禍話・かぁなっき×本格ファン・皮肉屋文庫『N号棟』考察 完全版

本ページでは、「考察型恐怖体験ホラー」を謳う本作について、禍話主筆のかぁなっきさんと本格ファン皮肉屋文庫さんによる、深い洞察に富んだ考察の内容を余すところなくご紹介します!一度ご鑑賞された方も、これを読めば『N号棟』をもう一度見返したくこと間違いなしです!ぜひ、ご覧ください。
※本ページは映画全編のネタバレを含みます。未鑑賞の方の閲覧はご注意ください。
※こちらは『N号棟』に対する解釈を広げるための1つの映画の捉え方のご紹介であり、必ずしも公式からの「解答」というわけではありません。本ページに関しましても、かぁなっきさんと皮肉屋文庫さんのお二人で考察を深めていただいた内容ですので、皆様も皆様なりの『N号棟』の解釈をお楽しみください。


▼大学教授、医師との会話以外は全て史織の妄想なのではないか。


◎史織が医師から処方されている抗精神病剤と思われる薬を服用するシーンが冒頭立て続けにあるが、「N号棟」の中で彼女は一度も薬を服用していない。つまり、史織の主観で物語が進む本作において、「N号棟」の中で史織が見聞きしている物事は信用してはならない。
◎廃墟である「N号棟」に電気が通っていることや、屋上に干されていた洗濯物に偏りがあることなどへの違和感は、「N号棟」が妄想の中の世界であることで説明がつく。
◎教授の部屋に行く前に<屋上で野菜ジュースを飲むシーン>と、母親を訪ねに<病院の廊下を歩いているシーン>において、なんの脈絡もなく挿入されたかのように思われたスローシーンは実は、妄想から現実への移行を表している。
◎劇中、ポルターガイスト現象が起きる際に住民たちが怖がり狼狽える様子を引きの画で捉えるシーンがあるが、このような”俯瞰”のシーンは、リアルさを追求する上では効果的とは言えない。しかし、「N号棟」の世界が史織の妄想であることを踏まえて見れば、あえてここでリアリティを欠く描写を挟み込んでいるとも考えられる。
◎ポルターガイスト現象の発生時、ボーダーのノイズの入ったテレビが勝手につく描写があるが、これも冒頭、史織うなされている時に画面外から手が伸びてくるシーンでテレビにボーダーのノイズが走っていたことから、その際に見た記憶がポルターガイスト現象を妄想世界でデザインする際に反映されていると考えられる。


▼啓太、真帆、大学の友人や「N号棟」の住人たちは史織の内面の複数の人格が具現化した存在なのではないか。


◎講義中私語の注意を受け、レポートの提出を指示された史織が後日教授の研究室へ向かうと、教授から「人間とにかく寝るのが一番です。講義中居眠りしたっていい」という言葉をかけられる。しかし、これは私語をしていた生徒にかける言葉としては不自然にも聞こえる。ここで、講義中おしゃべりをしていた友人たちは、史織の「大人になりたくない」と思う人格が分裂して現れた妄想上の人物であり、実際には、史織は突っ伏して眠っていただけだとは考えられないだろうか。そう考えれば、序盤の社交的で友人も多く、充実した生活を送っているように見える史織は彼女が自分自身の中に作り上げた虚構の理想像であり、実際の史織は誰とも打ち解けられず孤立していると言える。
◎史織と啓太が「N号棟」で一緒に眠りについた夜、史織は加奈子にナイフで刺される。このシーンは、その直後史織が目を覚ますシーンに場面が切り替わることで夢オチであったように思えるが、よく見ると、起床シーンにおいてテーブルと椅子が加奈子に刺された時と全く同じ倒れ方をしている。このことから、史織が死んだのは事実だが、死んだのは妄想上の史織だと考えられる。
◎離れで死体を解剖している男は史織の病院への不信感を具現化した存在であり、「俺だってこんなことしたくない、やらされてんだ」という台詞は、母親の延命措置をするか否かの決断を急いてくる、現実世界の医師の内面を史織が推し測った発言だと考えられる。また、「我々はその時が来たら死を選ぶのです。それはとても喜ばしいことです」という発言からも言えるように、加奈子は、逃れられない“死”に希望を抱くことでその恐怖から目を背けようとする史織の内面を投影した存在である。
◎人格統合をする際に個々の人格は消えなければならないため、最終的に集団自決という結末を辿ることになる。


▼ポルターガイスト現象は現実世界にいる史織の発作なのではないか。


劇中、激しいポルターガイスト現象が発生するのは、<霊も死後の世界も存在すると告げられた時>、<三谷の霊、彼女と倫太郎の「パパ」が出てきた時>、<加奈子が夫の霊と共に暮らしていると語る時>、<最後の対決シーンで加奈子が刺したばかりの男が襲ってくる時>の全4回である。これらはいずれも、史織が住民(別人格)と衝突した時や、「死後の世界はない」という信念が揺らいだ時など、史織の精神に負荷がかかるタイミングで生じており、現実世界の史織の発作とリンクしているとも考えられる。
団地でずっと霊と共生してきたはずの住人が毎回ポルターガイスト現象に怯えているのは不可解にも思えるが、発作は身体的な反応であるため、同じ肉体を共有する全人格に平等にダメージがあると考えれば説明がつく。


▼特定のホラー映画をモチーフにしているかのように見える演出が散見されるのは、「N号棟」の存在自体が史織の妄想上の産物であるため、映画サークルに所属するホラー映画好きな史織が今までに見たことのある映画のシーンを無意識に「N号棟」に反映したからなのではないか。

『ポルターガイスト』を思わせる騒霊現象時の展開、『N号棟』同様に落下死する母子の死に方が印象的な『回路』、母子家庭が団地で悲惨な目に遭う『仄暗い水の底から』、『ミッドサマー』を彷彿とさせる踊りのシーンや『サイコ』を思わせる遺体の描写、スプラッター映画のような演出、ホラー映画によくあるビデオカメラでの撮影シーンなど。)

まず、冒頭史織と真帆との会話の中で、「戻ってきてよ、なんでやめちゃったの」と言う真帆「だってサークルとかめんどくさいんだもん」と史織が答え、その後サークルの話を続けようとする真帆の発言を史織が遮って、啓太との関係性について言及するシーンがある。このシーンから察するに、3人はサークルを通じて知り合った共通の友人であり、史織は対人関係など何かしら気まずい理由でサークルを退部したのだろう。また、3人の映画撮影に慣れた様子や、史織のホラーが好きという発言から、3人が所属していたのは映画サークルだと予想される。映画サークルに所属するほど映画好きな史織が、容易に受容できないような教えを強要してくる団体を頭の中でデザインするとなれば、これまで観てきた映画からイメージを借りてくるのは当然だと言えるのではないだろうか。
上記を加味すると、「N号棟」内での歓迎会において、真帆が団地の住人に来訪の目的を映画のロケハンだと打ち明けた際、ジャンルが”ホラー”と答えた瞬間に歓迎会のムードが冷めるのも、史織がサークルの新歓コンパに参加した際に自分の発言で場の空気を凍らせてしまった時の脳内再現だと考えられるのではないだろうか。そう考えると、自室に戻ってから史織が真帆に言った「あんたがホラーとか言うからみんな引いてたじゃん」という台詞は、自分の過去の失態を別の人格に押し付けようとして出た発言だと取れる。


▼わざわざ「N号棟」という舞台を用意して史織が人格統合を行なった理由は、大学の教授こそが黒幕だからではないか。


◎史織がレポートを提出しに教授の研究室を訪ねた際の二人の会話の中で、「どうやったら死の恐怖から逃れられるか、聞きたいですか?僕の講義で単位を取ること」と教授が話すシーンがある。一見教授がふざけているだけかのように思えるこのシーンは、実は重要な伏線となっており、「N号棟」内での一連の出来事そのものが教授の”講義”だったと考えることはできないだろうか。教授と「N号棟」との関連性を示す根拠は他にもある。研究室で教授が史織に差し出したコーヒーのマグカップと、サイズも色も同じものが団地内でも使用されていることや、「N号棟」内の三谷の部屋で見つけた紋様のようなものが記された紙と似たものが、『N号棟』を出た後、教授の部屋からも見つかることなどである。考えすぎかも知れないが、教授が史織にコーヒーを差し出す際、砂糖やミルクの有無を聞かないのは、史織の状況を教授が全て把握していることを示唆しているようにも思える。
この先は、映画の本筋とは離れ、メタ的な視点での考察となるが、『N号棟』に関するインタビューの中で後藤庸介監督は、『N号棟』の「N」は「任意のN」だと答えている。これは「N号棟」が用途に応じて様々な使い方ができるという意味を持ち、ここでは史織の人格統合のための舞台として教授が用意したものだとも読み替えられはしないだろうか。同インタビュー内で死生観について語るとき、監督は自分も死が怖い時があったから、教授に「僕も昔、死ぬのが怖かった」「死ぬのやだって母親の膝で泣いていました」などのセリフを言わせたとも話している。この発言は、教授が監督本人を投影させた存在、あるいは死を恐れていた時に監督が望んでいた”伝道師”を具現化させた物語の黒幕にあたる存在だと認めたも同然である。
『N号棟』はキービジュアルだけ見れば心霊ものを予想するが、「N号棟」に着いて管理人が登場した瞬間に、「あ、これは心霊ものではないんだな」とわかるようになっている。この時点で、観客はこんな裏切り方をする映画なのだから、これから起きることも引っ掛けだと身構えて臨むべきなのだ。


▼現実世界で史織が他者に対して不器用にしか接することができなくなったのは父親の影響なのではないか


<医師から母親の延命治療をするか否か聞かれた時、「他に身寄りの方や、ご相談できる親族の方は」と言われて史織は話を遮って無理やり終わらせていること>、<三谷と倫太郎の直接的な死因となったのは、ポルターガイスト現象の際に現れた彼らの「パパ」の霊であること>、<三谷と倫太郎の部屋の中に飾ってあった家族写真で父親の顔の部分が削られていたこと>、<屋上で親子の復活を祝うシーンでピントが合わない状態で親子三人が歩いてくるが、顔がはっきりと映る前に画面は転換されていること>など、劇中随所で、史織の深層心理に潜む”父親”という存在への拒否感を伺えるシーンが登場する。
「N号棟」内のラストシーンでは亡くなった親子を磔にした状態で住民たちによる集団自決が行われ、三谷は安楽死させなければいけない実の母親を投影しており、娘である自分も一緒に死ぬことによって人格統合が完了することを示唆していると考えられるが、ここでも父親の姿は登場していない。劇中直接的には踏み込んでいないものの、これらの描写は、脳内の設定に矛盾が生じたとしても「父親だけは登場させてやるものか」という史織の強い意志が働いた結果なのではないだろうか。


<『N号棟』から連想される映画リスト>


黒沢清監督『CURE』(1997)
黒沢清監督『回路』(2001)
中田秀夫『仄暗い水の底から』(2002)
ジェームズ・マンゴールド監督『アイデンティティ』(2003)
マーティン・スコセッシ監督『シャッターアイランド』(2010)
アリ・アスター監督『ミッドサマー』(2019)
アルフレッド・ヒッチコック監督『サイコ』(1960)
トビー・フーパー監督『ポルターガイスト』(1982)
ルカ・グァダニーノ監督『サスペリア』(2018)
イーライ・ロス『ホステル』(2005)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?