境界を越えるバス/都県境編5/東名多摩川橋・多摩水道橋
東京・神奈川都県境編その5
2022年2月/9月現地調査
2022/10/01初版公開
この記事のデータ類は2022年10月現在のものです。
また特記なき限り画像類は筆者自ら撮影・作成したものです。
今回は、高速道路=自動車専用道路でありながら(高速)路線バスが通る東名多摩川橋と、主要地方道でありながら過去路線バスの設定が無かった(ように推察される)多摩水道橋を合わせて「東京神奈川都県境編その5」としてお届けします。トップ画像は多摩水道橋の方です。なお、多摩川を渡る橋が都県境となるのは、今回が最終回となります。これより上流では、都県境は多摩川を離れて多摩丘陵の中へと入っていきます。
東名多摩川橋(東名高速道路)
高速道路=自動車専用道路でありながら(高速)路線バスを通す橋は、言わずと知れた東名高速道路が多摩川を越える東名多摩川橋である。橋長495m/幅31.3mの往復6車線で、路側帯はあるが、当然、歩道は無い。1968(昭和43)年に供用開始されている。天下の大動脈なだけあって、老朽化対策で橋を架け替えることには無理があるため、2021~2024年の予定で道路交通への制限を最小限にしつつ、床板の取り換え工事が施工されている。
左岸側は東京都世田谷区宇奈根二丁目と喜多見一丁目の境界付近である。元々は北多摩郡砧村であったエリアなので、多摩水道橋の章で述べるように明治時代の前半に神奈川県だったことがあるエリアとなる。右岸側は神奈川県川崎市多摩区堰一丁目である。江戸時代には武蔵国橘樹郡堰村だったエリアで、1889(明治22)年に合併で神奈川県橘樹郡稲田村の一部となった後、1938(昭和13)年に川崎市に編入されている。
そして、東名高速道路には、ほぼ全区間にわたり高速道路上のそこここに設けられたバスストップに停車する「高速路線バス」が存在する。以下、これらの「高速路線バス」について解説する。
東名ハイウェイバス(国鉄→JRグループ)
国鉄時代に開業した東名高速バスのうち「急行」がほぼすべてのバスストップに停車する。実態としては「各停」なのだが、一般道を走るバスよりは速いので「急行」となった、のかどうかは不明。
1969(昭和44)年に開業。東京駅~名古屋駅間を運行するものは、主要停留所のみ停車する「特急」とされたが、後に更に停車停留所を減らした「超特急」が登場、「東名ライナー」の愛称がつく。新東名高速道路が開通した後の2012(平成20)年6月からは「直行」となる「新東名スーパーライナー」も登場している。
この路線は国鉄がJR各社に分割され、バス事業もその子会社に分離された後は、JRバス関東/JR東海バス/JRバステックの3社によって運行されている。ちなみにJRバステックはJRバス関東の子会社=JR東日本の孫会社で、JRバス関東の支店にて主にバスの清掃・洗車を受託している会社である。詳細について解説すると長くなるので省略するが、高速バスの運行そのものには2005(平成17)年に参入している。
流石にすべてのバスストップに停車する「急行」は大幅に減便されており、東京駅~静岡駅間に5往復/静岡駅~名古屋駅間に1往復のみとなっている。主要停留所停車の「特急」は東京駅~浜松駅間にて4往復の運行で、この便が「東名ライナー」の愛称を引き継ぐ。東京駅~名古屋駅間の主要停留所停車便が「超特急」扱いで10往復の運行、「スーパーライナー」の愛称を持つ。新東名高速道路を経由する東京駅~名古屋駅間の「直行」は8.5往復の運転で「新東名スーパーライナー」の愛称を持つ。原則として途中無停車だが、一部の便がバスタ新宿を経由する。また、東京駅行のみ、用賀パーキングエリアと霞が関にて降車できる。さすがに新東名経由の「直行」だけは拠点間直行型であるため、高速路線バスとは呼び難い。
箱根高速バス(小田急グループ)
多摩川を渡る区間を含む御殿場インターチェンジまでの東名高速道路には、もう1種類高速路線バスがある。小田急バスが運行する「箱根高速バス」が、JRの東名高速バスの「急行」と同様、高速道路上のほぼ全てのバスストップに停車する便として運行されているが、「特急」として案内されている。御殿場までノンストップとなる「超特急」も運行されているが、主力は各停便である。東名高速道路内のバスストップ間相互だけでなく、一般道を走る御殿場~箱根の区間も含めて、バス停間の相互利用が可能である。
運行開始は国鉄のハイウェイバスと同じ1969(昭和44)年6月。長年、新宿駅西口の小田急百貨店前を起終点としていたが、2016(平成28)年にバスタ新宿が開設されると、こちらに起終点を変更している。新宿駅から高速道路に入るまでの間には「池尻大橋」停留所があり、箱根方面行きは乗車/新宿行きは降車が可能である。
過去の路線(東名急行バス)
1969(昭和44)年6月~1975(昭和50)年3月の間には、東京の渋谷駅~名古屋の名鉄バスセンター間に、東名高速道路経由で路線を持つ、東名急行バスが存在した。東京急行電鉄(東急)・小田急電鉄グループ(小田急本体のほか、神奈川中央交通・箱根登山鉄道を含む)・名古屋鉄道グループ(名鉄本体のほか、豊橋鉄道も含む)が主要出資者であるが、この他にも、伊豆箱根鉄道・東海自動車・大井川鐵道・山梨交通・京浜急行電鉄・富士急行・遠州鉄道・静岡鉄道などの、沿線の私鉄・バス会社が出資していた。
開業当初から経営状態は芳しくなく、6年足らずで路線廃止されてしまった。渋谷駅の発着場は、廃止となった東急玉川線渋谷駅の跡地を利用していた。東名急行バス廃止後も近隣を走る路線バスが使用し、長年方向転換用のターンテーブルと共に残っていたが、再開発で渋谷マークシティが建設された際に消失している。
JRグループの東名高速バスや小田急グループの箱根高速バスは結構な頻度で利用してきた筆者であるが、さすがに東名急行バスに乗車した記憶はない。
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これらの高速路線バスは区間利用者もかなり多く、拠点間直行が主流となっている現代の高速バスとは若干性格が異なる存在となっている。ちなみに、東名多摩川橋に最寄りの高速道路上のバス停は、どちらの系統も神奈川県側にある「東名向ヶ丘」で、東名高速道路の本線料金所付近にある。どちらの方向の便も乗車・降車共に可能であるが、JR便は急行のみの停車で本数が少ない。
東京都側の最寄りは、上り便降車専用停留所の「用賀パーキングエリア」になる。東急田園都市線用賀駅まで徒歩5分程度で行ける。元々は首都高速3号渋谷線の渋滞が酷い時のみ、2010年より緊急回避?的に降車扱いを始めたものであるため、現在でも時刻表には記載されていない。首都高速区間には用地の関係から、この他にはバスストップが設けられていない。
なお、首都高速の渋滞回避としては、東名江田⇔東急田園都市線江田駅もしくはあざみ野駅も、道順を覚えておけば徒歩十分前後で乗り継げる。こちらは両方向とも乗車・降車共に可能であり、JR便の「特急」「超特急」も止まるので覚えておくと役に立つかもしれない。
多摩水道橋
多摩水道橋は、自動車/歩行者双方が通行可能な橋としては新二子橋の上流側の隣に架かる。いろいろと調べてみたが、現代までに橋を渡るバス路線が設定された形跡を見つけられなかった。
場所と来歴
橋が架かっているのは、かつて「登戸の渡し」があった付近である。狛江市内において多摩川に架かる唯一の橋でもある。主要地方道である東京都道・神奈川県道3号世田谷町田線が通り、橋を境に東京都側が世田谷通り/神奈川県側が津久井道と愛称が変わる。
左岸側が東京都狛江市和泉元和泉三丁目と東和泉四丁目の境界、右岸側は神奈川県川崎市多摩区登戸(河川敷の部分)/登戸新町である。橋長は368.8m。現在の橋は上り線用と下り線用の2つが接近して架けられており、各々が片側2車線で広い歩道を持つ。
初代の橋が架けられたのは1953(昭和28)年12月、相模川の水を東京都心に送る導水管が計画されていたこともあり、道路と水路の併用橋として架橋された。「登戸の渡し」はこの時に廃止されている。
増え続ける交通量に対応するため、1995(平成7)年に上流側に現在の上り線となる2車線+歩道付きの橋を架橋。2001(平成13)年には現在の下り線側となる部分の架け替えも終了し、現在の形となった。導水管の併設は引き続き行われている。
橋の右岸側=神奈川県側で少し上流に遡った地点には、小田急バスの登戸営業所がある。2013年6月に開設された比較的新しい営業所である。現在は生田折り返し場となっている生田営業所が移転してきたものであり、整備工場を併設している。小田急線向ヶ丘遊園駅および東急田園都市線あざみ野駅との間に出入庫系統が設定されている他、回送による出入庫も頻繁に行われているが、多摩水道橋を渡る系統は回送も含めて存在しない模様である。
この橋が、多摩川が東京・神奈川の都県境となる区間では最も上流に架かる橋となる。この上流に架かる多摩川原橋は、東京都調布市と東京都稲城市の間に架かるため、物理地理的な境界=多摩川を越えるが、都県境や旧国境は越えない。後述するように、明治期以降であれば南多摩郡と北多摩郡の境界であるが、江戸時代は西多摩郡や東多摩郡(→合併で豊玉郡となった後、東京市へ編入)もまとめて、全域が多摩郡であったため、郡境ですらなかった。
行政区画の変遷
橋が架けれた付近は1912(明治45)年の東京神奈川府県境変更に関する法律の影響をあまり受けていない。
江戸時代において、左岸側は武蔵国多摩郡和泉村であった。1889(明治22)年の町村制施行で周辺の村と合併して狛江村となった後、1952(昭和27)年に狛江町に、1970(昭和45)年に狛江市となって現代に至る。
なお、1871~1872(明治4~5)年の廃藩置県の際には、狛江村を含む多摩郡の領域は、一旦東京府の管轄になりかかるも、紆余曲折を経て最終的に神奈川県の管轄となった。多摩郡が分割されて北多摩郡所属となったのは、神奈川県であった1878(明治16)年である。その後、1893(明治26)年には北多摩郡・南多摩郡・西多摩郡ごと東京府の管轄に戻される。
一方、右岸側は江戸時代には武蔵国橘樹郡登戸村であった。1889(明治22)年の町村制施行時に周辺の村と合併して神奈川県橘樹郡稲田村が成立する。1932(昭和7)年に町制施行して稲田町となった後、1938(昭和13)年に川崎市に編入されている。1972(昭和47)年に政令指定都市への移行時に、旧稲田村エリアは多摩区となり、現在に至る。
境界の付近までやってくるバス
※この項目は、近日中に別記事に編入される可能性があります。
【2023/1 追記】「稲田堤」へのバス路線は2023年5月で廃止される予定。
詳細は現地調査ができ次第、追記するか別記事仕立てる予定。
多摩川の右岸=川崎市側には、主要地方道である神奈川県道・東京都道9号川崎府中線(通称:府中街道)が通っているが、この道路沿いに都県境を越えて東京都稲城市方面へ向かう路線バスはない。
ただし、市境=都県境ぎりぎりまでくる路線バスは、川崎市交通局によって運行されている。"登14"系統の支線で、菅4丁目~城下(実質的に京王稲田堤駅南口前)~西菅団地を結ぶ路線が、毎日運行であるが昼間帯に4便のみ運行されている。市境付近のバスのルートはラケット状のループになっている。「城下」の停留所を出発したバスは、府中街道上の「菅3丁目」のバス停を過ぎると市境の手前にて2回右折し、一筋北東側の路地に入ってから「菅4丁目」の停留所に停車。その先で右左折して府中街道へ復帰した後、「城下」停留所へ戻っていくという路線形状になっている。ちなみに、「城下」以北の停留所は、「菅3丁目」と「菅4丁目」だけである。
系統番号記号が示すように、この路線の本来?の運転区間は登戸駅~城下~西菅団地間であるが、実際のところは登戸駅周辺も循環運行になっていて昼間帯以外は単純に向ヶ丘遊園駅南口折り返しとなる便も多い。城下~西菅団地間の運行となる便も半数近くを占めている。
では、「菅3丁目」もしくは「菅4丁目」のバス停が川崎市最北のバス停留所か?、というとそうではなく、小田急バスの「稲田堤」の折り返し場が川崎市最北となるようである。"読02”系統と"読04"系統の2種類が使うが、どちらも土休日のみ早朝に1往復のみの運転である。ちなみに2018(平成30)年1月のダイヤ改正以前は、平日朝のみ各々1往復の運転だったようである。小田急線のよみうりランド前駅を経て生田折返場を結んでおり、途中の経路が異なるため別系統となっている。これらの系統の主系統は生田折返場~よみうりランド前駅~菅高校~城下を結ぶ"読05"系統である。"読04"系統は"読05"系統を城下から稲田堤まで延長したような運転形態になっているが、"読02"系統は菅高校を経由せず直接府中街道に出るショートカットルートをとる。
ちなみに大昔?には"堤01"系統稲田堤~城下~西菅団地という系統もあったらしい。欠番?となっている"読03"系統は稲田堤折返場には来ない系統で、生田営業所(当時)から稲田堤駅入口までは"読02"系統と同じルートを走り、その先は"堤01"系統と同じルートで西菅団地まで向かう路線だったようである。いずれも廃止時期は不明である。
何故、多摩川の川べりにバスの折り返し場があったのかというと、大昔は、多摩川の渡し船に連絡を行っていたため、らしい。「菅の渡し」と呼ばれ、1973(昭和48)年まで残っていた。「菅の渡し」は、1935(昭和10)年、やや上流に多摩川原橋が架橋された際に廃止された「上菅の渡し」と「下菅の渡し」を統合する形で設定された。
現在、JR南武線稲田堤駅は大規模改修工事を行っているが、土休日のみ各日2往復のためだけに折り返し場を整備するとは思えない。が、現在、「城下」=京王稲田堤駅前で折り返しとなっている川崎市交通局の"登14”系統を、JRの稲田堤駅前まで引っ張り込む目的で駅前広場にバスロータリーを整備する可能性は、無いとは言えない。この場合、現行の「稲田堤」折り返し場は廃止されることになるかもしれない。