清明潔白恋労


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「一本ちょうだい」
「あ?あぁ、メンソールだけどいい?」
「全然いいよ、サンキュ」
もうすぐ冬になるだろうか。昴しかいない肌寒い渡り廊下の灰皿に、突然現れて友達のように声をかけたのは幸希だった。もっとも、幸希は昴の事を友達と認識しているけれど。
「…あ、この前の!」
「気づいてなかったわけ?いいけど。面白いもの見せてもらったよ」
壮大に噎せる昴を見て、幸希は笑いすぎで咳き込んだ。内心少しだけざまあみろと思ってしまい、昴は反省した。
「出来れば忘れてくれ…」
「嫌だね」
沈黙が流れる。冷たい風が煙を流してゆく。どうしたらいいか分からず、昴の煙草はもうすぐフィルターの辺りまで燃えそうだった。
吸い殻が水に落ちる、終わりの合図の音がしたが昴は立ち去ろうとしなかった。枯葉がひらひらと落ち、コンクリートの上に音を立てながら積もっていった。騒がしい沈黙を破ったのは昴だった。
「ところで君は何者?」
「幸希。末真幸希。海月の友達だ」
「そういう事じゃなくて、あぁいや幸希な、よろしく」
「よろしく、昴。別にただの友達だから安心しろ」
海月と付き合っているのかどうかも、気にならないかと言われれば気になるけれど、それよりも幸希自身についてが気になった。何年生なのか。サークルは。そもそも学科は。
「じゃ、授業あるから」
「ちょっと」
「煙草ありがと。ばいばーい」
「待て、連絡先ぐらい教えろ」
そのまま大学内へ入ろうとしていた幸希だったが、昴の想定外の一言で踵を返すしかなくなった。
「俺の?連絡先?海月じゃなくて?」
「そういうのの又聞きは良くないから」
「そうだけど、俺と連絡先交換してメリットあるの?昴に」
「メリットとかそういう事か?幸希と友達になりたいから交換したいだけだ。…なんか気恥ずかしいから今のなしで」
「…いいや、忘れない。スマホ出せ」
そうして連絡先を交換して、遅れる!と言いながら走っていった幸希を見送った。幸希はどうしても顔がにやけてしまうのを直すすべがなく、友達という言葉を噛み締めるのだった。
「…あれ、そういえば自分、いつ幸希に名前言ったっけ」


「今日は一人なんだな」
「信じてもらえないだろうけど、一人の時の方が多いんだよ」
「へぇ。信じないけど」
そう言って海月はまたスマホに視線を戻した。革製のハンドバッグを適当に放り投げて、幸希もそれに倣う。信じてはいないけど、嘘ではないのだろうとも幸希は感じた。ドサ、と重い音がした。
「この間の青いやつ分かる?」
「んっと…分からない」
「藤堂昴。マルメン」
「あぁ、あの子。あれ以来見てないよ」
「絶対来るよ」
「幸希が首を突っ込むとは珍しい」
「偶然、な。悪い奴じゃないし」
「ふーん。…本当に珍しいね」
くすくすと笑う海月の膝の上にまたがり、幸希は強引に顔を自分へと向けた。まだ楽しそうに歪む口許にキスを重ねて、海月も慣れたようにそれに応える。そして幸希は、自分で手当てした海月の首筋の包帯を解いた。ほとんど消えかかっているが、いくつかの深い傷は未だ瘡蓋を残している。秋の空気でひんやりとしたそれを幸希は熱い舌でなぞる。
「変な感じ。ざらざら」
「ん…痛くなかったわけ?割と深い傷なのに」
「それより痛いところがあったからね」
「だろうな。俺が抱きたくないって言うのなんかもう二度とないぞ」
「ふふ……抱きたかった癖に」
「随分余裕そうだな?」
「幸希だから」
「何だそれ」
「…やさしい子」
「ガキ扱いするなっての。二つしか変わらないだろ」
「結構大きいよ?十代二十代の二歳差は」
「わかるけど…」
「よしよし」
幸希の背に回した細い腕が、柔らかく力を入れた。指先の微かな体温まで幸希には堪らない刺激だった。
こうして抱きしめられる事に弱いのはきっと、初めて海月を抱いたときのせいだと幸希は思う。安心するけれど妙に落ち着かなくて、海月の少し速い心音に耳を澄ませる。
ぼんやりと霞んだ目で海月を見ると、彼は泣きそうに笑っていた。この表情を、幸希は知っている。


どこへ行けば良いのだろうか。皮のハンドバッグと、コンビニで買ったチューハイを持ちながら、まだ夜とは言い難いけれど暗くなった大学の庭をとぼとぼと歩く影が一つあった。
葉桜を見上げながら考える。図書館は閉まっている。サークルには入っていない。友達もさほどいない。一人でいるのは辛い。家に帰るのも...思い出してしまうから、嫌だ。歩みは止まらない。行く当てもないのに。
忘れようとするほど、あの瞬間を思い出す。家の固定電話のうるさい呼び出し音。知らない人の声。短い呼吸。緊迫した口ぶりと後ろで鳴り響くサイレン。耳の奥で響いて、ずっと離れない。自らの吐息ですら、引き金になる。
もう帰るのも面倒だ。積んである埃まみれの全集をパタンと閉じて、その瞬間に本の内容も全て忘れた。毛布を引っ張り出して、サークル室のカーテンを閉めに窓辺に立った海月を、幸希の目はしっかりと捉えた。彼の目に涙が浮かんでいることも。
考えるより先に足が動いていた。窓を叩いて、ひらひらと手を振った。
「匿ってくれない?」
それが二人の始まりだった。

「…はい?」
「あー、酒やるから。つか見られる。入っていい?」
「別に構わないけど…」
「サンキュ、うおっと、と」
本当に窓から入ってきた、と海月は目を丸くした。小柄ながら力のある動きで侵入してきた事に、感動すらも覚えていた。暖かくも棘のある風が窓から吹き込んで、海月の聖域を犯していった。びゅう、と強い風の音を立てながら窓を閉めて、鍵をかける。
「助かったぁ〜」
「何から逃げてたの?」
「孤独」
そう言って幸希は笑った。冗談ではないのだということは、海月にも十分伝わっていた。
「ビリヤードのサークルなんてあったっけ?」
「台があるだけだよ、やる人なんて誰もいない。...メンバーも殆どが幽霊。この部屋を使うのは僕ぐらい」
「勿体無ぇの。まぁボロそうだし使えないか」
そう言ってビリヤード台の上に腰掛けて、ビニール袋から缶を二つ取り出す幸希。黙ってレモン風味の方を受け取った海月は、誰かと飲むのも久しぶりだと思い出した。喉の奥に感じる痺れるような痛みと舌に残るレモンの苦味に、海月は眉をひそめた。
「そういえば名前言ってなかったな。俺のことは幸希って呼んでくれ」
「よろしく。僕は白城」
「下は?」
「…海月。海に月。クラゲでも何でも好きに呼んで」
「海月な、そんな感じの雰囲気あるよ」
「塩かけたらなくなりそう?」
「なくなりそう」
本当に消えてなくなれば良いのに、と海月は笑った。人形のように冷え切った印象だったのが少しは人に近づいたように感じた。そうして、幸希は手を涙の流れた頰に添えた。
「訳あり?」
「ただの失恋だよ」
「俺でよければ…いや、俺しかいないんだから聞かせろ。酒の肴だ」
「今会ったばっかりの他人に?」
「他人だからこそ、ってのもあるだろ」
「口が上手いね」
幸希の目を見据えて笑う海月の頰に、また涙が流れた。痛々しくも美しいその光景に幸希は我を忘れそうになった。もう二度とこの表情をさせたくないとも、この一瞬を切り取って永遠にしたいとも思った。
「無理して笑わなければいいのに」
「幸希くんこそ」
「くんはやめろ、子供扱いっぽくて嫌だ」
「そうかな?」
「海月が言うと余計に、……母親みたい」
苦い顔をする幸希を見て、訳ありなのはそっちだろうと言いたくなったが、やめた。怒りなのか、悲しみなのか、海月にはわからなかった。
「幸希こそ。…彼に同じ事を言われた記憶があるよ」
無言になった幸希に、訥々と言葉を投げ始めた。
「寂しい」
「……わかるよ」
「彼はもう居ないって、二度と会わないって決めたからこそ...誰だっていい、側にいて、気を紛らわしたい」
「俺じゃ力不足?」
「ううん、十分。…ねぇ、後悔しない?」
「何を…、おわ」
瞼は閉じず、瞳はまっすぐにそれを捉えていたのに、全てが見えていなかった。頰に添えられた熱い手指と、古本の香りと、唇の熱いぬめりの感触が脳まで伝わって初めて、目の前の男がキスをしてきたのだと幸希は理解した。俺が女に見えるのだろうか?
そして冷静さを取り戻した幸希は言葉に気づいた。海月は、彼、と。
「もう一回…しよ」
手を離せばどこかに消えてしまいそうな海月を、幸希はどうしても繋ぎ留めておきたくて、口がそう勝手に動いていた。

一度で終わるはずもなく、呼吸を重ねていくうちに海月は強引になり、ヤケになっていった。それに気づいた幸希だったが、海月の言葉とともに苦しみが流れ込んできて、自分の苦しみを紛らわせることが海月を救う事にもなる気がした。だから、止めなかった。
「…嫌じゃないの?」
「全然。俺海月の事気に入ったよ」
「そう。嬉しいね」
「心にも思ってないだろ」
「これでも嬉しいんだよ、玩具が増えて」
「どうぞ、とっくに壊れてるから好きに遊んでくれ」
「…あはは、じゃあそうしようかな」
憂いと哀しみを纏いながら、楽しそうに笑って幸希に跨る海月。覆い被さるような体勢になり、伸びっぱなしの髪の間から蒼く光る瞳が、幸希の紅い瞳を通してどこか遠くを見ていた。それでいい。失った人の代わりが欲しくて、でも代わりになんてなれない事は、幸希にもよく分かっていたから。

「案外似たもの同士なのかもな、俺ら」
「似てるからこそ絶対分かり合えないね」
「それがわかっているなら上手くやっていけるさ」
「あはは…今日で終わりにはしないんだ」
「当たり前だろ」
「幸希のこと、好きだからこそ今日で終わらせたいんだけどね」
「失うことに耐えられるようになるまでは側にいるよ」
「うん……約束」
暗い部屋の中で、手探りで指切りをして、約束の軽薄さに海月はまた笑った。何を言われたとしても信じられない自分が悪いのか、確証のない約束が悪いのかすらわからずに、幸希の荒い呼吸を聴いているうちに、瞼は落ちていた。


ガサガサと落ちた葉を踏みしめながら、幸希は被写体を探していた。カメラを首から下げてふらふらとしていれば、何のあてもなく歩くよりは気が紛れる。この趣味は、家族が死んでから始めたものだった。
しばらく歩いて、秋風に手がかじかんできても、幸希の考えは一向にまとまらなかった。海月と、昴の事だ。考えているうちに腹が立ってくるぐらいだった。
あれから昴とはよく会うようになった。海月の事も、昴の事も知っていくうちに、あの二人がお互いに歩み寄ることなどできないように見えた。昴は鏡のような人間だったから。
海月の感情が揺れることが、幸希は一番恐ろしかった。今度こそ何をしでかすかわかったものではない。手を離せばどこかへ消えて、勝手に最悪の結末に向かっていくに違いないからだ。もっとも、幸希には自分が引き止められているという自信はなかったけれど。
「嫌だな、これじゃ」
これじゃあ海月の事が好きみたいだ、と口から出かけた言葉を呑み込む。友人が、理解者が消えることが恐ろしいだけなのに、それ以上がどこかに潜んでいるみたいで、気持ちが悪かった。これでは昴と同じになってしまう。
これ以上誰も傷つかないうちに、どうにか解決できないだろうかと考えても、昴の抱える底知れない感情がどうにもならなかった。確実に昴は海月が好きだった。体以上のものを求めて見返りがあるとでも思っているのだろうか、と幸希は考えて、あると思っているんだろうなという結論に至った。
答えのなさと、自分の直接関係ないところで自分が悩んでいることに、幸希はだんだん腹が立ってきていた。空や落ち葉や石畳はファインダーを覗けど美しく見えなかった。フォーカスリングを回し、限界までぼやかした色彩にすら価値を見出せずに、全部昴のせいだとファインダーから目を離した。その瞬間、一番聞きたくない声が聞こえた。
「幸希?」

「……何だよ、俺は今機嫌が悪いぞ」
難しい顔でカメラと向き合っていた幸希が振り向く。この距離に入るまで幸希が自分に気が付かなかったのは初めてだと昴は思う。ふと目に入ったフィルムカウンターの数字がゼロを示していたが、それが何を指すか昴にはわからなかった。
「何かあったのか」
「別に。一人になりたいからほっつき歩いてた」
「…邪魔したな、悪い」
「もう帰ろうかなってところだったしいいよ」
「そうか」
続かない軽口や、難しい顔のまま動こうとしない幸希に、ただ機嫌が悪いだけではないのだろうなと察した昴は、寒さで赤く染まる頬に掌を添えた。
「うわ、何」
「結構長く外にいただろ、ものすごく冷えてる」
「関係ないだろ。あと昴にここまで気を許した覚えはないけど」
そう不満げに言い放つも、幸希は目を伏せたまま軽く首を傾げた。何なんだとは思いつつも冬みたく冷えた体は温かさに抗えなかった。家族以外の人間がこの距離にいるのは、海月以来かもしれないと幸希は思う。
「まぁいいか。これから暇?」
「あぁ」
「じゃあ付き合え。文句は言うなよ」
頬に当てられていた掌をカメラと逆の手で握り、一瞬だけ笑って幸希は歩き出した。手を引かれながら、どんな表情をしているのか、何を考えているのかと昴は考えていたが、考えたところで無駄と悟った。幸希の手に体温を奪われながら、海月に関わってからこんなことばかりだと昴は思う。それが嫌ではないところがまた彼の感情を複雑にさせた。


「どこ連れて行く気だ?」
手を引いて前を歩く幸希に問いかけたが、その答えが返ってくることはなかった。機嫌が悪いからと強引に納得して、昴は後を追う。
「…家」
「え?」
幸希が手を離して振り向く。普段通りにのんびりしている昴に苛立ちを覚えながら言葉を続けた。
「どこ連れて行く気って、聞いたの昴だろ」
「あぁ…ここが幸希の家?」
「逆に俺の家じゃなかったら誰のだよ」
そこは豪華なオートロックのマンションだった。ラウンジには革張りのソファが置いてあり、間接照明が壁に光線を描いている。ガラス張りのエレベーターホールには整備された花壇の鮮やかな色彩が満ちており、建物内のウォルナットの空間に油絵のように映えた。
「何やってんの、エレベーター来たぞ」
学生の一人暮らしには豪華すぎる建物に昴は戸惑っていたが、家に入り、家族用の間取りである事と花の添えられた家族写真で彼は全てを察した。
リビングや彼の部屋は片付いていて、インテリアはどれもセンスが良い。だが幸希がこの家を持て余している事は、ガラガラの棚や、使っていない部屋などから推察できる。
昴が部屋の中を見回している間に、幸希は客用のカップに紅茶を淹れていた。気を遣わせてしまっただろうかと昴は思ったが、幸希の手際は恐ろしく良かった。
「無理やり連れてきて悪かった」
「いや、自分が無茶言ったようなものだし」
「うん」
気まずい沈黙が流れた。外にいた時から変わらず静かな幸希だったが、彼は沈黙など気にせず次の言葉を考えているようだった。
「昴はさ、海月のことが好きなんだろ?」
「そうだけど」
「どうして好きなわけ」
「好きなのに理由なんか要るかよ」
「要る」
紅茶に口をつけながら、怒気を孕んだ口調で詰問する。鈍感な昴が吐く答えに幸希は一つも納得ができなかった。そして海月のためにもっと深くまで立ち入ろうとしていることを、少し後悔した。
「お前、それ勘違いだぞ」
「は?」
「海月が誰にでも良い顔するのはあいつが孤独だからだ。それを勘違いしてつけあがる奴はそれなりにいるし、お前もそれだ」
「そんなのじゃない、自分は」
「だったら!」
カップを乱暴に置き昴の胸ぐらに摑みかかる幸希。やってしまった、という顔をした後にひらひらと手を離して言葉を紡ぎ直す。
「だったら、優しくしてやるから俺を抱いてみろよ」
「どうしてそうなるんだよ、幸希いっつもそんなことしないだろ」
「知ったような口ききやがって」
「幸希こそヤケになってるぞ、機嫌が悪いのは知ってるけど落ち着けって」
「お前のせいだ!」
押し倒され下敷きになった昴は、苦しそうな幸希を見上げて揺らいでいた。
もし本当に、海月への気持ちが勘違いだったら。
違う。昴はそう言いかけて、言葉は喉で止まった。どうして好きなのか。納得しない限り、幸希は許さないだろう。そして幸希がここまでするという事は、きっと海月にとっても重要な事なのだと昴は感じる。
「俺のこと好きにさせるから、抱けよ、お願いだから…」
先ほどまでの威勢と打って変わった泣きそうな声に昴は動揺して、馬乗りになった幸希の頭を撫でることしか出来なかった。ここで拒んで帰るという選択が出来ない事を幸希はよく知っていて、自分はずるい人間だと思った。
陽が落ちて青に染まって行く部屋の中で、幸希はゆっくりと服に手をかけた。


荒い吐息が響く。時折昴の指が彼を強く刺激すると、幸希は抑える事なく喘いだ。
「だいぶ解れてきたけど」
「うん、多分、大丈夫…多分」
伏し目がちに笑って応える幸希が、わざとやっているのかもしれないとは思いつつも昴には魅力的に映った。唾を飲む昴に気づき、慌てて幸希は付け足した。
「あの、海月と違って慣れてないから、えっと…優しく、ね…」
「……善処する」
「誘ったの後悔しそー…」
幸希は苦笑して、いつもに増して表情の硬い昴に軽いキスをした。冗談だよ、と笑って言って昴の彼自身に手をあてがい、すでに勃ちきったそれを軽くしごく。
「入るかなぁ」
「本気で止めたかったら殴ってくれ…」
「っはは」
先に見せた怒りを忘れさせるような、爽やかな笑いだった。冗談ではないぞと昴が付け足そうとすると、指を口にそっと当てられた。幸希は海月に似た表情で笑っていた。
「挿れるぞ」
「うん…ッ、ぐ、ぁぁあ…ッ!!」
先端が入っただけで幸希は限界に近い反応をした。浅い呼吸で快楽を逃すが、反った背中やシーツを掴む指に入る力から、昴にも無理をしていることがわかった。呼吸の度に微かに漏れる高い呻きが昴の理性を蝕もうとしている。このままだと本当にまずいな、と昴は感じた。
「本当に大丈夫か…?」
「大丈夫、てか、普通はこういう…ッ、ものだから」
普通ってなんだよ、と顔をしかめる。幸希がこの痛みを当然のものと感じていることが嫌だった。きっとそれを教えたのは、海月だから。
血液の流動にすら彼は反応して身体を震わせる。出来るだけ痛くないようにと、昴は幸希の背を丸めさせて、手を握った。
「動くぞ」
「ん…は、あっ、待っ、や…ァ、」
穏やかになった幸希の反応を見て昴は心の底から安心した。海月と違って余裕がなく、素直に反応する幸希になら優しく出来る気さえした。
ゆっくりと腰を動かしながら、幸希が強く反応した箇所を覚えていく昴。初めてではないとはいえ、半ばヤケになっていた幸希はそれに気づかなかった。
熱さと快感に反応して幸希の瞳は潤んでいった。目の前のぼやけた青い影が愛おしくなって、手を強く握り返す。胎の内の熱が上下する感覚と、手のひらに感じる不器用な優しさに彼の方が好意を勘違いしそうだった。
「きもちいい…?」
「あぁ」
「ごめん、俺、我慢させてる…よな」
「気にするな。…胸が苦しいぐらい、気持ちいいんだから」
「どういう…ぁ、んぅ…、ッ」
彼の中が昴を受け入れて力が抜けていくのと、昴の自制が効かなくなるのは同じぐらいだった。だんだん動きは激しくなっていたが、痛がることはなかった。
幸希はもっと痛い物だと腹をくくっていたのだが、昴の普段からは想像も出来ない気遣いのせいで快楽だけを感じていた。混乱するほどに。
呂律が回らなくなり、幸希は甘くとろけた声で母音混じりに、昴の名前を呼んだり気持ちいいよと喘いだりした。普段の軽口を叩く声色と違って、可愛いと思ったが口には出さなかった。きっと幸希は喜ばないとわかっているから。それでも理性を蝕む蜜のような声に昴は惹かれていた。
「すば、る…っはぁ、は、俺、もう」
「こっちも、出そうだ」
「ッ!…俺のナカで、イキそう…?」
「幸希、気持ちいいよ」
「そう、そっか…へへ…」
嬉しそうに目をそらすのを見て初めて、本当はあまり自信がなかったのだというのが昴にもわかった。
何度か腰を動かすと、幸希の顔は強すぎる悦楽に歪み、呼吸が途切れ途切れになって苦しそうに喘いだ。その中でも昴は強く手を握っていて、幸希を安心させた。
中は絶頂に達したせいできゅうきゅうに締まっていて、これで動こうものなら自滅しそうだと感じた。
「…ぁ、ごめ…」
「大丈夫だから。幸希が気持ちよくなってくれて嬉しいよ」
「うん…俺のこと、よくわかってるんじゃん…」
「そうかも、な」
ある程度波が収まったのを確認してから、昴はまた動き始めた。幸希は一度限界が来たせいか、すぐにまた甘い痺れが回っていた。
「出すぞ…?」
「いいよ…あ、ひゃ、あッ、…!!」
達したと同時に昴は自分のモノを引き抜き、その白濁を幸希の脚にぶちまけた。幸希はその一気に掻き出される感触でまた限界を迎える。
「ぇ、あ、中に出しても良かったのに」
「幸希が大変だろ、その、色々」
「それもそうだけど…海月には散々出してたじゃん」
「あれは…加減がわからなかったんだよ」
「悪いと思ってないくせに。…もう一回しよ?」
「少し休んでから」
「あれと同一人物とは思えないね」
もっと自分勝手な奴だと思ってた、と身体を寄せながら囁いた。小柄だがしっかりと筋肉のついた無駄のない体躯は、力が抜けてしなやかな曲線を描いている。健康的な肌は朱く染まって彼らに生を実感させた。
幸希の髪を優しく梳いていた昴は、その指を唇に這わせる。くすぐったい刺激に顔を綻ばせ、空いている手をとって指を絡めた。余裕そうに軽口を叩いている幸希だったが、その実もう限界だということは昴もわかっていた。
物足りないと言わんばかりのキスは、何回か繰り返すうちに深くなっていき、熱い咥内の感触に昴はくらくらしていた。顔を離すと、落ち着いた赤色の瞳が昴を見上げていた。真っ直ぐに昴を捉えて離さない両の眼は見惚れるほど美しかった。
「昴?」
「悪い、見惚れてた」
「はぁ?…ん」
悪戯っ子のように笑う幸希の口を軽いキスで塞ぐ。それ以上の追求は避けたかった。
「器用な癖に」

穏やかな時間も流れ行き、幸希にシャワーへ押し込まれた昴は一人考えていた。果たして自分は本当に海月の事が好きなのか、と。
好きだ。それしか答えはない。それなのに、幸希と共に時間を過ごすことがこんなにも楽しいのはなぜだろうか?
昴の中では、感情もなくただ抱かれていただけなのにやめないでと懇願する海月も、突然退路を絶って抱けと迫る幸希も同じように読めない人間だった。そして、自分自身も。
「タオル置いておくぞ」
「あぁ、ありがと」
「あと一個いい?」
「今か?」
「顔見て言えない気がするから、今」
「じゃあとりあえずタオルくれ」
シャワールームの磨りガラスの向こうにしゃがんだ幸希がぼんやりと見えた。ドアを少しだけ開けて、受け取ったタオルで体を拭きながら昴は幸希が口を開くのを待った。
「俺の大切な人を…困らせるような事はしないでくれないか」
「先輩のこと?」
「そう。昴が好きでいようとそれは関係ないやって思ったんだけど、それで海月が困るようなら俺は許せないんだ」
感情を押し殺しながら吐き出された言葉に昴は動揺した。殺した強い怒りはどこに向いていたのか。いっそ自分なら単純だったのに、と昴は思う。きっと違う事も同時にわかってしまったから。
「幸希の言いたいことはわかったよ。けど自分ももう...戻れないんだ。ごめん」
「わかったよ。…それで海月を傷つけるような事があったら、俺は昴を許さないからな」
昴がどう答えようかと迷っているうちに、幸希は足音も立てずに立ち去っていた。幸希の香りのするバスタオルに顔を埋めながら、これからどうしようかと考えた。
そして、怒りの正体は海月を今の状態へ落とした犯人なのではないかという結論にたどり着いたが、やはり幸希にかける言葉は思い浮かばなかった。

「ふっ、あはは!地味!」
「なんだよ急に」
「昴、髪下ろしてると超地味だな!」
「そんなに面白いか?」
「最高。毎朝大変だろ、それ」
「そうでもない」
まず謝ろうか、どうすればいいのかと迷っていた昴は、内心ホッとしていた。気を使ってくれているのだと感づいてはいたが、それでも幸希が笑っていれば安心できた。昴の目元がほころぶのを見て、でも許したわけじゃないからな、と幸希は思った。
「明日は俺がやっていい?」
「え、髪?」
「うん。面白いこと思いついたから」
「外を歩ける程度なら構わないけど…?」
「どんな頭にされると思ってるんだよ」
「結構前だけど、姉さんに任せたらひどいことになったんだ」
ここまで言って昴は、当然のように泊まっていくことになっているのだと気付いた。もう全部成り行きに任せてしまおうと開き直ったあと、一瞬寂しげに笑った幸希を見て失言をしたなと後悔した。
「兄弟居るんだ」
「姉だけな。…悪い」
「あぁ、気にしなくていいよ」
本心から言っているであろう声色に、昴はこれ以上何も言えなくなってしまった。海月だったら何と言っただろうかと考えて、そういえば海月のことを何も知らないんだなと気が付いた。
「何もわからないのに、わかったような口ぶりで慰められるぐらいなら黙っててくれた方がマシなんだ。多分、海月も」
「そういうものか」
「そう。だから黙って傍にいて?」
失う痛みも分からない。顔色も読めない。幸希と居るといかに自分が、海月の傍にいるべきではない人間かを思い知らされるようだった。幸希の判断も行動もすべて正しい。ただ理性ではどうしようもない、好きの感情だけが誰の思い通りにもならなかった。
「先に言っておくけど、もう抱かない」
「えー」
「幸希の言いたかったこと、わかったから。無理させてごめん」
「俺が襲わせたのに、律儀な奴」
甘えていればこのまま癖になりそうで、それは幸希の弱みに付け込んでいるみたいで嫌だと昴は思った。放っておけないし、目を離したくもない。けれど海月への好きとまた違う感情を、昴はまだ整理できそうになかった。


「もしもし。…久しぶり。元気でやってる?」
「それはこっちの台詞。ちゃんと食ってるか?」
「お母さんじゃないんだから。それなりにやってるよ」
「お前のそれはやってないってことだぞ」
「ふふ、まぁまぁ。そっちはどうなの?もう三年ぐらいになるっけ」
「そうだな、結構落ち着いてきた。金は無いけど友達いるから、なんとか」
「変わらないね、そういうところ。恋人は?」
「まーだ。お前こそ」
「あはは、なかなか見つからないね、…君以上の人は」
「怒ってる?」
「まさか。好き勝手してる君が好きなんだから」
「ありがとな、元気出るわ」
「それは良かった。帰って来ようなんて思わないでよ?」
「わかってる。…声、聴けてよかった」
「うん。無理しないで」
「お見通し、か。まったく」
「…つらい?」
「少しはな。お前ほどじゃない」
「僕は何にも苦労してないけどね?」
「強がり方が下手くそなんだよ、昔から」
「そう言ってくるのは君だけだよ。…こっちが朝だから、今は夜かな?」
「あぁ。日が変わったぐらい」
「じゃあ、おやすみ。明日も頑張るんだよ」
「はは、わかった。…海月がいてくれてよかった」
電話が切られたのを確認して、スマートフォンから耳を離す。一コマ目まではまだ時間があったが、これは出られないなぁと海月は思う。精一杯強がった反動からか、涙が止まらなかった。
「絶対帰って来ないでよ、合わせる顔なんてないんだから…」
眩しい朝の光と輝く塵の中で、小さく海月の影は落ちた。しばらく澄んだ青空を見上げていると、背後のドアが開く音がした。
「先輩?」
「……あ、」
固まった海月を見て、その頰が濡れていることに昴は気がついた。何かあったのだろうかと思い、そういえば朝に髪を弄りながら幸希が「海月が見たら何て言うか楽しみだなー」と言っていたことを思い出す。自分のせいだろうか?
「大丈夫、ですか?」
「…昴くん?」
「はい」
「いや、確認しただけ。何でもないよ」
そう言って力無くソファに倒れこむ海月だった。スマートフォンをテーブルの上に置いて、寝転がりながら昴を見上げた。
「その髪、幸希の入れ知恵?」
「入れ知恵というか、あいつにやってもらって」
「あはは、どういうつもりなんだか」
痛々しい笑みを浮かべる海月に、昴は手を伸ばした。その手はそっと握られてはね返された。いつでも海月の真意は読めない。自分だったらどうしてこの行動をするかと噛み砕いて、そもそも海月の選ぶ道は昴の選択肢にない道ばかりだった。
「何があったか、聞かせてくれませんか」
「嫌」
「…自分だからですか」
「広い意味で言えば、そうだね」
叱られた犬のような表情を浮かべて、懐かしい人の格好をしている昴をそれ以上見ていられなくなって、海月は視線を外へ向けた。日が高くなり始めて、青空のコントラストもまた美しく眩しかった。
「僕なんかに立ち入るべきじゃなかったよ、昴くんは」
「違う、後悔してないです」
「今はまだね」
「先輩に会えて、こうやって話せることが幸せですよ」
「そっか」
可哀想だね、と言っても昴には届かないことが海月には分かってしまった。伝わらないことを虚しく思って、昴と同じ世界で生きられたら幸せなんだろうなと感じた。
「先輩のこと、好きです」
「うん」
「好きです…どうしようもないぐらい」
「よかったね」
その言葉を、どういう意味で放ったかが分からずに、昴はただ戸惑った。まるで好きな音楽を伝えた時のような肯定だった。海月は静かに微笑んでいる。何も揺らいではいない。幸希はこの海月を見たことがないんだろうなと昴は思う。
「僕には昴くんの言う好きっていうのが分からないからね。…その感情は大切にした方がいいよ」
「そんな…そんな悲しいこと言わないでください」
「ただの事実だよ」
「分からないなんて、そんなの」
ありえないと言おうとして、海月の凪いだ笑顔を見た瞬間、分かれないのは自分の方だと気づいてしまった。自分が一生をかけても、これ以上海月に近づけないかもしれないと、電流のように思考が巡って、傲慢な自分に嫌気がさした。
自分はなぜ海月に好きだと伝えたのだろうか。伝えて、どうしたかったのだろう。思い直して、まだ言葉にできないけれど、海月を求めていたことには気づいた。
「自分が教えることも出来ないんですか」
「うん、きっとね」
「好きだから、欲しいんです、先輩が」
「身体ならいくらでも」
「それ以上はダメですか」
「うーん、後は…お金?」
海月はそう言ってふざけながら、昴の目の色が変わったことに気がついていた。だから会わなければ良かったんだと後悔もしながら、昴が歪んでいくのを見届けようと決意をした。
「……ごめんね」
「何で先輩が謝るんですか」
「全部僕のせいにしていいよ。…きっとこの言葉の意味は、分からない方がいいけど」
「好きでいて、先輩を欲しいって思っていくこと、許してくれますか」
「うん。ただそれに応えられるかは期待しないで」
海月はもう治った首筋の噛み跡に触って、言い放つ。
「僕も人間だから」


「一本くれ」
「うわっ、いいけど」
びっくりした、と目を丸くしながら振り向いた幸希から煙草を受け取った昴は、そういえばライターもサークル室だと気づいた。カプセルを噛み潰していると、幸希は薔薇の彫刻が入った金属のライターで火をつけた。
「ありがと」
「最近来てないんだって?」
「タイミング悪くて」
「フラれた?」
「そういうわけじゃないんだけど」
いつもより軽い煙草を深く吸って、吐き出した後に昴は言葉を続けた。幸希は海月から何を聞いたのだろうか。
「でも自分が何言っても無駄なのかなって」
「あぁ、確かに」
「何か、自分が好きになった先輩はもういないような気がするんだ」
幸希は煙草を咥えながら、横目で昴を盗み見る。出会ったころの面影が無くなったのはそっちだろう、と思いながら次の煙草を取り出した。それでもまだ半年も経っていないと思うと、昴が海月と出会ってしまった事をもったいないと幸希は感じた。
「……忘れてくれ」
「そう言われて素直に忘れる質だと思ってるのか?」
「思ってないけどさ」
「ふーん。…やっぱ俺じゃダメだった?」
「幸希だから駄目なんだよ。友達になりたいって、言っただろ」
「覚えてるよ」
忘れろと言っただろうと、昴は息を吐く。忘れるはずがない事もすべて、わかり切ってはいたけれど。
冷たく濁った水の中に煙草を落とす。冷たい風が流れて、視界の端に雪虫が映った。冬になったらどこで吸おうかと思い、自分の行くところで吸えないところがそうない事に気が付く。わざわざここで吸っていたのは、無意識に幸希を待っていたのだろうか。
昴が火を消して、立ち去らないのを横目に見て、どうしたものかと幸希は考える。そして中途半端なところで火を消して昴の手を取った。
「戻ろうか」
「あぁ」
「…いいの?」
「後悔してないさ、全部」
「変わったな、昴。今の方が楽しそうだ」
「海月先輩に救われたからな」
「……俺もだよ」

無理な金額は自重してね。貰ったお金は多分お昼ご飯になります。