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[読書ノート]14回目 3月2日の講義(第一時限)〜(第二時限)

講義集成12 1982-83年度 381頁~402頁

今回のまとめ

  • 哲学の言葉は飾らない

  • 弁論術は説得を目標とするテクニック

  • 哲学は政治のなかで役割を果たすべきではない

 はじめに。今回だけ例外的に古代ギリシャ語(のローマ字表記)を併記する言葉が一つあります。ご了承ください。

 弁論術の言説と哲学の言説との対立を標定するために、プラトンのテクスト(今回は『ソクラテスの弁明』、以下『弁明』)をみていく。(対立といっても)それらの言説は、対立しあった法則や原理や技術的規則に従っているものとしてのみ理解されるのではなく、同様に真理の言説の存在様態、「真実の語り」の存在様態として理解されるものである。

言説そのものの違い:『弁明』17a-18a

哲学はテクネーの外部で語る

 最初の部分は、ソクラテスが民会で告発されている場面。ソクラテスの告発者(敵対者)は、ソクラテスが語る能力を持っている、語るという技においては有能であり、語るという技芸テクネーを持っている、というイメージを捏造し、人々に、そしてソクラテス自身も信じてしまう(自分が誰だか分からなくなる)ほどに説得する。そのようなイメージに抗してソクラテスが自らを示すのは……あらゆるテクネーの外部で本当のことを語る人間であるというもの。

 背景としては、ソクラテスはいままで一度も法廷に召喚されたことがない、つまり、被告になったことも、告発者になったこともない、という点が一つ。もう一つは、(三十人政権の時代に)ある人物を逮捕しに行くという任務の実行を命じられたことがあるという点。

ソクラテスの言語の特徴とその一体性

 ①日常的な言語:ソクラテスの言葉は、公共【ここでの公共とは民会ではなく道端などの意味】の場や商店、あるいはどこででも用いる言葉だった。つまり、そのような毎日用いられる言葉と、語彙や形態や構成といった点において断絶していない。これが弁論術の言葉との最初の相違。
 ②現れるがままの言語:ソクラテスが用いる言葉は、心に浮かんだままの語であり文章の連なり。思いつくまま=それらがやって来るがまま語るということ。
 ③信頼と誠実さと信用の言語:その発話の原理そのもののうちに、信用のおける行為、彼自身と彼が述べることとのあいだの一種の協約が存在するような言語であること。
 これら3つの特徴は、プラトンあるいはソクラテスによって非常に強く結び合わされている【それぞれ単独で特徴とはならないということ】。飾りのない言説、精神に浮かんでくる言葉や表現や文章を用いる言説、それを述べる者が本当だと信じている言説、これら3つの事柄がパレーシアにとってひとつの統一体を構成している。

真正な言論(logos etumos)

 ただし、(上述の3つの事柄は、現代の)われわれにとっては真摯な言説を特徴付けはするが、必ずしも真なる言説を特徴付けないように思える。この件については、プラトン哲学という枠を完全にはみ出す、言語についてのギリシャ的な考え方が参照されなくてはならない。
 logos etumos、つまり真正なロゴスという考え方が参照しているのは――言語や言葉や文章が、それらの現実そのものにおいて、真実に対して原初的な【変形や作為が加わっていないということ】関係を持っているという考え方。etumosな言語、ほとんど語源学的なと言ってもいいような言語。そうした言語はあらゆる飾りや華美、あらゆる構築や再構築からむき出しになっており、そうした裸の状態の言語こそがもっとも真実に近い、このような前提。
 そして、この特徴こそが、弁論術の[言説]に対立する存在様態としての哲学的言説のもっとも基本的な特徴である。弁論術的な言語の存在様態は、まず、いくつかの規則と技術に従って(あるテクネーに従って)組み立てられ、それから他者の魂に語りかける。それに対して哲学的な言語の方は、そうした作為、もろもろのテクネーを持たない。

非参加と拒否:『弁明』31c-32a

パレーシアが義務でなくなるとき

 次にソクラテスは民会という公の場で意見を述べることをしなかった理由を弁明する。【簡単にまとめると】「命があぶないから」つまり、もし自分の命を保っておきたいなら、かならず私人として生活すべき、と述べる。これもパレーシアに関する一般的な主題のひとつ。すなわち、アテナイの民主制は機能していなかった、あるいは本来そうあるべきようにはうまく機能していなかったということであり、こうした状況において(パレーシアストは)危険は冒すに値せず、パレーシアは義務ではない。
 こうした非=参加について、ソクラテスは明確に述べている。自分がパレーシア的な役割を演じなかったのは、ダイモーンからそれを演じないように命じられたからだ、というもの。※

ソクラテスが処刑された理由は諸説あるが、そのうちの一つに「みんなが信じている神様と違う神様(ダイモーン)を信じていたから」というのがある。まぁ、民会で弁明するのにこういうことを言うから、そうもなろう。ちなみに、正確には信仰というより幻聴である。しかし、特徴的なのは(この点はフーコーも講義の中で言及している)、ダイモーンの命令は「何かをしろ」というものではなくて、常に「何かをすべきでない」ときに知らせがくるということ。「○○しない方がいいのですが」というバートルビー/アガンベンの「非の潜性力デュナミス」と結びつけるのは飛躍だろうか。アガンベンはアリストテレスの哲学からそのアイデアを得るが、フーコーのように新たなプラトン読解においては、プラトン哲学においてもそれが見いだせるのではないだろうか。

パレーシアを果たすべきとき

 三十人政権がソクラテスに対してサラミスのレオンという人物を逮捕するように要求したとき、彼と共に逮捕を実行するように命じられた人はそれを実行したが、ソクラテスは(それが不法行為だったので)命令を実行せず、ただ単に自分の家に戻ることを選んだ。こちらの場合は、専制政治における命令違反というかたちで明確に自分の命を危険にさらすことを受け入れている。
 ある特定の社会的・政治的領域に属し、何かをするように要請された時――自分に割り当てられた役職によって決定されるような行動を起こさねばならなくなった時、その時、パレーシアが可能になる……というより、それが必要になる。なぜなら、もし彼(ソクラテス)がそうしたパレーシアを用いなかったとしたら、彼自身が、何らかの不正を行うことになるから。
 もうひとつ注目すべき点があるとするなら、ソクラテスが自分の命を危険にさらしたのは言説によってではなく、行為によって(ロゴスではなくエルゴン)だったこと。

哲学の政治に関する役割

 ①一方では(非参加のように)命を危険にさらすべきではなく、②もう一方では命の危険をさらすべきなのか。私(フーコー)が思うに、①(民会に参加するというのは)直接的な政治的権力、他者に対して行使する支配力として行使されるようなパレーシアである。(そのような場で)一人の人間つまりパレーシアストが、真実を語るために他者に対するある種の支配力を行使するという自発的な政治的介入は、すでに政治なのであって哲学ではない。哲学者は、政治領域の内部において、政治における行為者アクターに政治的な助言を与えることで、他者に対する支配力を持とうとするような立場に身を置くべきではない。このことは第七書簡でも確認できた。つまり、プラトンの哲学的言説は、あたかも哲学が政治についての真実を保持しているかのようにして、いわば政治的領域を形づくるべき言説ではない、ということ。哲学は政治に関してある役割を果たすべきではあるが、政治のなかでの役割を果たすべきではない
 哲学者は、国家が愚行や不正を犯すのを妨げなければならないわけではない。②しかし、その国家に属して(役割として)何かをしなければならなくなったとき、犯される不正が彼自身の犯す不正であることになったとき、哲学者「ノン」と言うべきである。その拒否は同時に、真実の表明ともなるもの。
 (繰り返しつつまとめると)ひとつ目の場合、政治的活動におけるソクラテスのパレーシアは消極的かつ個人的なもの。他者に対する支配力や政治権力となりうるようなものはすべて放棄するということ。他方、他者に対して持つ支配力ではなく、政治的領域の内部に自分自身が帰属するということによって構成されるような政治的領域にいるとき、そのとき哲学者はパレーシアストにならねばならない。(それが)自分自身が不正の担い手になってしまうということから自分の身を守ってくれるからだ。

政治における主体という問い

 ここでは前回の話題の反響が見て取れる。哲学が関わるのは政治ではなく、また国家における正義や不正の問題でさえなく、行為する主体、市民として、臣民として、さらには君主として行為する主体にほかならないような何者かによって犯される正義や不正といった問題。つまり、哲学にとって問いは政治の問いではなく、政治における主体という問いである。

哲学的な態度という問題

 『弁明』で見られたのは、①直接的に政治的なパレーシアでない、政治に対して一歩下がった位置にあるパレーシア。②行為する主体が救われることが問題となるのであって、国家全体が救われることが問題になるのではないようなパレーシア。③哲学的なパレーシアは必ずしもロゴスを通じて行われるものではなく、【弁論術のように】人々の集合や、さらには一個人に対して語りかける際の言語の華々しい儀式によって行われるのではない、事物そのもののうちにおいて現れうるものであり、また物事を行う仕方のうちに現れうるものであり、存在の仕方のうちに現れうるもの。
 哲学者が自分だけにパレーシアの占有権を主張することは、単に教育や人に与える助言や、自分が述べる言説のなかで真実を述べることができると主張することを意味するだけでなく、自分の生そのものにおいて実際に真理の担い手なのだと主張することでもある。哲学による占有状態を構成する要素は――生のあり方としてのパレーシア、行動のあり方としてのパレーシア、哲学者の装いそのものにおけるパレーシア、これらである。

ソクラテスの責務:自己への配慮

 『弁明』には、ソクラテスが自身の責務について語る場面が描かれている。その責務とは、(ダイモーンではなく)神、そして神託や夢など、彼の言によれば、神の力が用いることができるあらゆる仕方で彼に託されるもの。この責務は、彼が自分の命果てるまで従おうと決意したものであり、そこに自分の存在を結びつけたものであり、彼がそれに対するいかなる支払いも報酬も拒絶するような責務である。彼は、私は支払ってもらえるときには語るが、支払いが無いときには語らないような人間【弁論家のこと】とはちがう、と言う。彼は、その人が聞くことを望んでいる限り(協約が成立しているなら)どんな人の相手もする。
 それでは、そのように聴収されることや他者から要請されることに対して、どう応えるか。まさに神の命じるところに従って、彼は自分が出会う人に、名誉や富や栄光のことを気遣うのではなく、自己自身のことに配慮するようにと勧める――それが自己への配慮である。そして自己自身に配慮することとは、自分が何を知っているか、何を知らないかをきちんと知っているかどうかを知ること。そして、他の人々が知っていることと知らないことを探り、テストし、試練にさらすことでそうすること。哲学的パレーシアの内実を構成するのは、生そのものに同一化すること――「哲学者として生き自己ならびに他人を吟味すること」。
 そうした機能は全く政治的機能ではないが、政治に対して必要であり、国家の働きや統治には必要ないが、国家の生そのもの、そしてそれが眠らずにいること(国家の覚醒、国家に対する不寝番)にとって必要なのであり、それが哲学的パレーシアを特徴付けている。【これは「虻」であること。そしてこの必要性こそを(プラトンではなく)ディオゲネスは継承したといえる】

再び弁論術との違い

 この哲学的パレーシアは、その一語一語にわたって、弁論術の言説に対立していることがお分かりだろう。①市民のもろもろの集会や法廷などにおいて行使されるような言説ではなく、(政治から)一歩下がった言説でありながら、いくつかの場合において政治によるもろもろの決定に対して提示されるべき言説である。②他者を説得するということを目標とするような言説ではなく、それよりもはるかに、自らの起源の側で、自らの単純さと率直さにおいて、自らが参照している現実に可能な限り接近していくものである。③何かを知っていると主張するような言説ではなく、また知っていることを主張しつつ、自分の知らない誰かを説得しようとする言説ではない。逆に、その言説を保持する人においても、その言説が語りかけている相手においても、常に自らを試練にさらすような言説である。

今回は以上です。次回は『パイドロス』を取り上げるところから始めたかったので、少し長くなりました。んー、(私の裁量が効く)見出しからしてお分かりいただけるようにまとまっていません。もちろん、講義自体がまとまっていないからですが、それを整理する力がありませんでした。正確には、整理するとフーコーが主張したいことが切り刻まれてしまったので、このようになっているということです。

私的コメント

 正直、パレーシアというテーマから見れば参照するテクストが『弁明』のみという制約を割り引いても、議論が後退していますね。おそらく、この部分は、パレーシアよりも、フーコーの考える「哲学と政治の関係」およびそれに付随するテーマが前面に出ていると考えるべきでしょう。フーコーに興味がある人は、彼自身の政治関与(運動=エルゴン)と紐付けるでしょうが、それは私のやることではないです。
 コメントするならば、(フーコーがそうしているのと違うかたちで)あえて「哲学的」パレーシアから離れてみましょう。みなさんもいろいろ思い当たることがあったでしょう……ひとつは、よくある企業の不祥事や内部告発の話です。私たちの多くは(ちょっとnotoの読者だと比率が違うでしょうが)、組織に所属します。そして、基本的には指示という名の命令を遂行するのが仕事です。では、その指示が不正なものであったらどうでしょう。遂行した場合、「自分自身が不正の担い手になってしまう」のに、やっちゃうんですよね。その内容の程度にもよりますが、バレた場合がニュースになっているやつです。そして、そのようなことから「自分の身を守ってくれる」のがパレーシアなんですが、それはようするに危険(リスク)を負った告発ですよね。つまり、今回の話は、アイヒマンとかを持ち出すような大げさな話ではなくて、私たちの日常における言動の水準の話なんです。そしてソクラテスに従うなら、危険を冒すに値しないこと――つまり自分が直接関係したり、介入すること以外は、ほっとけばいいんです。
 それから、前回に引き続き、弁論術の特徴がいくつか挙がっています。こちらも、仕事に引きつけて考えてみましょう。おおよそ結論が決まっているミーティング。あるいは、答えが決まっているような上司の質問――場合によっては、その正当性を説明するための質問。こういうの、あるでしょ。まさに「追従」の言説です。まぁ、あるあるなんですけど……ぶっちゃけ、いります? いらないですよね。これ、みなさんを責めているんじゃないですよ、私自身が思い当たることたくさんあることです。
 このように、パレーシアは哲学と距離をとったところでこそ、面白い視点を与えてくれるかもしれません。

 さぁ、私にとって特に関心のないコメントはこれで片付きました。私の関心を惹く、フーコーが「統治性」から自己の統治、それからパレーシアに重心を移していった……その理由は、学者じゃないので無理ですが、推測されることと派生すること、これらについては、近いうちに記事にしたいと思います。

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