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もう二度と進まない秒針

西日に照らされた空気が緩やかに流れ、埃は星のように彼らの周囲に舞っていた。
色褪せ擦り切れたラシャの上には、彼の人間味の薄く色のない身体と、安くて強い缶チューハイが転がっている。いつも着ている大きめでヤニのついた白いスウェットは、胸の上あたりまでたくし上げられていた。
伸びきったミントグリーンの柔らかな髪は、酒が回り赤らんだ頰に張り付いて妖艶な曲線を描いていた。その間から見える長い睫毛の、また奥の青い瞳は現実の何物をも捉えてはいない。
「一回で終わり?」
幾度も重ねて潤んだ唇が動いた。物足りないだとか、そういう感情は全くなく、業務確認をするような自然さだった。
「先輩、この後講義じゃないですか?」
「どうでもいいよ、そんなこと」
緩慢な動作でビリヤード台の上に起き上がった海月の目線が、ついさっきまで彼を抱いていた大柄な後輩、昴に移る。そして彼の苦しいほど興奮している彼自身を見つけた。
「足りないんでしょ」
「......まぁ」
「ほーら、こっち来て」
山のように吸い殻が積もった灰皿に、ほとんどフィルターだけになった安タバコを押し付けた。その残り香を惜しむように唇を重ね、呼吸を共有する。興奮し粘ついた唾液が糸を引き、糸の切れないうちにまたキスを繰り返した。ぼんやりしてきた頭で、昴は海月の首筋を噛んだ。

事の始まりは覚えていない。ただこうして生きているのが海月にとって普通のように感じたから、こうしているまでだった。すでに二度も留年を重ね、卒業する気がないとまで言われていたが、海月は気にしていなかった。
埃とヤニとアルコールに埋もれたサークル室で、毎日誰とも分からない相手と慰め合う。
もう彼はいないから。

鋭い犬歯は首筋に穴を開け、流れた血はスウェットに染みを作った。人形のように白く生気のない肌の下にも、ちゃんと血が流れていたことに海月は感動を覚えた。そんな事も御構い無しに、昴は海月の身体を貪り、蹂躙していた。
ここまで容赦のない相手も久しぶりだと、内臓を押し上げられながら思った。善がる声は出さないようにと普段からしていたが、苦しさのあまり時々空気が押し出される音を吐く。しかしその苦しさや痛みを海月は喜び、煽るような甘い台詞を何度も放った。

誰にでも抱かせてくれる美人がいる、と適当に入った麻雀サークルの先輩から聞かされたときは、都市伝説の類だと思った。
その美人は写真に写りたがらず、講義もサボりまくりで二留、酒が好きで度数の強い五百のチューハイを持っていくと喜ぶから、彼のサークル室の小さな冷蔵庫はいつも酒で埋まっている、等々。そんな将来を何も考えていなさそうなクズがいていいんだろうか?と昴は本気で思った。
普通の家庭に生まれ育ち、留年もせず単位も落とさず大学を卒業し、それなりの企業に就職して結婚して、といった黄金ルートを約束された彼でも、非日常への憧れはあった。
彼女もいないし、講義も潰れたし、どうしようかと考えたときにふとその噂を思い出した。ビリヤードサークルとマジックで殴り書きされた、茶色がかった紙が貼り出された扉に、チューハイとコンドームを片手にノックをした。目の笑っていない疲れた顔の、細い男を目にした時、昴はひどく後悔した。

「遠慮とか、いらないから。女と違ってちょっとやそっとじゃ壊れないし、好きにして」
持ってきたブドウ味のチューハイを開けながら、最初に海月はそう言った。女は面倒だ、というのは昴も重々承知していて、だからといって消去法で男を抱くような真似が果たして正しいのだろうかと疑問を抱いた。が、昴からすれば、海月の存在自体間違いのように見えていて、何のためらいもなくベルトのバックルに手をかけられても、もうこれでいいやとすら思った。

何度も胎の奥にスペルマを注がれ、ぐちゃくちゃになってもなお昴は腰を打ちつけていた。海月の限界はとうに超えていて、反応すら出来ないぐらいに悦楽の痺れが回っていた。
相性が良いわけではないが、陽が本格的に傾いてきてもなお勢いのやまない昴を、何の抵抗もせず受け入れていれば意識は朦朧としてきていた。
痛みを感じれば感じるほど、また求められれば求められるほど、海月は自分が存在しても良いと思えた。空っぽで何もない、浪費するだけの自分が心底嫌いだったが、だからといって死を選べるほど器用でもなかった。もう何度目かわからないが、海月の腰が跳ねて、きつく中が締まった。
これで死ねるのならそれでもいいやと思った矢先、扉がノックされ、聞き慣れた声が海月を呼んだ。
「...ッ、いる、よぉ」
声を出すと胎のなかが動いて、返事をしながらまた腰が動いてしまう。
そろりと、遠慮がちに扉が動き、細身で金髪の男が入ってくる。「随分派手にやってるね」と言いながらロングのタバコに火をつけ、目の色と同じ落ち込んだ赤色のソファに深く腰掛けた。
昴は突然のことに戸惑い、動きを止めた。そうして、海月の顔を見た。
「シャワー浴びるならあっちにあるけど」
海月は名残惜しそうに、内心少し助かったと思いながら、遠回しな別れを昴に告げた。

「幸希、あの状況になって続けられる奴何人居たか覚えてる?」
「片手で数えられるほどもいなかったけど」
「じゃあ邪魔しないで?」
「嫌だ。お前がドロドロに犯されてるとこ、見るの好きだし」
昴がシャワーを浴びず帰った後、幸希は手際よく首の傷を消毒して、海月をシャワーに突っ込んだ。そして髪にドライヤーをかけ、傷口をもう一度消毒し包帯を几帳面に巻き、チューハイの缶を開けた。
類は友を呼ぶとでも言えば良いだろうか。幸希も海月と同じく留年をしていて、この先どうでも良いやと思いながら毎日を消化していた。週に二、三度は海月を抱きに来て、多少の世話を焼いて帰っていく。
それ以上の干渉はせず、目の前にいるときだけは親切にしてくれる幸希の距離感が、海月には気楽でありがたいものだった。
「ふふ、今日の彼は面白かったよ」
「そりゃあ是非ヤってる所を見たかったね」
半円形のソファに少しだけ間をとって腰掛けていた彼らだったが、その距離を縮めたのは海月だった。
「何、口直しでもしたい訳?」
「幸希だってここまで来て何もしないで帰った試しがないでしょう?」
「一理あるな」
そして海月は幸希の膝の上にまたがり、地毛の黒が覗く頭を優しく抱いた。
「あ、でもいつもより反応悪いと思うよ。さっき散々抱かれた後だし」
「負けないように雑に抱けって言ってる?」
「あはは、ぜひ酷くしてよ」
「明日立てなくなっても知らないから。......けど」
と、幸希は人差し指を海月の唇に当て、彼の動きを制してこう言った。
「まず飯だな」
眩しかった夕日ももう沈み、曇ったガラスに二人の細い身体が写っていた。二人とも食事はどうでも良いと後回しにしがちだったが、その後でも抱き合うのは遅くない、時間は無限にあると思うと、不思議と腹が鳴るのだった。

#小説 #渺々たる空の鏡

無理な金額は自重してね。貰ったお金は多分お昼ご飯になります。