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境界を越えるバス/都県境編15/もう1つの鶴間橋

東京神奈川都県境 境川編その1
2024年6月現地調査実施
2024/07/21 暫定公開
データ類は特記なき限り2024年7月現在のものです。
図面・写真類は特記なき限り筆者自ら作成・撮影したものです。

旧国境と合流した都県境が、境川を辿り始めた初回です。橋の名前は前回の記事と同じですが、場所は異なります。橋を渡るバスは、1日2往復だけになっていますが、かつては長大路線でした。


現場付近の状況

 今回の場所から本格的に境川を辿りだすと共に、横浜市の一角からも離脱する。まず、今回の記事で扱う鶴間橋と、前回記事で扱った鶴間橋の位置関係を示す。

2つの鶴間橋の位置関係。
ベースの地図は openstreetmap より作成。

 橋の名前は前回の記事と同じく「鶴間橋」だが、道路交通用の橋としては、前回記事の「鶴間橋」の5つ上流側に位置する。橋の袂は、東京都側が町田市南町田1丁目と4丁目の間/神奈川県側が大和市南鶴間となっている。通っている道路は、どちらも東京都道・神奈川県道56号目黒町町田線で、主要地方道である。
 ただし、前記事の鶴間橋は、大和バイパス開通に伴って国道16号線が降格された区間に存在するのに対し、本記事の鶴間橋は、比較的近年に開通した公所(くぞ)バイパスの延長上にある。

橋の全景。道幅が広いわりに橋が短いので、区間が良く解らないっぽい?
奥の方に見えるトンネルっぽいものが、公所(くぞ)バイパスの掘割区間です。
公所(くぞ)バイパスの掘割の上から見た鶴間橋。
やはり橋が目立ちません/埋もれてますねぇ…

 公所バイパスを含んだ鶴間橋前後の道路は、歴代の地理院地形図から推定すると、1980年代末~90年代初頭にかけて整備された模様である。ただし、橋そのものは昔から架かっていたようで、明治期の地理院地図にも記載がある。新旧地形図を対比させたものを貼っておく。

左側が1908(明治41)年版/右側が現代の、鶴間橋付近の地理院地図。
例によって「今昔マップ on the web」により作成。

 旧版地図によると、原町田方面からやってきて鶴間橋を渡った街道は、南鶴間を経て藤沢にまで至っている。おそらく、後の主要地方道藤沢町田線の原型となる道であると推定される。この道の南鶴間以南は1993(平成5)年に国道467号線に昇格されており、残った部分が1994(平成6)年に東京都道・神奈川県道56号目黒町町田線となった。この段階では公所バイパスは開通していたと推定されるので、主要地方道が境川を渡った後のルートが改変されたのは、国道16号線大和バイパス(右の地図で画像下方を左右に横切る赤い道)の開設時、と推定されるが、詳細は調べ切れていない。

通過するバス路線

 "町82"系統町田バスセンター/ターミナル~つきみ野駅がこちらの鶴間橋を通る。平日と土曜はダイヤが共通、休日はダイヤが異なるが、運転本数は全日2往復である。担当は、神奈川中央交通東大和営業所。つきみ野駅側にて大和営業所との間を回送で出入庫しているようで、上りと下りで運転時間が離れている。町田側では他系統と入れ替えが行われている模様。

鶴間橋を渡る"町82"系統つきみ野駅行。
一応、橋の欄干と、左端の方に都県境/市境のロードサインも見えます。

 運行経路は、町田側は他の同じ方面へ向かう路線(つくし野駅、すずかけ台駅、鶴間駅方面。『金森方面』案内されることが多い)と同様に町田街道を走り、町谷原の交差点から公所バイパスの延長線上の道に入り鶴間橋へ至る。橋を渡った後は公所バイパスには入らず、境川沿いの道へ左折。急坂を登って公所の集落内を経由してつきみ野駅に至る。つきみ野駅では、コミュニティバス以外の路線バスとの接続はない。

境川右岸=西岸の道へ曲がりこむ"町82"系統つきみ野駅行。
此の先で河岸段丘を上がり公所(くぞ)の街中を通ってから駅に向かいます。

 もともとは"町80"系統町田駅~つきみ野駅~中央林間駅~大和駅を結ぶ長大路線であったが、2002(平成14)年11月に路線短縮の上で系統番号も変更された。この当時は平日5往復/土休日3往復の運転であったが、徐々に運転本数が減らされ、2021(令和3)年1月のダイヤ改正で平日のみ3往復の運転となっていた。最近土休日の運転が復活して全日2往復の運転となったが、その詳細な時期は調査未了である(おそらく2024(令和6)年3月のダイヤ改正の時?)。

現場付近の自治体の変遷

 これまでの記事で説明した内容とほとんどが重複するため、簡単に記す。詳細は1つ前の記事を参照。
 東京都側=武蔵国側は、江戸期以前は武蔵国多摩郡鶴間村であった。1889(明治22)年の町村制施行に伴う合併で南多摩郡南村になった後、1954(昭和29)年に町田町へ合併、1958(昭和33)年に市制施行で町田市鶴間となった。2016(平成28)年に住居表示の実施により、鶴間の北半分と隣の小川の極く一部が南町田となり、現在に至る。
 神奈川県側=相模国側は、江戸期以前は相模国高座郡南鶴間村であった。1889(明治22)年の町村制施行に伴う合併で高座郡鶴見村→大和村となり、戦後、1943(昭和18)年町制施行、1959(昭和34)年に市制施行して大和市南鶴間となり、現在に至る。なお、南鶴間の南部は住居表示が実施されているが、鶴間橋の袂は住居表示未実施エリアである。


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