境界を掠めるバス/都県境編17.5/中里橋他
東京神奈川都県境 境川編その3.5
2024年8月現地調査実施
2024/08/24初版暫定公開/2024/08/29追加改訂公開
データ類は特記なき限り2024年8月現在のものです。
図面・写真類は特記なき限り筆者自ら作成・撮影したものです。
久しぶりに都県境のすぐ近くまで来るものの、橋を渡らずに折り返していく路線です。起終点ならまだしも、中間停留所なのに折り返していく路線はかなり珍しいです。橋の方も、新・旧・人道と3つ並んで架かっています。
橋の位置
中里橋は、前の記事で紹介した境川橋の上流1.3kmぐらいのところに架かっている。現場付近には、下流側から順に、中里人道橋・中里橋・新中里橋の3つが数十m~百mの間隔で架かっている。道幅は、上記の順序で狭い順になっている。通過交通のほとんどは、新中里橋が受け持っている。
橋の所在地であるが、東京都町田市側が、真ん中の中里橋の袂が木曽西1丁目(下流側)と2丁目(上流側)の境界になっている。なので、人道橋は1丁目側/新橋は2丁目側である。神奈川県相模原市中央区側は、上流側の新中里橋の袂で東淵野辺2丁目(下流側)と淵野辺本町5丁目(上流側)の境界となる。なので、人道橋と旧橋の袂は東淵野辺になる。ただし、中里橋と新中里橋の間の百mほどの区間では、町田市木曽西2丁目が境川右岸に張り出している。奥行きは数十m程度。この部分には101番地と左岸側より大きな番地が割り振られている。家屋の類はたっていない。
歴代地形図や現場の銘板によると、中里橋→新中里橋→中里人道橋の順で架かったと推定される。河川改修工事に伴いこのエリアの橋が無くなっていた時期があるようだが、詳細は後述する。
バス路線
中里橋付近にやってくるバス路線は、"淵22"系統淵野辺駅北口~古淵駅である。途中、道路が狭隘な区間を通るため、いわゆるコミュニティバスサイズの小型車が運用されている。本系統専用の塗装?ラッピング?がされているが、特に愛称はついておらず、正式?にはコミュニティバスでは無い。
この系統は、淵野辺駅と古淵駅の間を、ほぼJR横浜線の北東側に沿って走る。路線の中間付近にて境川の側に直角に折れ、中里橋にすぐ近い所にあるニュー相模団地のバス停までやってくる。そのまま真っ直ぐ突っ込むと新中里橋であるが、バスはその手前の交差点で右折。さらに(旧)中里橋の袂から続いている斜めに走る道へ右折し、元の道へ戻って帰っていく。寄り道する区間の距離は数百mで、この間は古淵駅行も淵野辺駅行も同じルートを通る。ニュー相模団地停留所のポールは、上下兼用になっている。
ダイヤは全日共通で、朝4往復/昼2往復/夕2往復の合計8往復が1時間間隔で運転されるが、朝と昼・昼と夕の間は3時間以上運転がない。担当は神奈川中央交通東の橋本営業所担当。相模原営業所が担当していた時期もあった。ちなみに、淵野辺駅北口発着系統には"淵40"系統を名乗る相模原市コミュニティバス路線(次々回記事で紹介予定)がある。これも橋本営業所が担当しているが、車両は同型車であるものの共通運用ではない。
中里橋の東京都町田市側に続く道には、バス路線は存在せず途切れている。ただし、中里橋を通る自動車交通の量は、前後の市道を含めかなり多く、歩道も広目のものが連続して設置されている。
東京都町田市側に数百mほど行くと、坂を登った先で境川左岸を並走する町田駅前通りと、町田総合高校南の交差点で交差する。交差点近隣に町田総合高校前のバス停留所があり、町田駅方向には"町17""町33""町78"の3系統合わせて毎時4本程度が運転されている。逆方向は、この交差点で二手に分かれるうえ、数百m先の根岸1丁目の交差点でさらに二手に分かれる。
町田駅以外の鉄道駅に出られる路線は、町田駅前通りを走りぬく"町17"系統町田バスセンター~淵野辺駅北口のみで、毎時1本程度の運転である。町田総合高校前の交差点で分岐していくのは、分水嶺を越えた先の鶴見川水系源流域の住宅街である下山崎発着の"町33”系統で、毎時2本程度の運転。根岸1丁目の交差点で分岐するのが野津田車庫まで向かう"町78"系統で、1時間に1本程度の運転である。ちなみに、町田駅~野津田車庫間の路線は運転本数僅少系統を除いても経路違いが5系統あり、"町78"系統はその中では運転本数が少ない方になる。
中里橋の周辺
来歴・周辺の史跡
橋そのものの歴史はきわめて古く、現地で見た解説板によれば、南北朝時代の伝承が残っているらしい。実際、明治中期~大正時代の地形図にもこの橋の記載がある。境川の流路が屈曲していたエリアであるため、橋の位置は現代と若干ずれている。
ただし、高度経済成長期辺りに行われた、境川流路直線化工事の際に、橋がいったん消えている。直線化された境川進流路上に中里橋が新たに架け直されたのは、現地で見た橋の銘板によれば1976(昭和51)年3月となっているが、何故か1983(昭和58)年修正測図版の地形図には橋の記載がない(記載漏れか?)。
周辺自治体の変遷
周辺の自治体の変遷は前の記事で紹介した境川橋とほぼ同じであるので、概略を記しておく。
東京都側=武蔵国側は、江戸期:武蔵国多摩郡木曽村→明治期:神奈川県南多摩郡忠生村大字木曽→昭和中期:東京都町田市木曽町と変遷している。住居表示により木曽西が分立した時期は2回に分かれていて、下流側の1丁目は4・5丁目と共に2007(平成19)年、上流側の2丁目は3丁目と共に2012(平成24)年である。
神奈川県=相模国側は、江戸期:相模国高座郡淵野辺村→明治期:神奈川県高座郡大野村大字淵野辺→昭和中期:神奈川県相模原市大字淵野辺と変遷した。住居表示の実施により上流側の淵野辺本町が分立したのが1978(昭和53)年、下流側の東淵野辺が分立したのが1985(昭和60)年である。その後、2010(平成22)年に政令指定都市移行に伴い、相模原市中央区の所属となっている。
境川旧流路の風景
前の節で触れた通り、中里橋と新中里橋の間で、都県境が境川の右岸にめりこんでおり、これが境川の旧流路跡である。こちらは小規模であるためか、地図と照らし合わせないと旧流路と気づかないかもしれない。
しかし、中里橋一群の下流側に架かる境橋の周辺では、さらに大きく旧流路が蛇行していて、その跡が明瞭にみられる箇所がある。このエリアは、新流路と旧流路に挟まれた中洲のようになっているが、地盤はしっかりしているので宅地化されている。住所は東京都町田市木曽西1丁目38番地以降となっている。
周辺を囲む町田市東淵野辺と往来できる道路が非常に少ない。これは、旧流路が埋め立てられずにそのまま存在し、やや深めの峡谷状になっているためである。古い地図を見ると判るのだが、昭和中期以前ではこの区間で境川は二つに分流しており、現在、新流路と旧流路に挟まれているエリアは、本当に中州であった。都県境が維持されたためか旧流路は埋め立てられておらず、このエリアの住宅街にアクセスする道路は、実際に旧流路を橋で渡っている。
境川は随所で流路直線化が行われているが、旧流路を埋め立てずに遊水地として利用しているところも散見される。地盤の関係からか、埋め立てて宅地などの一部にしてしまうと何かと問題が多いためか、と推定される。
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