「自己犠牲、利他主義、善人・悪人」と「欲望」
自己犠牲、利他主義、善人・悪人。
これらについて考えたとき、共通するキーワードは「欲望」だった。
◆自己犠牲
個人的な感覚として、「自己犠牲的な『行為』は存在するが、自己犠牲の『精神』は存在しない」というのがある。
例えば、「地震の際、子どもに覆いかぶさる」という行為。
これが反射的(=無意識)に行われる場合、確かに自己犠牲的な行為と言える。
しかし、無意識である以上、そこに自己犠牲の「精神」はない。
そして、意識的に行われるならば、その人の中でリスクやコストよりも「子どもを守りたい」という欲望が勝ったということだ。
己の欲望(=「守りたい」)を満たすべくやりたいこと(=「覆いかぶさる」)をやっている以上、意識的な行為では自己が犠牲になっていないのではないか。それが本望だろう。
つまり、自己犠牲的な行為でも、意識的に行った場合は己の欲望を満たす自己本位な行為となる(だから悪いという話ではない)。
そこにあるのは自己犠牲の精神ではなく己の欲望。「〇〇(自己犠牲的な行為)をしたい」という欲望である。
※義務感や使命感による場合も欲望は排除されていないと自分は考える。義務や使命を果たすためにその行動を「したい」のだ。
※自己犠牲の精神が「無意識のうちに発揮される」可能性にしても、発揮されるには予め「セット」されている必要があり、セットの段階で本人の欲望が反映されている。
◆利他主義
「自己犠牲の精神」と似た概念として、「利他主義」がある。
その利他主義について自分は、主義として成立しないのではないかと考えている。
利他主義とは、他者の利益を第一に考え、自己の利益よりも他者の利益を優先することである。そのため、利他主義の人は「自己の利益よりも他者の利益を優先したい」という欲望を満たすこととなる。
しかしながら、「欲望を満たす」というのは自己の利益である。
つまり、「他者の利益を優先すること」が「自己の利益」に含まれてしまうのだ。
いかに利他主義であろうとしても、【「『他者の利益を優先したい』という欲望を満たす」という自己の利益】よりも他者の利益を優先することはできない。
結果的に利他的な行為というのは存在するが、利他的に行動「しよう」とした時点で利他主義は維持できなくなってしまう、そんな構造となっている。
利他主義とされる人も、己の欲望を満たしていることに変わりはない。
「自己の利益」に他者の利益も含まれているだけで、やっていることは結局自己の利益の最大化である(もちろんこれも、だから悪いという話ではない)。
※多くの人は家族・友人・恋人などの利益であれば自己の利益にある程度含まれているだろうが、いわゆる利他的な人は「その利益が自己の利益に含まれる他者」の範囲が広いのだと考えられる。
◆善人・悪人
ここまでの内容にも関連するが、自分は善人・悪人に関して、「良い人」「悪い人」という感じではなく、主に善行をして欲望を満たす人を善人、主に悪行をして欲望を満たす人を悪人と便宜的に呼んでいるだけではないかと考えている。
人を喜ばせ「たい」、人を傷付け「たい」……善行も悪行も等しく欲望から生まれるものだ。
いかに善人/悪人に見えようが、悪人/善人と同様にただ己の欲望を満たしているに過ぎず、両者を分けるのは「何によって欲望を満たすか」という趣味嗜好的な違いも大きいかもしれない。
善人は無欲なのではない。欲にまみれているのは悪人と同じ。善人は「他者に利益をもたらすタイプの欲望」にまみれているのである。
◆まとめ
全体をひと言でまとめると、「それ自分の欲望では?」である。自己犠牲も利他主義も善行も「自分のため」なのだと。
一方で、欲望に従うこと自体に良い悪いはない。
意思に基づいて行動する我々人間にとって、行動の原動力が己の欲望であること、自己本位であることは当たり前のことであり、良い悪い関係なく「そういう原理」なのである。
人は欲望を満たすため様々な行動を取る。何によって欲望を満たすか次第で、自己犠牲的に見えたり利他的に見えたり善人に見えたり悪人に見えたりする。ただそれだけのこと。
他者の滅私・献身・自己犠牲・利他感のある行動には感謝しつつも、自分がそれらしい行動をする場合、その裏に「そういう欲望」があるということには自覚的でありたい。
その自覚があれば、「世のため人のため」「誰かのため」などと勘違いすることなく、称賛されても思い上がらずに済む……そんな気がする。
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