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遺書(仮にそうであるとするならば)

 天寿を全うする事はないだろうと思っている。というより、死因が老衰でないとしても、それが天の定めならば天寿と呼ぶべきではないかと思う。どうでもいいことだが。

 5年前くらいから死にたかった。それは今もあまり変わらない。トラウマになるほど強烈な体験をしたわけでも、価値観の劇的な転換があったわけでもない。ただゆるやかに、わたしは死にたがっている。(まるで今のこのくにみたいに!)

 わたしが生き延びているのは、(それが正解かは分からないが)いわゆる「絆(ほだし)」それからわたし自身の臆病さによるものである。残される血縁者のことを思うと、ああ、無理だなあ、生きるんだな、(生きてしまうんだな)と、わたしはまた生を謳歌してしまう。少なくとも、彼らが生きているうちはわたしも生きているだろう。その程度で踏みとどまることができているのは、わたしの希死念慮がくだらない自意識に裏打ちされたものであるからに他ならない。心の底から死を望むような人間には、(きっと)そんな余裕はない。

 わたしは臆病な人間だ。痛みには極めて敏感で、未だにキャベツの千切りすらまともにできない。かわりに、心の中でわたしはわたしを殺している。ぶん殴り、引き裂き、罵倒し、消えてしまえと喚いている。肥大した自己嫌悪は自己愛と変わらない。

 要するに、わたしは死にたいと願うことで生きている。いつ死のうか。どうやったらいちばん正しく死ぬことができるだろうか。怠惰で怠惰で怠惰なこのわたしに?

 わたしはずるずると命を引きずる。たまらなく憎い。成せないわたし。眠るわたし。わたし。わたし。成すか、成さないか、生きるか、死ぬか、それ以外に何もない。それ以外になんの価値もない。そう決めてしまった。

 いつ?いつまで?

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