ただの私
「ただの自分」として生きていたい。
私は、取り柄のない「ただの自分」を不安に思う。
私は「ただの自分」を大切にしたい。
私は「ただの自分」は生きるに値しないと思っている。
私は「ただの自分」を大切だと思いたい。
私は「ただの自分」では外圧に負けて生きて行けないと思っている。
私は「ただの自分」を大切に思う。
「ただの自分」を、ただ大切に思う。
なるほど、無条件の愛というのは、当てにならないものだ。何の保証もない塩梅である。
「ただの自分」が「ただの自分でよい」と許可したところで、何もどうにもならない。
だから、それがいいな。
無条件さとは、何にも縛られない。何にも傅かず、何にも束縛されない、自由である。ただ私の命がそう感じるままに、ただ、あるものがあり、ないものはない。
っていうかさ、
私は、「ただの自分」は取り柄がなくて、取るに足りない存在で、弱い、と思っているのね。
それって、ただ普通に自分のことをいっぱしの人間だと思ってるってことじゃん。
そうです、私は人間という動物です。
何もない、何の取り柄もなく、何の生産性もなく、何の役にも立たない「ただの私」。
そういう「ただの私」が、ただ理解されるような場所で生きていたい。願わくは1人ではなく。私はそんな何にもobeyしない社会がいいな、と思う。
「ただの私」と「ただのあなた」が出会うことがあれば、とても素敵なことだ。私はその出会いの質感が好きだ。
人の役に立つって素敵なことだけども、人の役に立つからそこにいてもいいってのは変だと思うのよね。
人の役に立つ人間になることを目指すのも変だと思うのよね。
社会の中では、「ただの私」では駄目で、「役に立つ私」だから居場所があるってのは変だと思うのね。
それって、社会ではなくて、会社だと思う。
「人」が、生きた存在だということが、ただ大切にされていて欲しいなと思う。
だから、私はそうしよう。
ただの私で生きる。そして、毎日ただのあなたに会うの。