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17年ほど飼った愛犬が亡くなったので、感じたことをつらつらと書き綴る。

どうも、僕です。

今回は思ったことを思ったまま書いてみるので、読みづらいと思います。
そして特に誰かに何かを伝えたくて書くわけでもなく、自分の感情とか思い出の備忘録的なところが一番大きい。
また、1章は哲学的な部分が大きくなるので、どちらかと言うと期待されているのは2章の方だと思う。

1章

まず率直に言うと、悲しいとかは全然ない。
目に見えて弱ってたから覚悟は出来てた。

悲しみがない理由として、大きいのは3つだ。
1つめは、死に対する評価の方法。
2つめは、僕は死んだことがない故に死後が悪いものだと言い切れないから。
3つめは、死が近づいている愛犬を見て感じたこと。

まず、1つめ。
これは、『「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義』を読んだ知見を通してこの出来事を考えた結果だ。

先にこの本を僕が短絡的に解釈したものを一部要約すると、以下のような式をベースに死を考えることになる。

式:生きた時間×得られたもの

この式の答えが小さければ、この死は忌避されるものであり、充分に大きければ受け入れられるものになるというものだ。
幼子や若者の不慮の死が嘆かれる一方で、80,90の老人が亡くなる際には「天寿を全うした」などと言われるような捉え方の違いを言語化するとこのような違いになる。
※とても難解な書籍である上に掘り下げる場面でもないため、物凄く簡単に一部だけを要約したものだと思ってほしい。

この点で、我が愛犬はこの式の答えが充分に大きかったと言えるのではないかと思っている。
また、私の主観に則ってこの式を以下のように置き換えても同様だ。

式:一緒に過ごした時間×得られたもの

主に2章で詳しく書く内容になると思うが、この点でも充分すぎたためだ。

この記事で他の誰か、何かの飼い主に見習って欲しいとかの意図はない。
ただ何かを伝えるとすれば、「この式を最大化出来るように日々を過ごし、後悔をしないで欲しい。」ということだ。

望もうと望むまいと、生物はいずれ死ぬし別れが来る。
その時に穏やかに受け止められるような時間を過ごして欲しい。
未練や身を引き裂くような悲しみを味わい、永遠に引きずるということも
また美しいことなのかもしれないが・・・

2つめの理由は、僕は死後の世界を知らないためだ。

僕が敬愛するソクラテス氏はこのような言葉を残している。
「死んだこともないのに、死が悪いことだとどうして断定出来るだろうか」
そして毒杯を口にし、果てている。

そう、愛犬の死後がどうなっているか分からない。
天国とされるものかもしれないし、地獄とされるものかもしれないし、完全な無かもしれない。あるいは想像も及ばないものかもしれない。
その何かも分かっていないのだから、悪いものだと捉えることがどうしても出来ないのだ。
だって僕は死んだことがないのだから。

3つめの理由は、死が近づいている愛犬から感じたことだ。
簡単に言えば犬、というか動物の死生観のようなものを感じた。

僕が最後に会ったのは死の2日前なのだが、その時の姿は想像を絶する弱り具合だった。

関節も骨も曲がっていて自分で立つことも出来ず、化石のように布団に埋まっているだけ。
口を動かすことも出来ず、水分にした餌を口に流し込まれるだけ。
瞬きも出来ず、目は乾燥しきって白くなっていた。ほとんど何も見えていなかっただろう。

という具合で、昨今の人類なら安楽死をさせるかどうかという議論を始めるような状態であった。

しかし、愛犬の姿は違った。
何か主張したいことがあれば懸命に脚をジタバタさせてもがいていたし、何を感じていたのか、時に呼吸を荒らげて何かを求めていた。

つまり愛犬には死を待つばかりの絶望も、生きることを諦めるという発想もなかったのだろうと感じられた。

また、これは犬というより自然の掟なのかもしれないが
「どんなことがあっていつ死ぬことになろうとも、恨みっこなし。」
という価値観があるように感じられた。

「人生一度切り」だとか「後悔しないように生きる」だとか我々は言う。
しかし、そんなことを考えるまでもなく真っ直ぐ目の前の生に貪欲である姿だ。
そして死がいつ来るかとか死を避けるとかではなく、死の瞬間まで生きることだけを考えている。
そんな弱っている体からは想像出来ない、猛々しい鼓動を感じた。

そんな姿から、決して人間からは教わることの出来ない死生観を教わったように感じている。

これが、悲しみがない3つめの理由だ。

2章

7ここからは、愛犬との思い出などを書こうと思う。
本記事のタイトルからして、期待されているのはどちらかといえばここからの内容だと思う。

まず、出会いから。
もうすぐ25歳になる僕が7歳のときに飼い始めた。
最初、このnoteに見合わず無邪気な僕は初めて間近になった小さな愛玩動物に興奮しつつ、接し方が分かっていないことも分からず探っていった。

最初は体のサイズもまだ近かったので、飼い主というより対等に遊んでもらっていたような感じだったことを今でも鮮明に覚えている。

うちの愛犬は、飼い主補正なしで他の家の犬より格段に可愛かったと思う。
実際、小学校の友達で
「お前の犬見てから、うちも犬飼おうってなったんだ」
という人は僕が知っているだけで3人くらいいる。

何度も散歩に行ったことも覚えている。
あまりお菓子をあげることをしていなかった僕は、両親に比べてなつき度がわずかに低かったが、散歩については違ったと思う。

散歩は僕と行くのが一番楽しかったんじゃないかな?

自分の生きたい方向にしか生きたがらないし、
自分より前を歩かれると嫌になって歩かなくなるし、後ろを歩きすぎてもつまらなそうにしてきていた。

だから後ろ足に合わせて歩くくらいが一番気持ちいいみたいで、
そうするとこっちをチラチラ見ながら徐々にスピードを早めていって、息切れするまで走っていた。

一番散歩してた時期は、毎晩一時間くらいほっつき歩いてた思い出です。

あと、昔散歩中に野良猫を見つけるととにかく追いかけ回して楽しそうにしてたのに、1回威嚇し返されてから、猫が怖くなって一切近寄らなくなったことがあった。
あれ以来、猫を見ると尻尾が完全に足の間にまで引っ込んでいた。
このことは、今思い出しても新鮮に笑えます。

僕はよく1回家を出てからすぐに忘れものに気付いてドタバタと戻るんだけど、そうして戻って目が合ったときの「何してるん、お前?」って顔も懐かしいです。

大学のときは家にいる時間も結構長かったから、よくダラダラしてたんだけど、僕のボディラインに沿うように添い寝してくれてたことも思い出す。
色んな思い出があるけれど、あの添い寝が一番記憶に残っています。

色々ありつつ、飼い始めたときから一人っ子の僕と愛犬は一緒に育ち、大きくなっていった。
分からないけど、両親には分からない1人と1匹だけが感じる何かはあったんじゃないかと思っている。

でも、僕は大人になって自分の選択肢がどんどん広がって、人生はこれからが本番!っていう一方で愛犬は老いて弱り始めてしまって。

途中まで一緒だった道が正反対に分かれたのを感じたときは、
本音を言うと少し寂しかったな。

特に僕が実家を出てから一気に弱っていって、
気づけば歩けなくなり、自力で食事ができなくなり、立てなくなっていた。

もう苦しくて仕方ないだろうなと、正直思っていた。

しかし、それは誤解だったことに気付く。

自力で立てないし歩けない愛犬をたくさん運動させてやろうとしたある日のこと

支えている僕の方が先に疲れて動けなくなっちゃって。
お前まともに食事も歩行も出来ないくせにこんな元気なんかいって。

犬に表情があるのか分からないけど、
あのときの幼い頃と変わらない無邪気な表情は、一生忘れられないんじゃないかなと思います。

常日頃、僕たちは歩くことも食べることも不自由なく出来るのに
満足に出来ない、上手くいかないなんてことで目の光を失ってる。
それは色々知りすぎたが故なのかもしれないけど、もっと生物として根本的なことを思い出すことがあってもいいのかなって。
まだ上手く言葉にし切れないけど、そんな何かを感じました。

人間ではないあなたにしか教えられないことを教えてくれたね。

うちの犬は何かを成し遂げたわけでも、有名なわけでもないし、広い世界の中では特別な存在だったわけじゃなく、どこにでもいる存在だったと思う。
だけど、地位とか名誉とかそんなものより素敵に生きてくれたんじゃないかなと近くで見ていた身として思います。

心の奥底から敬意を払い、感謝しているよ。

もし死後の世界があって、そこでまた会えたら
また明るい時間に添い寝したいなあ なんて思います。

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