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ありもしない懐かしさにうしろ髪引かれて、ぼくらは

 魂の話をしています。命に先立つ魂の話。

 雪にゴミが混ざっている。ゴミ捨て場に雪が積もったのか、雪の積もった場所に誰かがゴミを投げ捨てたのか。

 雪が溶ければ、ゴミだけが残る。そんな、春。目を背けていたものが、季節の移ろいとともに無視しようのない形で姿を表す。

 わたしは寒暖差アレルギーがひどく、季節と匂いを結びつけることがあまり得意ではありません。それよりも、風の温度を覚えています。開いた窓から部屋を通り抜ける風が、喉や鼻腔や首筋を撫でる風が病の気配をもたらさなくなったとき、それはわたしにとっての春です。

 いつだって、わたしにとっての季節は温度でした。

 空気がふわりと暖かさをはらめば、思考に無理やり割り込んでくるようなじめじめした夏の暑さが、きっともうすぐにやってきます。

 皆さんは、10年前の夏を覚えていますか?

 直ぐに思い浮かぶのは、やはり温度、つまり熱のことでした。それから、美化された思い出たち。花火は空に咲き乱れていたような気がするし、自分は不器用なりに努力していたような気がする。そんなはずないのに。花火の季節はいつも汗ばんだシーツにくるまり寝苦しい夜を過ごして、4時半にはやってくる夜明けに苦悩していたはず。

 季節は過去からも、まだ見ぬ未来からもわたしを責めます。夏休みのはじめに立てた計画表は一度も振り返られることのないまま、いまでも時おり湧き出たエネルギーをなんとか捕まえては生活を保っています。
 
 わたしが毎日死にたくなるのは地球が自転しているせいで、わたしが毎年死にたくなるのは地球が公転しているせいです(それから、地軸が傾いているせい!)

 どうしてここまで生き残ってしまったのだろうと思うことが、しばしばあります。これからまだどうにでもなる、と考えるわたしと、取り返しのつかないところまできてしまった、とやるせなさに打ちひしがれるわたし。啓蟄から一月経って、わたしの内側からも様々な感情が顔を出すようになりました。
 
 死ぬほどのことではないから、生きている。吊ることも飛ぶこともなく、柔らかな布団の上に這いつくばって、わたしは。

 呼吸の仕方を忘れてしまいたくなるような夜ばかりが続いて、訪れるのは望まない健やかな目覚め。

 しばらく薄っぺらい忙しさにかき消されて希死念慮を忘れていたけど、死にたいわたし、死にたくはないわたし、どっちが本当の自分だろう。そんなことを考えました。過去の自分がどうだったかなんて、いちいち覚えてはいません。すでに自分は数え切れないほどたくさんのことを忘れてきました。両手を重ね指を折り曲げ、蛇口から流れる水を溜める。何度やっても、指の隙間から水はこぼれてしまう。だから、わたしは今も顔を上手に洗うことができません。

 いろいろなことを塗りつぶして生きています。もっとそのことに自覚的でいる必要がある。目を背けたこと、取り入れなかったこと、俎上にのせるのをあきらめたこと。
 
 忘れてしまうこと、思い出そうとしないこと、

 春を重ねるごとにその輪郭は曖昧になっていって、これからの春はきっと今までよりもなんだかぼんやりとしたものになるでしょう。三千回くらい春を繰り返すことができたら、一度くらい桜のことは綺麗さっぱり忘れて、それではじめて、自分なりの春を探しに出かけられるのかもしれません。

 自分を決して許さないことにすることで、私は私を許そうとしている。


 どうせ死ねないのだから、生きてしまうしかない。


 美しく死ねないのなら、せめて美しく生きるべき


 死にたい思いに右足を、過去の理想に左足を引かれながら、歩くことにする


 

 ナイフをたった一度突き立てたくらいで止まってしまう心臓の音。踏んづけてばらばらに割れてしまったミックスリスト入りのCD。一曲ごとバラバラに入れたせいで、三ツ星カルテットから上手にR.I.P.へと繋がらないCOSMONAUT

 下手くそ、にせもの、でも今まで続いてきた心臓の音

 


 

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