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かみさまはいていない

いつからなのかわからないけれど、いつからか神社仏閣が好きだ。
神社仏閣の何が好きかというとそこの空気感が好き。神社の建築や奉っている神様はわたしにとってはお釣りな気がする。
おみくじも好きだし、珍しいお守りも好き。
でも神様は…神様は。

物心がついた時から「お参りの時に神様にお願いごとをする」という行為に疑問を持つようになった。
神様にお願いごとをしてどうするんだろう?
誰が願い事を叶えるの?
こんな沢山の人たちの神様が願い事を叶えるの?
「願い事は自分が叶えるのに?」
自分の願いなんて自分だけがかなえられるのに。

このモヤモヤした気持ちを感じ始めてからは「お賽銭を入れて鐘を鳴らしてニレイ、ニハクシュ、(願いごと表明)、イチレイ」の()の部分はほとんど「無」もしくは「世界平和」と唱えるようにしている。
たま~に自分の決意表明。でも8割は「無」。何も考えない状態だということをここ最近になって気が付いたのだ。

「じゃあどうしてわたしはこうして神社に足を運ぶたびに儀式を繰り返しているの?」

今更だけどわたしは神様という存在は”いる寄りのいない”ものだと思っている。
いてもいなくても問題はない存在。
だからどっちでもいい。
いや、でもやっぱりいるのだ。
なぜかと言えば、わたしは神社や神様が宿ると言われている場所で罰当たりなことを絶対にしない。大きなモノに見られているような試されているような気がするから。
自分のなかの深い場所に”神社仏閣はとても神聖な場所”だとしっかりと彫り込んであるような感覚。
なのに「絶対に神様はいるんだ!!!」とは言えない、言いたくないんだわたしは。

だって人間が祈り続けることで神様という存在を創り出し、そして特殊なある一定の秩序という見えないボーダーができあがっているのだと思うから。
それを人は畏怖と呼ぶのではないだろうか。
その「畏怖」とは「神様を信じるマジョリティの目」なのでは?
「神様を冒涜してはならない」という暗黙の了解が前提にあってそれを信じる世間の目、近所の目、大切な人の目なのでは?

それは神様?
あれ???カミサマッテナニ???
エッ!!!カミサマッテ…エッ!????
と、散歩がてら近所の神社に足を運び、いつものようにお賽銭を入れていつものように「世界平和」と祈ったその帰り道に急にわたしの中の神様に対する考え方の居心地が悪くなって急いでこのnoteに記録している次第なのである。

基本的に神様とは人が作り出した存在だから祈る人が一人もいなくなったら神様は消滅してしまうものだと思っていて。
だから神様がいると信じているレベルに応じて信仰心は厚くなるのだろうし。
見えないから心のよりどころになりやすいのかもしれない。
信じてる人には神様が感じられるのかもしれない。
個人的な話をすれば神社にお参りに行って説明がつかない不思議な体験もしたこともある。
でも神様は。


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