「よそ者」としてできること[Footwork & Network vol.27]
探究学習を、伴走する
探究学習とは
みなさんは、「探求学習」という言葉をご存知だろうか。恥ずかしながら私は、これから紹介する活動に従事するまで、知らなかった。
この探究学習の時間は、授業の時間割に組み込まれており、私が高校生だった頃は「総合的な学習」と呼ばれることが多かった。生徒たちは、その時間の中で、自ら問いを立て、それを解決することで、そのプロセスを通じた学びを得ることを求められている。受動的ではなく、主体的に学ぶのだ。この学びの姿勢は、VUCAと呼ばれる時代の中で生き抜くためにとても重要である。しかし、その学びのプロセスはとても複雑かつ困難で、生徒だけの力で成し遂げるには心許ない。だから、その学びに伴走し、手助けをする誰かがいることが望ましいと言われている。それがファシリテーターである。
伴走者、Uさん
私は、去年の夏頃から一般社団法人Foraという場所でインターンとして活動のお手伝いをさせてもらっている。Foraは、キャリア教育と探究教育を軸に学校教育の支援活動をしている団体である。具体的には、高校生向けにワークショップを開催したり、探究学習用の教材を開発・運用したりしている。今回紹介するのは、そんなForaで一緒に活動しているUさんだ。彼はいくつかの高校の探求学習にファシリテーターとして伴走しており、私も彼の伴走する高校へお手伝いとして何度か行かせてもらったことがある。これから伝えるエピソードはその活動中のことだ。
よりよい学びのために、動く
はじめに紹介するのは、東京都にある総合高校の1年生に向けて行われたストーリーテリング授業(以下「ストテリ」)についてのエピソードだ。ストテリとは、Foraが提供するワークショップのひとつである。大学生が実際に高校に行き、自身の進路選択についての話や学んでいる学問についての話などを大学生の口から話してもらうことで、生徒自身の進路選択のイメージを深めてもらうことを目的としている。Uさんはその総合高校の探求学習に伴走しており、その探求学習のプロセスの一環としてそのコンテンツを活用しようとしていた。
そのストテリの開催が4月の下旬に決定し、Uさんをプロジェクトリーダーに私を含めたメンバーがそれに向けて準備をしていた。授業をしてくれる大学生を8人集めることが決まり、1ヶ月ほど前から募集をかけ始め、2週間前ほどにその8人は確定した。あとは当日の段取りの確認や話してもらう内容のブラッシュアップなどを残すのみとなっており、準備は順調そのものだった。そう思っていた矢先、Uさんからのメッセージが届いた。
「追加で新社会人を8人募集し、1教室で2人を交代して話してもらう」
「授業の後に各教室(8教室)でワードカフェを実施する」
「話してもらう内容は進路の話から高校時代の話に切り替える」
要約すると以上の変更を知らせる内容だ。その後に理由を聞いてみると、「生徒との話や先生方との擦り合わせをするうちに、こっちのやり方の方はよりよいと思った」とのことだった。残り2週間を切った状態において、どれかひとつでも手間のかかるものであるのにもかかわらず、これらが一気に来たものだから、新たに方々に募集をかけ、それぞれが話す内容を改めて見直し、学校と連絡をとりながら当日の流れを組み直し…と以降の準備はとても大変な突貫工事となった。かなり肉体的に疲労していたし、そんな判断を下したUさんを少し恨みがましく思いもした。
どうにかして追加で人手を集め、プログラムを変更して迎えた当日は、結果から言えば成功だった。対象が総合高校の生徒だったため、大学への進路のみについて話す従来の形では、それ以外の進路に対する気づきを促す事はできなかっただろう。また、中学から上がってきたばかりの高校1年生にとって、高校生活のいろはもわからない状態で進路選択の話をしても効果は薄かったかもしれない。さらに、授業者の数が増えたことで、それを整理する場が必要になり、ワールドカフェはその意味で重要な役割を果たしていた。それぞれの変更にはしっかりと意味があったのだ。
生徒たちの学びのため、当日の場をよりよくするために、Uさんは土壇場だったとしても、その企画を大きく変更した。こうして文字に起こすと理にかなっているし、そうすることは自然に思えるかもしれない。けれど、それを実際に行動に移すのはそう簡単なことじゃない。もしも私が同じ立場だったとして、順調に進んでいるプロジェクトの中で、たとえ正しいと自信を持っていることだとしても、そのアイデアを土壇場で打ち出すことはできるだろうか?
誰よりも、楽しむ
つづいては、東京都にある女子校の探求学習の中間発表会にまつわるエピソードだ。その高校では、ひとりひとりが自らの探求学習の成果を5000字ほどのレポートとポスターにまとめ、前期の修了式の後の時間に外部から人を呼んで、その経過を発表しており、その発表会が7月の中旬に行われていた。この高校の探究学習にもUさんが伴走していた。私はUさんから誘われ、それまでにも生徒たちが作成したレポートの添削や総合型選抜入試の面接練習の手伝いをしていた。今回の中間発表会に呼ばれたのもその縁だ。
7月の中旬に行われた中間発表会は、大きく分けてプレゼン発表とポスターセッションの前後半に分かれており、合計して3時間ほど行われた。Uさんと一緒に会場に向かった私は、プレゼンターの眼前に座るUさんの斜め後ろの座席に誘導され、そこからプレゼン発表を見ることとなった。座席にはバインダーと当日のレジュメ、生徒へのフィードバック用紙が置かれていた。いざ発表が始まり、生徒たちによるプレゼンが行われた。いずれも当時の自分では考えられないほどよく考えられた発表で、感心しながら聞いていたのだが、ふと斜め前を見るとUさんがフィードバック用紙にガリガリと書き込んでいた。後ろからだったので詳しい内容までは見えなかったが、「トップバッターお疲れ様でした」や「堂々とした発表でした」、「5枚目のスライドの文字数は減らした方がいいと思います」などA5サイズの紙に細かい字で何行にも渡ってコメントを書いていた。しかも、私が見た限りにおいて、すべてのプレゼン発表に対して同じ分量でコメントを書いていたのだ。その熱意はその後のポスターセッションについても同様で、人が少ないポスターの方へ積極的に話を聞きにいき、終了時間のギリギリまでより多くのポスターを回ろうとしていた。会が終わっても熱が冷めないのか、その後も高校の最寄り駅の近くあるマクドナルドに一緒に行き、1時間ほど話をした。Uさんは終始楽しそうで、そんな彼と交流する生徒たちもつられて楽しそうに話しているように見えた。
Uさんはその発表会を誰よりも楽しんでいたように思う。もしかすると、生徒本人よりも。そして、生徒たちが作ってきたもの、やってきたことと真摯に向き合い、応じることに全力を傾けていた。その熱量からは「仕事だから」とか「自分の担当しているものだから」といった理由以上のものを感じた。
よそ者が、場をつくる
Uさん(や私)は「よそ者」である。それは、生徒側から見てもそうだし、学校側から見てもそうだ。どっちかに偏りすぎてもいけないし、どっちとも距離を離しすぎてはいけない。一見すれば、それはとても宙ぶらりんで中途半端な状態だ。その状態はとても不安定で、上手く立ち回っていくためには絶妙なバランス感覚が要る。Uさんはそのバランスをとるのがとても上手であるように感じた。そして、そのために彼がしている努力や姿勢がこれまでのエピソードに表れているのだと思う。よそ者としてその場に参加するために、よりよい場を追究する姿勢を崩さず、その場を他の誰よりも楽しもうとする。これが無理なくなされているから、たとえよそ者であったとしても場づくりに関わることが許される。
Foraで学校教育に関わり、このよそ者という立場に身を置くうちに、学校側と生徒のそれぞれが抱える課題や要望などに触れる機会が増えた。そして、それが当人たちだけの手では上手く立ち行かないことが多いこともなんとなく分かってきた。だからこそ、外からの介入が多かれ少なかれ求められる。けれど、それが外野からの無責任なアドバイスであってはいけない。Uさんのように、よそ者として場に参加し、場を作っていくなかで、よそ者だからこそできるやり方に挑戦していくべきなのだと思う。
私もForaでの活動に少しづつ慣れてきてはいるが、よそ者としての距離感にはいつも迷っている。だから、時折Uさんの姿がとても眩しく見えるときがある。けれど、いつか彼と肩を並べられるようなよそ者になるためにも、その眩しさから逃げてばかりではいられない。まだまだ彼から学べることはたくさんあるのだから。
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