映画「怪物」をみて

 「怪物だれだ」。映画は怪物の正体を明らかにしない。そして最後に我々に強烈な問いを発して終わる。我々は、とかく自分の立場を裁く者に投影しがちだ。この映画に本当の怪物が出てくるとして、誰がそれを裁くことができようか。
 我々はまた、とても犯人探しに慣れすぎている。映画では、同じ場面を別の視点(カメラワーク)で徐々に示し、物語を進行させる。それゆえに我々は前のめりになって犯人探しに躍起となる。
 違うのだ。我々は前のめりのまま、足を払われ仰向けに倒されることになるだろう。気がついた方も多いと思う。我々の主観は動揺させられることになる。けっきょく我々は、見たいものを見たいように見ている。その事実を突きつけられ、その場から動けなくなる。それが映画のねらいではないだろうか。
 子どものいじめ問題はまさに深刻だ。だが、我々はえてして、傍観者のふりでジャッジをしようとする。映画はそれを許さない。次々に我々の主観を揺さぶりながら、前のめりにさせる。映画は、そうやって我々を物語に巻き込んでいるのだ。
 手法の斬新さについては何も書かない。緻密な計算があったのだろうと思う。是枝監督のことはよくは知らない。これまでの作品も観ていない。テーマが素朴ゆえに手法が際立つ。映画は人生の解答を示すばかりとは限らない。芸術作品の問う力に畏敬の念を隠せない。

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