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『天気の子』には三木道三がよく似合う~東京という表象の変化~

2021年の正月にテレビ放映された『天気の子』は、TwitterやGoogleのトレンドに入るなどSNSを媒介して盛んに楽しまれており、僕もテレビを点けながら携帯を眺めていた。その中で興味深かったのがゼロ年代のセカイ系エロゲのPS2版リメイクのアニメ版っぽいといったツイートであり、リツイート数やいいね数を見る限り、ネット上では一定の同意が得られたらしいという点だ。

僕もキャラクターや小道具など部分的にはその意見に同意だが、ゼロ年代ノベルゲームという(新海誠が育った)言語が用いられているだけで、むしろセカイ系ノベルゲームへのカウンターに思えた。それは『天気の子』で主人公が取った選択に、東京という地元で愛のあるセックスに精を出して、お前との赤ちゃんbabyが欲しいねんと三木道三・lifetime respectソウルが強く感じられたためだ。これは中学の同級生が札幌でヤンチャしてると聞いてたのに、しっかり地元の役場で働いて子供が3人いたときの感覚に近い。

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今の俺にとっちゃお前が全て

本項では、僕の感じたセカイ系へのカウンターとしての、深夜のドンキホーテでプリン頭をしながらキティちゃんのサンダルを物色する陽奈ちゃんが登場する『天気の子』や、東京という表象の変化について書き残したい。

ドメスティック志向の強靭さ

本作における最終局面はヒロインと世界の調和のどちらを選択するか?にあり、主人公はどうせ世界は元から狂っているんだからとヒロインを選択、ヒロインの犠牲によって調和がもたらされるかと思われた世界は再び不調和をきたし、作中の言葉で表現すれば元の狂った世界に戻って本作は終了する。上述のように本作の最終選択は「はんかくさい地元でなんとか生きていくしかないっしょ」であり、ファンタジーに彼女も救って世界も救おうという楽観さはない。非常に狭いスコープ――言うなれば、日常生活と経済活動が出来る軽自動車で動ける範囲、での最適解が選択される。この現実主義やドメスティックな志向は、セカイ系というより、AIRやCLANNADといった「ヤンキーの友達に貸したら号泣して返された」ゲームの感覚に近い。

このドメスティック志向というテーマは説明が削ぎ落とされている本作内においても繰り返し描かれる。それは何故か?

言うまでもなく『天気の子』はポスト3.11の作品である。不可避の自然災害というモチーフは『君の名は』でも描かれているが、後者ではエスエフ的に災害を(ヒロインが住む場所への隕石落下を過去と未来の交流という方法で)回避して主人公とヒロインにはハッピーエンドが訪れる。好きな女の子を救いたい願いの、ついでに一つの町も救ってしまうというもので、狭い世界における個人の最適行動――ドメスティック志向は前作にもある。その志向をさらに進め、悪く言えば保守的、良く言えば強靭さを手に入れたのが『天気の子』ではないかと思う。

主人公がヒロインを選んだことで東京が異常気象によって水没した後、老婆と話すシーンがある。老婆から昔は東京は海だったのだからまた昔に戻るだけと語られ、災害を受け入れながら生きていく姿が描かれる。これは否応なしに3.11のまた再建しましょうを想起させるし、保守・地元志向をポジティブなイメージに捉えている事がよく分かる。結局有事に活躍するのは、昔はヤンチャしてたけど丸くなって町役場で働き、神輿をかついで祭りを盛り上げ、先細りする世界でも子供を育てる地元の奴らの強靭さなのだ。

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最後は二年以上も雨が降り続いた令和6年の東京が舞台となるのだが、多くが水没した都市がかつてと同様に機能するとは思えない。それでも主人公とヒロインが東京を地元的に選択すること、ここに新海誠による東京という表象の変化が見て取れるのではないか。

東京という表象の変化

先述したとおり『君の名は』と『天気の子』はドメスティック志向という意味では類似した部分がある。一方で、同じく両作品に登場しながらも、観客に明確に異なる印象を与える存在がある、東京だ。

まず『君の名は』における東京は無味無臭で、なんとなく憧れることができる日本の中心として描かれている。主人公の瀧君には都心に住む高校生とキャプションが付くくらいであり、彼のアイデンティティに東京在住という漠然とした憧れが組み込まれている。都心に住む高校生と入れ替わったヒロインは学校帰りにクレープやらを食べたりと、これまたステレオタイプな明るく先進的な東京を満喫してくれている。

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一方で『天気の子』における東京はじめっとしていて陰気だ。降り止まぬ雨の中、登場する場所もネカフェや廃ビル、ラブホテルと総じて薄暗く、見ているだけで息が詰まる。主人公のバイト先となる編集プロダクションも半地下にあったり(終盤では見晴らしの良いビルのテナントに入っている)と徹底しているし、東京にあこがれて田舎から飛び出した主人公が味わうこの閉塞感は明確な意図あっての事だろう。本来憧れの対象だったはずの東京ですら、暗い未来を暗示させる場所=地元になってしまったのだ。

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この閉塞感はもはや東京に限ったことではない。2020年から見ると世界の都市の多くはまだ東京の方がマシとも言える惨憺たる状態になっており、僕たちの住む世界はどうやら全て、大規模な災害にスクラップされ、未来が見えないが、なんとか生きていくしかない世界になってしまったらしい。そんな狂った世界で強く生きるためには大層な主義は無用の長物だ。軽自動車に乗って動ける範囲で楽しんで、食べて、恋をして、赤ちゃんbabyを育てるドメスティック志向こそ、野蛮だが・強靭な、生き抜く術という訳だ。だからこそ『天気の子』の暗い舞台は、あの東京でなければならなかったのだ。80年代に隆盛を極め世界の中心となった、憧れのあの東京でなければ。

比較すべき作品として僕がもう一つ挙げたいのが、クリストファー・ノーランの『インターステラー』だ。環境破壊と異常気象によって世界が徐々に侵食されるも様はかなり本作に近い。しかし問題に対するアプローチは大きく異なる。『インターステラー』は、親子の愛が引き裂かれることになろうとも宇宙に飛び立ち新天地を探し求めるのだが、『天気の子』に限ってはアプローチすらしない。問題の解決を諦め、今の自分が取れる最大の幸福、地元で愛する人の手を取り、子を成し、老いて死ぬ事を選択するのだ。作品として成熟したとも言えるが、僕は非常に絶望的なテーマが潜んでいると思う。

なぜ二人は東京を出ないのか?

別にあの二人が水没した東京を背負って生きる必要はない。結果的に彼らの選択によって水没したとしても、環境破壊による異常気象は彼らの責任じゃないからだ。地元を抜け出し雨の降らない世界で愛を育むことも出来たはずなのに、なぜ彼らは東京に残る選択をしたのか?上述してきたように本作での東京は「地元」であり「世界」を象徴している。後戻りが出来ないほど狂った世界、もはや逃げる場所なんて無いのだし、負の遺産を引き継いでも、つながりのある地元でなんとか生きていくという選択を示したのだ。

限りある人生にいっぱい
楽しい時間をお前と生きたい

何があるかこの先わからへん
けどお前を絶対 離さへん マジで

テレビ放送を見たあと地方出身者で東京に出ている僕としては非常に悶々とした。ドメスティック志向の強靭さは理解しつつも、未来ある若者が絶望的な行動(水没した都市で恋をしようとする)を取ろうするのは辛い。しかし世界のどこにも希望がないのであれば、状況を諦めて生きる彼らこそ「大人」であり、銀河の彼方イスカンダルへ無計画に飛び立つ者こそ幼稚なのだ、と言われたような、そんな気持ちにさせられたのだ。

以上、終わりに代えて。

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