お薬再開

SNRIの服用を再開した。
このままでは家族を殺しかねない。

私がC-PTSDを生きているということは、絶望的に誰にも分かってもらえなくて、分かってもらえないと認識しているままで、どうしても分かってもらいたい、という衝動が湧き続ける。特に家族には、母には分かってもらいたいが、全く無理だろう。

この衝動を違う言葉で言うと、寂しい、ということなのだけど、寂しいというのは、寂しいというだけで、それ以上でも以下でもないし、性欲とは全然違う。何故唐突に性欲の話が出てきたかというと、かつてCPTSDでかかったセラピストが男性で、彼は私が「良い男といいセックスをすること」が大切で、多くの女性が彼との関わりで人生観が変わった、と私に言ったことを思い出したからである。
私は当時癌の疑いありというところで、繰り返し検査を受けていた上に、鬱状態があり、そして彼の言いなりになり、しかも他の男にもレイプされるという散々馬鹿みたいな状態だった。私は鬱がどんなものか、世間ではほとんど知られていないと思う。元気が出ないとかそういうことではなくて、思考判断が上手くできなくなり、文章も読めなくなり、選択できなくなり、判断できなくなる。呼吸することも辛くしんどいし、常に不安で落ち着かない。とにかく、一瞬一瞬が不快で不安で孤独で、混乱している。私に性的虐待を治療だと偽って行ったセラピストは、間違いなく鬱が何なのか分かっていなかったし、CPTSDがどんなものかも分かっていなかったと思う。分かっていないというより、興味がないのだ。彼はただ目の前にいた私が与し易いと嗅ぎつけて、得意になっていただけなのだと今なら分かるが、当時は分からなかった。鬱とはそういうものだ。助けを求めるところで無限に終わらない地獄がある。鬱の時私には自発的な選択も判断もできなくて言いなりになる。

私は男が嫌いだ。男とするセックスはもっと嫌いで不快だ。鬱が出ている時、これほど不快で嫌いなものが、何故か避けられないことみたいに出来事として起きる。この時は、もうひとり別に掛かっていた女性のセラピストに「通っているセラピーがとても辛い」と話したら「世間一般では、それはセクハラと呼ばれていることよ。人に言ったらセクハラで訴えた方がいいと言われた。と言ってごらんなさい。」と言われて、言われたように、でもメールでそう伝えて、そして裁判を本当にした。裁判の前にがん治療をした。裁判には何年もかかった。
ああ、辛かった。
終わったけど、また同じことが起きるかもしれないから、外にはあまり出られないし、人と関係の構築もできない。
私の鬱を、複雑性PTSDを理解してくれる人がいたら、すごくいいのになあ。その人は私にできるようになったことを喜んだりしない。そんな安心できる関係が欲しい。
セラピストでもカウンセラーでも良かったけれど、そんなことができる人はいなくて、意味もあまり見出せなかった。

今日も、生きる

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