見出し画像

ウミガメの瞳、猫と犬のこころ

浴室の扉をあけて左側、壁一面の水槽にはさすがにおどろいた。伊豆の「サンハトヤ」。前情報として知ってはいたものの、実際に目の当たりにすると、圧倒される。(画像は公式サイトより)「海底温泉、お魚風呂」という名前のそのとおり、そこは「海底温泉」で、「お魚風呂」だった。

ゆるく群れをなしてせわしなく泳いでいるのは、アジだろうか。どことなく食卓で見慣れたかたちをしている。
そのなかでひときわ目立つ存在感。ウミガメだ。
ウミガメはでかい。とにかく、でかい。わたしは「異常に大きなもの」がだいすきなので、平静を装いながらも内心踊りだしたいくらいテンションがあがっていた。
水槽のほうを気にしながら、いそいで身体を洗う。サウナに入ってしまうと水槽が見えなくなってしまうから、まずは湯舟に浸かる。
一匹だけだと思っていたウミガメは、どこに隠れていたのか、二匹いた。全裸で風呂に浸かり、ウミガメを眺める(あるいはウミガメに眺められる)にんげんたち。ここが水族館ではなく、「風呂」で、しかも「全裸」というので、なんともいえない非日常感がただよっていた。
まっくろな目がこちらを見て、何度か目があったような、ずっと見ているとこっちに向かって泳いできているような。中に人が入っているのでは、と怪しむくらい、そのウミガメたちには意思や感情があるようで、すこし、ぞっとした。一匹、二匹というよりも、ひとり、ふたりと言ったほうがいいような気がした。

サウナを楽しんで、最後にまた湯船に浸かってぼんやりと水槽を眺めていると、ウミガメが一匹減っている。水槽はどこにも繋がっていないようだったから、どこに行ったのかと探すと、もう一匹のウミガメは水槽のすみっこでジッと動かなくなっていた。
家族で来ていた小さな男の子が、「寝てるのかなあー」ととぼけた声で言っていたけれど、わたしにはそのウミガメが死んでいるような気がしてならなかった。死んでいないにしても、なにか病気なんじゃなかろうか、もしかしたら鬱かも、と悪い方にばかりかんがえてしまって、なんの罪もないけれどその男の子ののんきな「寝てるのかなあー」にいらついた。死んでたらどうするんだ、バカ!
のこされたもう一匹のウミガメは、それに気がついているのかいないのか、あいかわらずゆったりと水槽を行き来していて、こいつはもう一匹の片割れが死んだ(死んでないかもしれない)と知ったらどんなきもちになるだろう、まいにち裸の人間たちの見せ物になってこんな狭い水槽で、ゆいいつの仲間は水槽の隅でみじめにも死んでしまって(生きているかもしれない)、それをくそガキに「寝てるのかなあー」と言われて……
ウミガメのまっくろな瞳に光はなく、わたしはどうかウミガメにこころがありませんように、とつよく願った。どうかこころも意思もなく、苦しみやかなしみのない世界で生きていますように。

にんげん以外の動物のことが、わからない。こころや感情はあるのか、魚に痛覚はないというけれど、本当かな。
わたしは動物が苦手だ。小学生のころ大きな黒い犬に腕を噛まれたせいでもあるけれど、それだけじゃない。
ことばが通じないのに、にんげんと同じようなこころや感情があるとしたら、と思うとぞっとしてしまう。知らないうちに傷つけたり、かなしい気持ちにさせているかもしれないのに、わたしにはそれを知る術はない。もちろん、相手がわたしを嫌っていても、それを知ることはできない。言葉や表情で意思疎通ができないいきもの。たまにtwitterで流れてくる犬や猫の動画はとてもかわいかったけれど、実物を前にするとその未知のいきものがふと、怖くなるのだった。

文学フリマにわたしの大好きな友人たちが出していた『猫ちゃん狂想記』。
実は、こんなわたしだから、犬ちゃんや猫ちゃんを愛するきもちに共感できないかもしれない、理解できないかもしれないという不安もあった。でも、そんなことより何より主催のブタゴリくん、おひや、寄稿されたニューウイングの吉田さんは特に、人柄もSNSでの発言も大好きだったから、絶対にこれは良いものだ…絶対に……と、めちゃくちゃに重い期待を込めて購入した。


文フリからしばらくばたばたとしていて読めずにいたところ、連れが「吉田さんのをとりあえず読んだけど、すごかった(要約)」というので、お行儀がわるいけれど吉田さんの話を先に読むことにした。

わたしは、いのちにかかわる話にとても弱い。そこからにじみ出る悲しみ、絶望、そんなような何かに感情移入しすぎて、ひきずられて、しばらく立ち直れなくなってしまう。
たしかそのときは、途中までしか読めなかった。苦しくてかなしくて、いつかもっとげんきなときに読もう、と、そっとかばんのなかにしまった。
それから1週間ほどが経ち、旅行にいくときならあかるい気持ちで読めるはず、と、旅行のおともに『猫ちゃん狂想記』をしのばせた。そしてその日の夜に、苦しくて読めなかった吉田さんの話も含めて、改めて読み直した。

まずは、ケシミニャンさんの「おはぎがいて」。ケシミニャンさんについては、「ブタゴリくんと仲良しの、Twitterでバズりがちな面白いひと」という知識しかなかったけれど(すみません……)、ケシミさんの家族がおはぎにメロメロになっていく様、おはぎを通じて自分自身や家族と向き合っていく、ケシミさんの不器用さ、にんげんらしさがとても良くて、すっかりケシミニャンさんのことが好きになってしまった。

kamatahhhさんの「キンちゃん」。どんなに環境が変わっても、にんげんをいつだって変わらない日常に連れ戻してくれるのは、きっと猫ちゃんにしかできない、にんげんにはできないこと。kamatahhhさんのお家にキンちゃんがいて、本当によかった。

最初に読んだときは、最後まで読めなかった吉田さんの「クロ」。何度読んでも泣いてしまうけれど、最後にはあたたかい何かで包まれるような、優しい気持ちになれる。吉田さんの人柄の大好きなところがあふれていて、きっとこれからも何度も読むだろうな。

ゴリちゃんの「ヘムヘムの逃避行」「ミコとの別れ」「人たらしの足袋」「その先を教えてくれたくるみ」。ミコとの別れ、はどうしても苦しくなってしまうけれど、ゴリちゃんが猫ちゃんを愛するようになった経緯、それはつまりゴリちゃんの人生なんだけど、猫ちゃん含め家族を愛するゴリちゃんのあつい(あつくるしい)優しさが痛いほどに伝わってきた。

おひやさんの「犬について」「犬派か猫派」は、おひやさんらしい語り口で安心する。失礼かもしれないけれど、わたしは勝手におひやさんとわたしはちょっと似ていると思っている。S君のことばを真に受けて落ち込んでしまうところなんか、そっくり。多感な時期にジョンと出会えたから、きっとおひやさんは優しいひとになったんだろうな。


『猫ちゃん狂想記』、実は感想を書くまでに何度も何度も読み返した。5人の猫ちゃんや犬ちゃんとのエピソードは、ひとことで「うーん、よかった!」とは言いたくない、深く複雑な感情をわたしにのこした。ただ猫ちゃんたちの可愛いところだけをデレデレと語ったものではなくて、彼らにとってそれは人生そのものだった。時に重く、苦しく、でもやっぱり優しくて、あたたかくて。ああ、これが愛で、これが家族か、と。

動物にも、にんげんと同じようなこころや感情はあるのかな。わからないけれど、少なくともにんげんに愛されている動物たちには、愛されてうれしいとか、しあわせとか、そういうこころがあるといいな。
でも、苦しいおもいをする動物たちには、ないといいな。

にんげんの方は随分と都合よく、勝手で、ワガママだ。