約束

("おめでとう"の続きから)

赤ちゃんには会えなかったが、義姉と兄と、しばらく話をした。

新しい家族が出来た。だから、将来は、大家族で大きな家に、一緒に住もう。そう、言った。兄も笑った。義姉も笑った。私も笑った。妻は連れて行けなかったが、そこで一緒に笑った気がした。

私は、兄と違って、努力をしない。夢はないことはないが、その夢を叶えようという気持ちは長続きしない。地道に何かをガマンしたり犠牲にしてまで突き進むことを、人生において、したことが無い。

兄は、私の話す「大きな家」は、ある意味「本心」だとは思ったろうが、本当の「夢」なんだということは、義姉とは違った意味で受け止めた上で、笑った。

ほどほどに、病室を後にし、私は、帰りは「ひかり」で帰った。

数日して、兄の長女の名前が決まった。「あかり」という名を兄が義姉と相談して決めた。灯台の「あかり」のように、みんなの人生という航海の道標になる、そういうふうに、私は、感じた。

兄は、私の子供たちにも少しでも理解してくれたらと、ダウン症に関しての本を送ってきてくれた。我が家には三人の子供たちがいるが、幸いにしてみんな、彼女を受け入れてくれては、いる。

彼女はというと、大きな心臓の手術も乗り越えて、元気に成長している。自閉症もあったりして、なかなかユニークな性格である。私がスポーツ応援をしているビデオを見てくれて、私のあだ名は、「ドンマイ、ドンマイのおっちゃん」である。複雑な私という人間を見事に一言で表してくれていて、私は、このあだ名をすごく気に入っている。

父や母がまだ亡くなる前は、夏休みやお正月には私の家族と兄の家族とみんなで関西に集まったりしたのだが、色々な事があった。

散歩をしていても、彼女の興味が溝の中に行ってしまうと、覗いてそこから動かない。ある程度の時間が経って、お風呂に行こうかと言うと「行こう、行こう!」と動き出したりする。彼女が道路に飛び出そうとして、私が大声で「危ない!」と叫んで、人も車も、周りが全部凍りついたり。彼女の妹の誕生日ケーキをひっくり返して、あ〜あ、と、なったり。いろいろ、すべてが楽しい思い出だ。

私が彼女に泣かされたのは、母の葬儀である。長い入院生活を経て母は亡くなった。葬儀は静かに、身内だけで行った。彼女は、葬儀の終わりくらいに棺に向かって、一言、母の晩年のあだ名を口にしたのだ。何とも悲しそうな声で、労うように、頭をなでてあげるように声をかけた。

それが、私が、母への親不孝の限りを尽くした事を、突然、思い出させた。泣かないはずだったが、我慢が出来なくなって、涙が止まらなくなった。

彼女のおかげで、劇的に変わったことが、ひとつある。私は、兄と全く喧嘩や言い合いをしなくなった。まずは、兄の言うことをよく聞いて理解しようと素直に心を開いて話し合えるようになった。恐らく何があっても、今後もこの姿勢は、変わらないだろう。彼女が、私たち兄弟のあり方や関係を、全く変えてしまった。というよりも、私を、変えてしまったのだ。根本的な理由は自分でも謎だ。ただ、彼女が、私の人生において道標になってくれていることは、恐らく間違いない。

彼女が生まれて、兄と、義姉と、あの病室で笑ってから、何年が経っただろうか。まだ、大家族がみんなで住めるような、大きな家は、建っていない。私は、ふと一人きりになった時間に、空を見上げてあの時を思い出すのだ。何度も。何度も。今でも。これからも。

兄も、義姉も、そんな約束なんて、覚えてはいないだろうけれど。

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