラトンを横断して」と表現されている部分を読んでいくことになります。

私的コメント

 「パレーシアの二分化」の文章にある、サイコロジカルのルビは原文では訳者によって補足されたフランス語表記でした。この読書ノートでは外国語を表記しないというルールを守りつつ、英語にしても意味は変わらないためルビで処理しました。
 こういった事情なので、偶然といえば偶然ですが、昨今話題の「心理的安全性(サイコロジカル・セーフティ)」を思い浮かべた方もいるかもしれません。心理的安全性については、私がわざわざ解説しなくても良い記事があるでしょう。よくある説明は「何をいっても否定されないといったイメージはむしろ誤解で、忖度なしに議論を交わすものなんだよ」といったところですか。ただ、(パレーシアという観点で読んできた)私たちにとっては当たり前のことに見えますね。パレーシアの闘争的な特徴の部分がそれですから。
 逆に、心理的安全性に対して、パレーシア側から問うものがあるとするならば、力(ビジネスの場では生産性や競争力)は安全性よりもむしろ(パレーシア的)危険がその源泉なのではないか。心理的安全な場でいう「自分らしさ」とは、「本当のこと」と「本当のことを話す自分」とが結びついているようなものなのか、それともそうでないのか。あるいは、少し単純化して……そこで語られていることは「本当のこと」なのか。などがあると思います。ただ、それらのことついて今の段階では解答を保留します。
 まぁ、こういったことは幾らでも後から出てくるでしょう。思想/考え方の根源に迫っているからなんですが、最近の流行の多くは、そこからの派生として理解できるものだと思います。タイパ(?)は悪いかもしれませんが、哲学とはそういうものです。

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