柔らかな風の下で

ぬかるんだ雪もなくなり、桜が蕾を膨らませる季節が来た。幾度となくこの窓から桜を見たけれど、ようやく今日、この景色とさよならをする日が来た。
「先輩、ここにいたんですか」
「うん。愛想振りまくの、飽きちゃった」
「今日は酒はやめといてくださいよ」
そう言うと昴は煙草を取り出して、窓をすこし開けた。まだ肌寒い早春の空気が二人の間に吹いて、今日のために切り揃えた海月のショートカットを靡かせた。式のために着たスーツも、ネクタイを緩めてだらしなくなっていた。
「冷蔵庫は空っぽだよ。元々この部屋に置いてたものもそんなになかったし、これで元通り」
「……本当に卒業するんですね」
「残念?」
「少しだけ」
「幸希をよろしくね」
海月がそう笑うと、昴はもう何も言えなくなった。この人は明日から本当に他人になってしまうんだと、手が届かなくなると痛いほどわかってしまったから。
「もう、会えないんですか」
「会わないほうがいいよ」
「心配です」
「うん」
「寂しい……です」
「……うん」
静寂と少しの呼吸のあと、昴は煙草を消して海月の隣に座った。海月はそれに寄りかかり、瞼を閉じた。二人の落ち着いた鼓動と少し埃っぽい柔らかな春風が部屋を満たしていた。
「昴くんとは、やっぱりこれでお別れだよ」
「今でも、俺は先輩のこと」
好きですよ、と言おうとして声が詰まった。好きだから、お別れなんだ。
「……ずるいですよ……」
「うん。全部僕のせいにしていいよ」
昴は泣きそうなぐらい苦しくなった。あの日、散りかけた桜の下で海月に告白されたのも、嘘じゃなかったのがわかるから。お互いに大切だからこそ、これでお別れにしようと、それでしか大切を守れないお互いの不器用さが切なかった。
「……こういうお別れ、初めてじゃないんだ。あの日もいつも通りのなんてことない一日で、彼はいってきますって言って、僕はいってらっしゃいって言った。それが永遠のさよならだったんだ」
海月から彼の話が出るのは、この数年間で初めてだった。それぐらい気を許した相手にも彼の話はしようとしなかったし、幸希や昴から見れば自分で蓋をしているようにも見えた。
「はじめは信じられなかった。あんなに大切なものを、自分から手放すなんて……。でも、彼といると自分がなんて弱い人間なんだろうって、自分のことが嫌いになっていくのをずっと前から感じてた。何でも許してくれるから、自分を……いつも演じてたいい子の自分を忘れてしまってたんだ。そして失ってみたら、僕は何にもない空っぽの人間になっちゃった」
昴は海月の言ういい子だった海月を知らないけれど、今のどんなことがあっても靡かない凪のような性格のことを自分で空っぽと称するのは、どこか寂しいような気もした。海月が常に同じ姿勢で自分に向かってくれるから、昴は自分を見失わないで済んでいたのに。
「そのうち、夢を見るようになった。朝起きた瞬間、電車を待つホーム、駅から大学への道、講義中、帰りに寄ったコンビニ、どこかでまた彼に出会えないか、もし今彼を見つけたらどうしようか。絶対に会えないのに、探してしまう自分がいた。そんなに会いたいなら電話でもすればいいのに、そんな勇気もなかった。記憶の中の彼と、彼と一緒にいたときの自分を空想して……でも、今の自分で彼に会うことなんて出来なかったと思う。それぞれの人生のために道を別けた相手がこんなんになってたら、嫌でしょ?」
「俺はその人のことをよく知らないんですけど……多分、許してくれたんじゃないかなって思います。一緒に生きる道だってあったはずなのに……」
「僕は逃げたんだよ」
一緒に生きる、ずっと一緒にいる。それを疑いもしなかった昔の自分のことを思う。あの頃は自分の嫌いな自分が膨らんでいく感覚を知らなかった。彼に見せたくない自分の側面ばかり育っていって、隠しきれなくなる前に消えたくなって、それがどんなに自分を傷つけるかを知らずに、逃げた。嫌いな自分を好きになってもらうのが恥ずかしくて耐えられなかった。きっと許してくれるんだろうなと、心のどこかで分かっていながら。
「……許してくれたんだろうな。でも僕は僕を許せなかった。それだけ」
どんどん自分のことが嫌いになっていって、けれど彼のことを好きだった自分まで否定したくなくて、その部分がもう育たないように蓋をした。愛しいと思うたびに後悔に苛まれても、大切な思い出として絶対にそれに手を触れなかった。
「そのうち、彼のことを考える時間が少なくなっていって、もしも、なんて考えることも少なくなっていった。だって絶対にいないんだから。そして彼のことを忘れていって、ただの思い出になっていくことをちっとも苦しく思わない自分がいた。忘れても生きて行けるんだって思ったら、どんどんこういう思い出が増えていっても何も思わなくなっていくのかなって不安になった」
「きっと生きていくってそういうことです。ずっと苦しみながら生きていかなくちゃいけないんだとしたら、そんなの残酷すぎる」
「昴くんのことも忘れてしまうのかもしれないのに?」
「俺はそれでいいです。好きな人が自分のせいで苦しむところなんか見たくないから」
「でも昴くんは僕のこと忘れられないでしょう?」
「……まあ」
「そういう素直なところに救われてたんだよ。ねえ、一つ呪いをかけてあげる」
そう言うと海月は昴と向かい合うようにして、まっすぐ目を合わせて言葉を続けた。
「君は僕のことを忘れられない。今言った僕の言葉が全部わかるようになるまでずっと僕のせいで苦しむことになる。けれどいつか、君自身の言葉で救われる日が来る。それまでずっと苦しんで、生きて」
「先輩は俺の言葉で救えましたか?」
「ふふ、教えてあげない」
そう言って海月は軽くキスを落として、立ち上がった。
「そろそろ行かなきゃ」
「そのまま行くつもりですか?ネクタイ直してませんよ」
「本当だ」
「こういうのを全部幸希に任せることになるんですかね……」
そう言って昴は海月のネクタイに手をかけ、人前に出ていけるように直した。そしてそのまま手を回して、もう一度キスをした。力なく身じろぎをした海月だったが、その温かさに包まれて抵抗をやめた。
「……びっくりした」
「無防備すぎるのが悪いんですよ」
軽く笑って、そして昴は回した手を解いて海月を突き放した。
「お別れですね」
「うん」
今度はちゃんとさよならが言える。姉のように二度とかえらないわけでもなく、海のように諦めと絶望の混ざった儀式のような別れでもなく、ただいつか会う日が来るかもしれないただただ普通のさよならが。
「さよなら、」
好きだったよ、とは言わない。もう彼を自分のもとに縛り付けておかなくていいから。
「うん。先輩、お元気で。さよなら、」
好きでした、とは言わない。この感情には蓋をすると決めたから。

そうして海月は長い長い時間を過ごした部屋を後にして、扉を閉めた。ネクタイに触れて、軽く笑って、そして一歩を踏み出した。この一歩ですべてが終わると知りながら。

「終わったか」
「うん。全部」
校門前で待っていた幸希に声をかけて、帰路に就いた。数日後に引っ越しを控えているし、引っ越し先が父の持っている物件ということもあり本来は家族と帰らなければいけないところだったが、海月は「疲れた」と言って家族を先に帰らせていた。
「どっかに消えようって考えても無駄だからな」
「約束、覚えてたんだ」
「そりゃな。なんでお前はこう、大事なものを捨てて歩くんだ。そのせいで苦しむくせに」
「苦しんでたら幸希が助けてくれるでしょ?」
出まかせだと思っていた約束を幸希は案外大事にしていて、だから海月は幸希のことを信用していた。自分に好意を寄せる人間の中で唯一幸希だけが失う悲しみを理解していたから、海月は幸希を手放さなかった。
「昴くんを頼んだよ」
「はいはい、今更面倒見るやつが一人ぐらい増えたところで変わらないし」
「はーあ、これからどうしようかなあ」
楽しそうな笑みを浮かべて歩く海月を、どうせろくでもないことを考えているなと思いながら幸希は眺めていた。自分も来年にはこうなるのかと考えると少し焦る気持ちもあったが、まあ自分は海月じゃないしな、と割り切ることにした。
「そういうのはもう少し早く言うものだろ」
「うん。本当に何もせずに卒業しちゃった。ヤバいかな」
「海月はそれでなんとかなるから狡いんだよ」
「ふふ、そうだね」
高い高い太陽と、構内から響く楽しげな声を遠目に海月は未来のことをぼんやり考えた。きっと何もない日が何もなく続いて行って、何もなく死んでいくんだろうなと思った。
そしてそれが今の自分にとっての一番の幸せな気がした。


無理な金額は自重してね。貰ったお金は多分お昼ご飯になります。