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価値と評価 1

ここのところ洋服は下着以外, 古着しか買っていない.
中高生の頃の古着ブームの時は, 古着といえばデニムとかスウェットとかスニーカーのアメカジの印象が強くて, 着たいと思えずスルーしていたのだけど, 今になってどハマりしている.

きっかけは古着とは直接関係ないのだけど, 民藝(民衆的な工芸品)に興味を持ったことが始まりだと思う. 大阪中之島のリーガロイヤルに泊まったときに, そこにバーナード・リーチと吉田五十八が内装を手がけたバー(Leach Bar)があって, そこで初めて民藝的なものに触れた. リーチを通して民藝の中心人物の一人である柳宗悦を知り,  河井寛次郎にまで興味が広がっていったのだが, 奥深い民藝の世界にあって, 特に個人的に面白いと思ったのは, "作家性ではなく匿名性" であることと, "価値と評価のギャップ"というところだった.
市井の人々のくらしのなかにごく普通にあるものに美を見出すのだから, 民藝が作家性とはほど遠いということは当然, ではある.
しかし, その"普通"の中に美を見出すいわば目利き(今までの評価を覆す革新者)が、そのもの自体がつくられた時よりもだいぶ後になって登場して評価を与えることで, それまでそのものに与えられていた価値を転倒させるという, 時間的なズレがある評価構造がすごく面白いと思った. しかも, ものをつくった当人は, まさか自分がつくったものが後代になって, 何らかの評価のまな板にのるなんてことを微塵も思わずにつくっていたという 無垢さ=作家性の無さ が爽快である.
似たような価値の転倒の例ということでいうと, 古くは千利休の侘び寂びだろうし, 現代でいえば, 大学の講義でも話したことがある1990年代の日本のストリートファッションなのだろう.

建築家として設計している以上, 作家性から逃れるということは当たり前だが原理的にできない. 私がいうのも何だが, 建築家としての作家性はときに恣意性をもって形になってしまうこともあり, そこには無垢さや匿名性はない. それが悪いかというと必ずしもそうではなく, むしろそれが味わい深い個性だったりブランドになっているわけである.
とはいえ, アートでもあり技術・システムでもあるという建築の有り様を考えると, 作家性だけで押し切っていくということは微妙で, 日々そのバランスに心を砕いている. だからこそ, 無いものねだりで民藝的な匿名性と価値評価の関係をあこがれをもって眺めてしまうし, 民藝や古民家などをみたときに, そのケレン味の無さに心が洗われる.

私の恩師の恩師であるAngelo Mangiarotti(アンジェロ・マンジャロッティ, 過去に何度か書いたことがある) も匿名性(アノニマス)について語っていて, 素材そのものの特性(石なら石、鉄には鉄の)を考え抜くことで, 見えてくる形や構法があると語っていた. 技術者とか職人に近いアプローチで, それなら確かに, 素材や技術をテコにして作家性をある程度薄めるというか, 恣意により過ぎることがないようにできるかもと思う. だから, マンジャロッティに近い思想をもっていた池辺陽さんといったシステム原理主義者が私は好きだし, そのシステムをどう豊かな空間に展開するかという興味のところに私の設計論があると思う. ちなみに, マンジャロッティがフランクロイドライトのことが好きではなかったこととか, レンゾピアノの鉄骨は好きではないと語ったというエピソードも好きだ. マンジャロッティの視点からだと, ライトは豊かというより冗長に見えていたのかもしれない.

古着のことを書こうと思っていたのに, ものすごい逸れてきた,,
何となくそんなことを思いながら過ごしていて, ある時ふと, 古着も民藝と似たところ(本来とは違った価値として事後的に評価される)があるなとぼんやり思い, 久しぶりに古着を見てみたくなって, 古着屋に行ってみたのが1年以上前のこと,,   
つづきは次の機会に.

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