会員の抱負 「主 張」   森 下 泰 1950年度会報

会員の抱負 主 張
森 下 泰
1950年度会報

 「物事夫れ自体」の正否善悪或いは価値が、今少し問題にされてもいいように私は考へる。「あの人」が言ったから正しい、「あいつ」が為すことだから間違っている、等々、このような判断が、意識されると否とは別として、吾々の周囲にあまりにも多すぎるのてはないか。
 言はれたこと、為したこと、はそれ自体独立のものであって、「誰が」言ひ或は為したかとは一応別個の事柄であるべく、そのこと自体として客観的判断が下されて当然である。こう言へば、全くあたりまえ極まることが案外行はれていないようだ。
 "近頃の若い者のすること" と言うような考へ方は、出発点からそもそも途をはずれて居り、従って青年会議所はそうした考へをいささかも顧慮する要はない、と私は敢えて主張する。

 よく吾々の耳にする「経験は何よりも大切」と言ふ立論を押し進めてゆくと、次の如くなるであろう。
一、最有経験者、即ち最年長者、即ち九十幾歳の婆さんが一番偉い。(時間的に)二、苟も一国の宰相たらんにはドラ焼の火加減をも心得て居なければならぬ。 (空間的に)
 従ってこの立論は、まさしく誤謬であった。
 もとより経験を無価値とするのでは決してない。初めて今それをする者よりも、十年ドラ焼を焼き続けた者の方が、遥かに上手であること自明の事に属する。技術の世界に於いて、事実判断の問題として経験が頗る大切であること、至極あたりまへの話である。言はんとするのは、併し、それがその限界であると言ふこと、考ふべき問題は、事実判断ではなくして、価値判断の世界であると言ふこと、に存した。限界的なるものは所詮それだけのことである。而して価値は、限界を越えるものにのみ胚胎し得る筈である。
 青年会議所はある特定の階層の上に立つものでは決してない。大阪JC或いは東京JCの、現在の推進者が経営者の立場にある者、従って当然に所謂財界二世の人々であるとしても、それは単に事実の問題乃至プロセスの事柄に過ぎぬ。
 それはそれとして、「二世」とは一体何であるか。この言葉にそれとなく含まれた一切の一揶揄的意図に反対して、善悪何れに於いても問題にする意味なし、と私は主張する。美男美女が映画スターになり、脳下垂体異常者が角力取になるのと、それはいささかも撰ぶ処がない。
 一言にして言ふならば、「先天性」の範疇、之を生かすも殺すも当該二世その人の分別と力に懸かるもの、而して一切は人間の「自由意志」に帰着する、之が此処に言はんとする骨子であった。

 問題は「あたへられたもの」ではなくして「創り上げること」に存すと私は主張する。 "斯々然々" の会であるから自分は入る或いは入らぬ、と言ふような「会」は第一に所詮それだけのものであり、第二に既に吾々の周囲に数多くありすぎる。それはそれとして意義あること、もとより異論はない。
 けれども「斯うしたい」「ああしたい」「話したい」「訴えたい」云々と言ふ、押さへ難き意欲を持つ人々が、ただその意欲の点に於いて互いに相集まると言ふことは何うであろうか。意欲の内容は人の容貌に於ける如く確実に相異なる、その会の性格は甚だしく漠然とし、抽象的な観を呈すに相違いない。併し、その会は確かに生きている、何をか為す可能性を持っている、その可能性は"斯々然々"の限界を越えて遥かに飛翔し得るものである。まことに価値は無限定の処に位し、光は混沌より出づと断じ得ないであろうか。
 青年会議所を私はこのような立場に於いてのみ考えて来、亦将来永久に翻すつもりはない。第一にそれは、 "意欲ある人々" の集まりである。「情熱なき青年」と言ふ言葉は概念として既に有り得ない。第二に、 "何の為に云々" と言ふ世評を亳も顧慮する要はない。更に問われるならば敢えてお答へしよう。「混沌」と。

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