見出し画像

もし宮﨑駿が『メアリと魔女の花』を撮ったら

僕は宮﨑映画の魅力は悪役にあると思っているし、彼らが大好きだ。

彼らは確固たる信念と人生哲学を持ち、行動は疑いなくエネルギッシュで、主人公たちが苦しむ葛藤の段階はとっくに超越した存在だ。

私が今更言うまでもないが、宮﨑映画における悪役=宮﨑駿本人が投影されたものであり、群衆に対する蔑視や厭世観は確固たるもので、実際彼らの思想はあながち間違っていない場合が多い。創作でありながらその様にはリアリティがあり、だからこそ主人公たちが直面する相手にとって最高の存在となる。

(宮﨑駿はそこに抱擁力あふれる少女を登場させ、作品内で自身を浄化している……というのは、既に研究された本でも読んで下さい。)

僕のジブリ映画へのスタンスとはそんなところで、先日『メアリと魔女の花』という映画を観た。スタジオポノックというアニメ会社の作品で、かつてジブリに所属していたメンバーが殆どで、米林宏昌を監督としてアニメ映画を撮るために設立したらしい。そういえば『思い出のマーニー』は良かった。

今回の『メアリと魔女の花』を観てまず思ったのが、ジブリの皮を着ているけど決して宮﨑駿の映画では無いのだなということ。この絵柄のアニメ映画には常にラスボスみたいな事言ってるおっさんが絞り出したドス黒さがある!と思って身構えしまうせいか、観終わってすぐ、軽すぎてどんな反応をしたら良いか分からなかった。ただ脚本の穴は幾つかあったと思った。

Wikipediaにあらすじ(ほぼ本編書き起こし)が置いてあるが、簡単に説明すると、メアリという変わりたいと思っている少女が、魔女の花の力で一時的に魔女となり、魔法使いの世界でちやほやされるんだけど、それが原因で人間世界の男の子が巻き込まれちゃって大変!という感じだ。それで彼を助けるために魔法使いの世界で大立ち回りをするのだが、僕はあまりノれなかった。


それは悪役に血が通っていないからだ。

本作の悪役は「魔法学校の校長と教授」という設定になっている。何故なら魔法の水準を上げるために動物実験を行っているからだ!という事らしいが、それ以外彼らのバックグラウンドは不明で、魔法使いたちと人間世界との接点が全く明らかにされない。人間世界の文明進歩に貢献しているとか、裏で戦争を起こさせているとか、そういうストーリーは皆無だ。

ネタバレをしてしまうとメアリは人体実験のため拉致された男の子を救うため、空に浮かぶ魔法学校を破壊してハッピーエンドとなる。魔法学校には多くの罪ない学生たちが描写されていたのにお構いなく破壊して凱旋した。

それはさておき、悪役であるところの校長と教授に魅力が無い、いや正しくは魅力的に描かれることをされなかった。何やら変身魔法を研究しているらしいが、彼らを狂わせるほどの燃え立つ主観が含まれておらず、ただ何となく魔法の水準を上げたいとしか描かれないので、そもそも「悪」というには弱い。彼らの変身魔法は人類の発展に大きく寄与するかも、とさえ思える。

例えばだが、最愛の人を蘇らせるために魔法学校という組織や学生を利用していたとかそういう簡単なので良いのではないか?男の子を助けたいメアリの行動と被って物語的にも葛藤が生まれただろう。これ普通だけど良い例だ。

動物実験を行っていたので悪!という話になっていたが、宮﨑駿の描く悪役だったら「そう言う君たち無能な人間はどうだ?おとなしい動物にもっと酷い仕打ちをしてきただろう。有能な我々魔法使いが人類の発展のために研究している事の何が悪いというのだ?」くらいは言うはずだ。いや、実際そう思う。

↓言いそう

宮﨑アニメは悪役に「正当性=実際間違っていない感」があるからこそ、主人公たちに葛藤が生まれ、物語は深みを持ち、観客は息を呑んで感情移入出来る。そりゃあ作ってるガンコなおっさんが悪役自身なんだから、そんなキツイおっさんを相手にする主人公たちが可哀想なくらいだ。(宮﨑駿という人は暗黒面に全振りしているので悪役の出ない映画は結構微妙だったりする。例えばキキがキャラクターとして「魅力的」かと問われたら難しいだろう。)

今回の『メアリと魔女の花』にはそれらの要素が無かった。悪役はただ人間界から来た女の子に翻弄されっぱなしで、ただステレオタイプ的な執着を見せるだけだ。本当に止むに止まれぬ意志を持っているとは思えない。映像は文句なしに綺麗だったし音楽も良かったけど、僕は最大の山場っぽいところで何で映像と音楽が盛り上がっているのか分からなかった。悪役のキャラクターが弱すぎて結果として主人公の魅力まで失われてしまったのは勿体無い


何か大風呂敷を広げてしまいそうなのでこのあたりで締めるが、スタジオポノックという企業が開き直って「ほとんどジブリ」というスタンスで製作した事で、却って宮﨑アニメが見えてきたのは興味深い経験だった。作家が持つマイナスの感情こそ、作家が作家たる所以足らしめていることや、あんなドス黒い絞り汁を子供に飲ませてくる宮﨑アニメの異常性が再確認出来た。

最後にこの記事のタイトルを回収すると、宮﨑駿ならば少年少女としての自分と社会へ怨恨を燃やす自分とを戦わせていたと思う。純粋さをもって巨大な悪に正面から挑む主人公と、自己実現のために悪をも厭わない悪役のモチベーションは根底に同じクレイジーさを持っていて、異質ではなく表裏の関係だ。故に彼らは戦う運命から逃れられない――そこに必然的なドラマが生まれる。

これは完全に僕の自意識過剰に因るものだが、今回の米林監督の『メアリと魔女の花』は、ネガティブな感情をエネルギーにするような人にとっては自身を否定されたかのような印象を受けるかもしれない。悪役として設定されているキャラクターからは意志や哲学が感じられないし、ぽっと出の主人公たちに自分の世界を破壊されるのは煮え切らない思いが残る。子供の頃は絶望を与えてきた宮﨑アニメの悪役も、今では彼らの悪に向かって全力で突き進む様が、どこか心に拠り所を与えてくれているのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?