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『ルックバック』を四方構造で読み解く:「なんで描いてるの?」への回答

Ⓒ2024 エイベックス・ピクチャーズ

監督:押山清高
原作:藤本タツキ
公開:2024年

※ネタバレを含みます

① 序論:問題点と放置された問い

劇場アニメ『ルックバック』は、2024年7月現在今年一番の話題作と言っても過言ではない高評価を得ている作品である。ナタリー、Yahoo!ニュース、読売新聞オンラインを始めとした数々の熱のこもったレビューが本作の話題性を表しており、中には「映像化の極致」「ここまで非の打ち所がないアニメ映画化作品を他に知らない」と盲目的とも言える評価を下すブログも存在している⁽¹⁾。
 私個人の感想も上記とそこまで温度差はないが、「非の打ち所がない」と断定するのは流石に軽率だと考えている。実際本作は一見しただけでも幾つかの問題点が散見される(ように思える)。本論の趣旨はそれらをあげつらうことではないため割愛するが、一つ例を挙げるなら「絵を描くこと」と「物語を作ること」が緩やかに混同されており、かつ両者に明確な上下構造が存在する点には異議を唱える人が出ても良いのではないかと思う。

 さて、本作には作中回答の与えられない問いが投げかけられる。それは、漫画は描くものではないと主張する主人公藤野に対し、共同執筆者京本が問うた「じゃあ藤野ちゃんはなんで[漫画を]描いてるの?」というものである。この放置された問いは作品テーマの根幹に関わるものであるためか多くの「考察」を生んでいる。代表的だと思う意見を紹介する:「藤野の答えはない。人生のあらゆる楽しみを捨てて、人生を絵に捧げることに説得的な理由はない。答えはそれこそ絵だけによって示される」⁽²⁾。「だがその問いに、藤野は答えない。いや、答えられない。人から褒められたいわけでも、お金を稼ぎたいわけでもない。描くことに理由があるのではなく、描かざるを得ないから描いているのだ。彼女は、<業を背負った人間>なのである」⁽³⁾。
 ここから少し批判的な意見を述べる。上記に紹介した意見はともに『ルックバック』の「考察」と銘打たれた記事から引用している。しかしながら、作中最大の問いかけに対し「答えはない」「答えられない」と結論を下している。これを考察と呼んで良いのであろうか。考察という言葉を使うのであれば無理矢理でも良いので理論立てた説明を試みるべきではないだろうか。

 というわけで、本論は『ルックバック』における「なんで描いてるの?」という問いかけについて文学理論の枠組みをなぞる形で読解し、一つの回答を導き出すことを目的とする。なお、私は藤本タツキによる原作漫画を一切読んでいないことを初めに明記しておく。

② 四方構造の規定

藤野のモチベーションを読み解く前段階として、本作に現れる対象を分類する四つの区画を規定したい。X軸、Y軸が交差するマトリクス図として機能するこの区画を、便宜上「四方構造」と呼称する。
 四方構造はグレアム・ハーマンがオブジェクト指向存在論において重視する考え方である。彼はハイデガーの四方界のアイデアを発展させ「四方対象」という新たな認知哲学のアプローチ法を提唱したが、その際に二元論(二項対立など)、三元論(弁証法など)の不完全性について指摘し、四つの分極に整理して分析する意義を説いている。本論はハーマンの分析方法に倣った試みではあるが、ただ単に四方構造を使用する点のみを参考にしたに過ぎず、その哲学的・理論的な内容を応用しているわけではない(というかできない)。

 まずは四方構造を構成する二つの軸を以下の通り規定する:【X軸】領土/領域、【Y軸】実在的/感覚的。それぞれの単位について説明する。
 「領土」とは、「ある主体が権力を発揮している物理的または心理的エリア」のことである。本作で例えれば、藤野が学級新聞で連載していた四コマ漫画コーナーは藤野という主体が権力を発揮する場として機能する「領土」ということになる。本作は藤野の領土が京本に「侵略」されることからスタートしている。なお、本論では領土の主権を奪おうとする働きかけを「侵略」、複数の領域間に接点を設けようとする働きかけを「アクセス」と呼称する。
 「領域」は領土とは異なり「権力構造を有しない物理的または心理的エリア」のことである。京本は件の四コマ漫画コーナーを領域として捉えており、自らの画力で藤野から権威を奪ったことに自覚がない。
 「実在的」「感覚的」はそれぞれ「四方対象」でも採用された現象学の用語であり、定義に理論的背景や議論が存在する概念ではあるものの、本論では観察者が介在する対象を感覚的、介在しない対象を実在的と呼称する。藤野と京本が描いた読み切り漫画は「セミ」「海」などの実在的対象をモチーフとしており、観察者である藤野と京本の認知を介して「漫画作品」という感覚的表現に変換される。
 そして、これらの交差によって現れる四つの領域をそれぞれ「実在的領土」「実在的領域」「感覚的領土」「感覚的領域」と呼称する。

 この時点で早くも小学生時点の藤野が「なぜ描くのか」を説明することが可能となる。前述の通り、藤野は4年生の中で一番絵が上手いという自負の元、学級新聞の四コマ漫画のコーナーを担当している。彼女にとって四コマ漫画は「感覚的領土」であると言える(補足:紙面スペースとしての四コマ漫画はコマ割りされた空間に過ぎないが、藤野の心理に焦点を当てると「感覚的領土」となる)。先生からの依頼で彼女は京本に二つあった漫画の枠を一つ「割譲」する。不登校の京本に対する「漫画が描けますかねえ?」という意見からは領主として権威を発揮している彼女の心理的優越感を見て取ることができる。
 しかし、次号の学級新聞にて京本が藤野を遥かに超える画力の持ち主であることが発覚する。結果彼女は感覚的領土の領主の地位を失う。肝心な点は、四コマ漫画を「感覚的領土」と捉えているのが(作中判断できる限り)藤野一人ということである。他のクラスメイトは恐らく実在的あるいは感覚的「領域」として四コマ漫画を扱っている。このギャップが藤野の認知に影響を及ぼす。クラスメイトの「京本の絵と並べると藤野の絵って普通だな」という何気ない感想が藤野にとっては権威剥奪の証言として響いてしまう。
 その日以降、藤野は京本の画力に追いつき、追い越すためデッサンの勉強と実践に没頭する。そのモチベーションはシンプルで、「剥奪された領土の奪還」である。ここで指摘したいのは、この時点の藤野にとって権威を保証するものが「画力」のみに限定されている点である。つまり、物語の作成能力などの他の要素は二の次なのだ。前章で『ルックバック』では「絵を描くこと」と「物語を作ること」が混同されていると問題提起したが、これは主人公の藤野が明らかに「絵を描くこと」を優先したキャラクターであるが故に生じた問題である。京本の漫画は画力こそ高いが単なる風景画に過ぎないので、ストーリー漫画としては起承転結のはっきりした藤野の作品の方が数段上であるが、彼女が「物語を作ること」を感覚的領土の権力維持の根拠としていた場合、「なんで描いてるの?」という問いへの回答は「領土奪還」とは全く異なっていたに違いない。

③ 領土返還の儀式

序盤の藤野の「被侵略的イメージ」は四コマ漫画コーナーの割譲に留まらない。彼女が己の領土を侵略される場面は他にもある。実家の部屋(むろんこれは実在的領土である)には「ノックして」とメッセージがぶらさがっているが、彼女の姉はそのメッセージを無視して彼女の部屋に侵入する。

 そのため、かどうかは分からないが、彼女が初めて他者の空間に侵入する場面は非常に印象的な出来事として描写されている。小学校を卒業した藤野は不登校の京本に卒業証書を届けるよう先生から依頼され、しぶしぶ京本の家に足を踏み入れる。彼女は京本が引きこもりであることを揶揄する四コマ漫画を描きちょっとした満足感を味わうが、これは学級新聞のコーナーを侵略された意趣返しに他ならない。この場面で藤野が描いた漫画「引きこもり世界大会」の内容も注目に値する。京本の引きこもる家を挟んで二手に分かれたギャラリーたちが「出てこないで」「出てこい」と野次を飛ばすが、当の京本は実は死んで骨になっていた、という内容には感覚と実在の乖離が表現されている。ギャラリーが想定する引きこもっている京本=感覚的対象と、死んで骨になっている京本=実在的対象のギャップが主題として現れた作品なのである。
 この「引きこもり世界大会」が偶然ドアの隙間から京本の部屋に入ることで二人の交流のきっかけとなるが、ここで発覚するのは京本が藤野の漫画のファンであったという藤野にとって意外な事実である。重要な点は、京本に奪われた領土が返還され、藤野の権力が回復したということである。京本の羽織へのサインは領土返還の証書として機能している。藤野への心理的効果は絶大で、学級新聞の王座の地位を揺るがす存在がいなくなった藤野には領土拡大の野望が芽生える。「漫画賞に応募する」という宣言は被侵略者だった藤野が一転して侵略的立場を手に入れた証左なのである。中盤の藤野が漫画を描くモチベーションは「己の感覚的領土を拡大するため」とすることができるだろう。
 なお、藤野と京本の領土返還のやり取りの場面で急に雨が降り始めるが、この雨は「悲しみ」「絶望」の雨ではなく、「融和」「除染」の雨である。

④ 領土拡大と離別

さて、藤野は京本を背景アシスタントとし無事漫画賞を獲得することに成功する。藤野は賞金から10万円をおろし、「このお金で豪遊しよう」と京本を誘う。この場面では京本の返事とともに藤野の家が映し出され、直後に豪遊場所となる都会の町並みへとカットが変わる。これは感覚的領土拡大の情景描写として機能する。藤野の拠点空間と次なる侵略対象が示されているのである。

 そこから二人は計7本読み切り漫画を掲載し、連載のチャンスを得ることとなる。この時点で藤野の領土拡大は半ば達成したと言えるが、次第に感覚と実在の乖離という問題が浮上する。
 まず、二人の掲載した読み切り漫画がとりわけ「実在的対象」を「感覚的領土」に落とし込む行為であったことに注目したい。確認できる限り、彼女らは二人で遊びに行った経験を基に作品を制作している。例えば、セミを観察した経験が「セミ人間」に、海に遊びに行った経験が「海のある町々」に落とし込まれている。「セミ」や「海」などの実在は藤野と京本という観察者を通じて「感覚」の世界に取り込まれる。つまり、二人の領土拡大は身の回りにある実在を自身らの感覚的領土に取り込むことによって成されているということである。そして、漫画の設定やストーリーを作成しているのはほぼ間違いなく藤野の方であろう。
 実在的対象を感覚的領土に取り込む制作手法は元々オリジナリティのあるストーリー漫画を作ることが得意な藤野の性にはあっている。しかし、観察対象をそのままデッサンする京本の作風にはマッチしていない。そのため、京本は藤野の侵略願望についていけなくなり、「絵が上手くなりたい」というモチベーションが芽生える。
 中盤最大の山場は京本が藤野とのタッグを解消する場面であろう。葉の落ちた細い木を挟んだ二人の会話の主題となるのは京本のモチベーションである。この場面に限って「なんで漫画を描いてるの?」という問いのスポットが藤野ではなく京本に当たっている。
 ここで確認できるのは、京本にとっての漫画は実在的領域に属する「放課後の学校」「夏祭り」「セミ」「海」「カニ」などの対象を己の「感覚的領域」に再現する行為だということである。つまり、実在と感覚の誤差をなるべく減らすことが京本にとって重要な点であり、実在を感覚に変換する藤野のアプローチとは異なっている。彼女は元々「引きこもる」キャラクターである。領土を外側に拡張する藤野に対し、外の対象を自らの領域の中に現出させることで己の世界を強固にしていくタイプのクリエイターなのである。

 一つ補足すると、タッグ解消の場面だけでは京本にとっての漫画が「領土」なのか「領域」なのか判断がつかない。これは京本が自身の作る作品に権力性を感じているか、という問題であるが、恐らく京本は漫画によって自らの権力を確保しようとは考えていない(藤野は間違いなく漫画によって己の権力を確保している)。理由は終盤のパラレルワールド的展開が示している。パラレル世界の京本も結局現実世界の京本と同様の美術大学に進学していることを考えれば、「賞を取る」「連載する」という領土拡大の野望が欠落していても彼女は漫画(というより絵)を描いていたことになる。
 つまり、京本離別の場面は「感覚的領土」に対する「感覚的領域」の離反なのである。藤野からは実在的対象をなるべく実在として捉えたまま漫画の中に再現する性質と手法が失われ、己の作風を強烈に誇示する侵略心だけが残される。

⑤ 二つのアクセス:領土から領域へ

論点を藤野に戻すと、連載を抱えてプロとなった藤野が直面するのは、自身とマッチする背景アシスタントがいないという問題である。アシスタントへの不満を電話で語る場面からは子ども時代の藤野からの乖離が見られる。子ども時代の藤野は京本の画力に衝撃を受け、画力を重視して漫画を描いていた。しかし、プロとなった藤野にとって画力は二次的な要素となっている。彼女は画力が高いだけのアシスタントについて「もうちょっと考えて描いてほしい」と漏らしているが、ここからは画力の代わりに作品理解が最重要になっている藤野の心情が見て取れる。

 物語は京本の死をきっかけに二つのパラレルに分岐する。終盤の、そして本作最大のクライマックスは分岐した二つの世界の交差と、それに伴う藤野の認知変化であろう。ここで、初めて「アクセス」という概念が登場する。ここからは京本の死を受け藤野が行った二つのアクセスについて整理し、結論へとつなげたい。
 2章に記載した通り、本論では「アクセス」を領域間に接点を設けようとする行為とし、領土の権力を奪おうとする行為である「侵略」とは対照的に扱う。藤野は少なくとも作中では侵略/被侵略のコードに従って行動している。京本と関係を築くきっかけとなった京本家への侵入も藤野にとっては「京本の領土を侵略し京本から領土を返還される」行為として完結していた。
 京本の死はそんな彼女の「侵略行為」の是非を問い直す事件となった。自身が京本の領土を侵略し、自らの感覚的領土に巻き込まなければ京本は死ぬことななかったと気付き、これまで自身を支えてきた領土拡大のモチベーションを急速に失うこととなる。藤野はかつて自分が描いた「引きこもり世界大会」を破り捨てるが、その一コマが再びドアの隙間から京本の部屋に入り込み、意図せずパラレル世界の京本にメッセージを送ることに成功する。これが「第一のアクセス」である。
 パラレル世界の京本は現実世界の藤野からのアクセスを受け、現実世界とは異なる生活を送ることになる。そして、現実世界同様美術大学にて男に襲われるが、間一髪のところをパラレル世界の藤野に救われる。京本はこの出来事を落とし込んだ漫画を描き、この漫画が結果的に現実世界の藤野への返答として機能することとなる。返答を受け取った藤野はついに閉ざされた京本の部屋へと足を踏み入れる。この行為が「第二のアクセス」である。
 アクセスした京本の領域で藤野が特に注目した対象は以下の3つである:①学級新聞の漫画のスクラップ、②藤野のサインが書かれた羽織、③藤野の連載する漫画の単行本。それぞれ京本にとって①出会う前の藤野、②出会った当初の藤野、③別離後の藤野を象徴している。前章で述べた通り、京本は実在をなるべくそのまま自らの感覚的領域に再現することを重視していることを踏まえると、この3つの対象よってそれぞれの時期の藤野を実在的対象として大切に扱っていた京本の真意が明らかになる。
 「侵略/被侵略」のコードを重視していた藤野だったが、京本の領域の中で3つの対象に触れることで初めて京本の「作風(=実在的対象の再現)」に向き合うことができたと考えられる。その結果、漫画は藤野にとって自身の権力を誇示するための「領土」から実在的対象を大切にする「領域」へと変化したのではないか、というのが私の意見である。アクセスのきっかけとなった4コマ漫画のフレームを窓へと貼りつけた藤野が「なんで漫画を描いているのか」と言えば、「感覚的領域の充実化」が答えとなるのではないだろうか。

⑥ まとめ

〇単位
・四つの区画:実在的領土、実在的領域、感覚的領土、感覚的領域
・侵略とアクセス:侵略=領土の主権を奪おうとする働きかけ、アクセス=複数の領域間に接点を設けようとする働きかけ
〇読解
・漫画:藤野=実在的対象を感覚的領土に取り込む行為、京本=実在的対象を感覚的領域に再現する行為
・藤野のモチベーション:感覚的領土の奪還→感覚的領土の拡大→感覚的領域の充実化

【参考】
(1)

(2) kazu1tetu「ルックバック考察――じゃあ藤野ちゃんはなんで描いてるの?」『killminstionsの日記』2024.7.1 (2024.7.22最終アクセス). https://killminstions.hatenablog.com/entry/2024/07/01/203240
(3) 竹島ルイ「「なんで描いてるの?」劇場アニメ『ルックバック』は創り手の背中を押す傑作か? <嫉妬が怨念と化した自分>を描く覚悟と、その先の讃美歌」『クイック・ジャパンウェブ』2024.7.1 (2024.7.22最終アクセス). https://qjweb.jp/column/115173/

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