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境界を越えるバス/都県境編11/町田市三輪地区周辺

東京都神奈川県境編11(多摩丘陵編6)
2022年2月/2023年3月現地調査実施
2023/03/19 暫定版公開

データ類は特記なき限り2023年3月現在のものです。
画像・写真類は特記なき限り筆者自ら作成・撮影したものです。

片平川と真光寺川の間の明瞭な尾根を辿って来た都県境ですが、津久井道や小田急線を越えた辺りで尾根が消失します。その先で都県境は、一旦川筋に進路をとった後、神奈川県側が横浜市青葉区となる辺りで、再度尾根筋にうつり、町田市の三輪地区をぐるりと囲むように進んでいます。この界隈のバス路線を、境界を越えないものも含め、都県境と合わせて解説します。


現場付近の都県境

 文章だけで説明しようとしてもややこしくなるので、まず、現場界隈の都県境を図示する。

現東京都町田市三輪周辺の都県境と津久井道。ベースの白地図は freemap.jp より。
緑文字は明治前期の町村制施行時の村名で、南多摩郡鶴川村以外は都筑郡です。

 (仮称)真光寺峠から続くこの付近の都県境は、概ね片平川と真光寺川の分水嶺を辿って進んできていた。片平川は小田急小田原線柿生駅の北西側にて以前の記事で述べた麻生川に合流。真光寺川も柿生駅~鶴川駅間で津久井道=東京都道・神奈川県道3号世田谷町田線の南側へ出た辺りで鶴見川本流と合流する。そして、都県境の麻生川と鶴見川の分水嶺も、津久井道を越えたところで、尾根が尽きてしまう。

現代の津久井道上から見た、都県境尾根断面。
尾根の末端部だったらしく、切通とは呼べない状態?
津久井道上の川崎市麻生区のロードサイン。
標識背後の建物の間が都県境尾根末端です。
津久井道から小田急線を挟んで南側に延びる都県境。もはや尾根はありません。
旧版地形図を見ると、昔からこの先は尾根がなかったようです。
津久井道上の東京都町田市のロードサイン。
免許維持路線として著名?な”淵24"系統はこの道を走ります。

 ここで都県境は、真光寺川の旧流路へ移行。旧流路とはいっても、この区間は水路としては現役である。激しく蛇行しているが都県境はこれを踏襲しており、数百m行った辺りで麻生川に合流する。この先、やはり数百mで以前は鶴見川と合流していたが、1970年代に行われた流路改修工事で鶴見川本流が直線となった際に合流点は下流側に移動している。都県境は変更されていないので、鶴見川旧河道を辿って大きく屈曲した後、右岸に現れた尾根筋を登っていく。この地点から、都県境の神奈川県側は、川崎市麻生区から横浜市青葉区に代わる。ただし、どちらも武蔵国都筑郡だったエリアなので、三郡境ではない。

都県境が真光寺川旧流路に移行する地点。
都県境は、尾根消失後は画面左手から来る小水路を辿っていています。
旧真光寺川へ合流した後は画面奥へと進み、激しく屈曲します。
真光寺川旧流路が激しく屈曲する区間を終え、麻生川と合流する地点。
都県境は奥から来て左へ行きます。
麻生川(左)と鶴見川(右)の合流点。
ただし、どちらも改修後の新流路で、都県境は旧流路を辿っています。
この地点は完全に川崎市麻生区内です。

 この尾根筋は一旦南西へ向かい、こどもの国の中で北西に方向を変える。こどもの国を抜けた先で尾根は西方向へ向かうものと北方向へ向かうものに二分する。都県境は北へ向かうが、西方向の尾根は現代では横浜市青葉区緑山と川崎市麻生区岡上の市境になっている。この分岐点から、都県境の神奈川県側は再度川崎市麻生区(ただし飛び地)になる。江戸期には武蔵国都筑郡奈良村と岡上村の村境であり、やはり三郡境ではない。
 都県境が辿る北方向への尾根は、やがて鶴見川に行く手を遮られて消失することになるのだが、都県境はかなり手前から尾根東側の谷戸へ降る。その先の真光寺川が鶴見川に合流する地点の下流側にて、都県境は鶴見川を越えて左岸=北岸側へ進出し、真光寺川の旧流路に突き当たり、町田市三輪地区を取り囲む区間は終了する。
 この地点は、本節冒頭で説明した都県境が鶴見川と麻生川の分水嶺から真光寺川旧流路に移行する地点と、僅か200~300mしか離れていない。言い換えると、町田市の三輪地区はこの数百mの幅でのみ、町田市の他の地区とつながっている。ちなみに、この区間の真光寺川旧流路は、江戸期には多摩郡能ヶ谷村と三輪村との境界であったが、明治期の町村制施行時に合併して神奈川県南多摩郡鶴川村となった時に村境ではなくなった。
 都県境は西に向きを変え、しばらくは鶴見川(旧流路疑定地を含む)を辿るが、やがて津久井道や小田急小田原線と共に南西方向に別れ、尾根筋を辿るようになる。そして玉川大学の構内にて、こどもの国北側で分岐した尾根に合流。神奈川県側が横浜市青葉区に戻り、尾根筋を南下していく。
 この辺りの都県境についての考察は、本稿後半の「行政区画の来歴」にて行おうと思う。ただし、すっきりした結論は出ていないので、あらかじめご了承いただきたい。

町田市三輪地区界隈のバス路線

三輪地区の東側を走る路線

 町田市三輪地区へ、川崎市麻生区柿生=旧都筑郡柿生村側から乗り入れるバス路線はない。しかし、都県境が麻生川を辿る区間にて、左岸=北岸側に並走する神奈川県道12号横浜上麻生線を走るバス路線は存在する。運転本数もそこそこ多く、この区間の麻生川には橋も何本かかかっているため、三輪地区へのアクセスに十分使える路線である。
 運転本数がそこそこ多いのは、柿生駅北口発着の"柿22, 23"系統で、この2系統でほぼ全便を占める。"柿22"系統は桐蔭学園折り返しで小田急バス新百合ヶ丘営業所の担当。平日と土曜の通学時間帯に頻発運転され急行便もある。通学時間帯以外は毎時2~3本程度の運転で、終車は早い。また、休日の運転本数は極端に少ない。"柿23"系統はその先東急田園都市線の市が尾駅に至る路線で、小田急バスと東急バスの共管である。概ね20~40分間隔の運転である。こちらも終車は早く、柿生駅で21時前後である。

津久井道から上麻生の交差点を左折して神奈川県道12号線に入る"鶴23"系統市が尾駅行。
神奈川県道12号線を出て上麻生交差点を右折する"鶴22"系統柿生駅行。

 この区間を走る運転本数僅少系統は2つある。そのうちの1つ"柿25”系統は桐蔭学園の手前で鶴見川右岸=西岸に渡り鴨志田団地方面を循環して戻ってくるルートで平日3便/土休日4便のみの運転である。ただし鴨志田団地へは青葉台駅から東急バスが頻繁運転を行っている。もう1つは"柿26"系統京王相模原線の若葉台駅から柿生駅北口を経て市が尾駅に至る路線となる。以前の記事「若葉台駅周辺」でも紹介したように、土曜日に1往復が運転されるのみである。この系統のみ神奈川中央交通が担当する。
 なお、"柿26"系統は、柿生駅―若葉台駅間運転となる"柿27"系統や、津久井道をひた走る"淵24"系統淵野辺駅―登戸駅と共に、柿生駅のバスロータリーには入らず、都県道3号線=津久井道上のバス停で客扱いを行う。

運転本数僅少系統ばかり、3系統週3便(土曜のみ)が立ち寄る、津久井道上のバス停。
これらの系統は、柿生駅のバスロータリーには入らないのでご注意を。

都県境上を走る路線

 町田市三輪地区へ向かうバス路線は、全路線が小田急小田原線鶴川駅起点である。従って、鶴川駅がある東京都町田市から一時的に川崎市麻生区岡上に入った後、町田市三輪地区へと乗り入れる形となる。該当する主要系統は、"鶴01"系統フェリシアこども短期大学行"鶴07"系統こどもの国経由奈良北団地行"鶴08"系統三輪緑山循環"鶴09"系統緑山経由奈良北団地行である。定期ダイヤ上には記載がないが、行楽期には"鶴05"系統こどもの国行も運転される模様である。運転本数僅少系統に"鶴06"こどもの国経由三菱ケミカル行があり、平日の通勤時間帯に数本だけ運転される。"鶴01"系統が神奈川中央交通の担当、"鶴05, 06, 07, 09"系統が小田急バスの担当で、"鶴08"系統のみ両社の共管となる。 

鶴川駅から町田市三輪地区方面を結ぶバス路線群。
都県境となる区間以外は主要停留所のみ掲載。
三輪入口~三輪緑山2丁目間は都県境上の道を走ります。

 いずれの系統も鶴川駅を発車すると、まず津久井道を東に進み、最初の交差点で右折、東京都道・神奈川県道139号真光寺長津田線を南下する。岡上跨線橋で小田急小田原線を越え、ついでに鶴見川本流も越えるが、都県境は小田急線を越えるために登り坂になっている区間で越えている。この都県境は町田市三輪地区の西側、川崎市麻生区岡上地区との境界である。

岡上跨線橋を渡っていく"鶴08"系統三輪緑山循環線。
都県境は2つ目の橋脚付近ですが、小田急線や鶴見川はさらにその先です。
跨線橋の向こう側へ回り込んでみました。
2つ目の橋脚の向こう側を都県境が横切ってるはずです。
その橋脚の先をのぞき込んでみました。
画面中央やや右寄りの路地が都県境のはず。
この前後暫くの間、都県境は鶴見川のみならず小田急線の北側に張り出しています。
跨線橋上から見下ろす都県境。
橋上のバスが、ちょうど、都県境を越えたところです。

 跨線橋を越えた後も丘陵地帯を更に登っていき、岡上の停留所の手前、岡上駐在所前の交差点で、"鶴01"系統が東側へ曲がっていく。"鶴01"系統は鶴見川支流の谷戸を越えた先で再度都県境を越え、町田市三輪地区へ入って行く。すぐに左折して北上し、鶴見川と真光寺川の合流点の少し下流側にて、鶴見川左岸=北岸であるが町田市三輪地区となっているエリアに進出する。バス路線は町田市三輪地区にある(私立)鶴川高校前を経て下三輪入口を過ぎると、再度鶴見川を右岸に渡る。渡った先に「三輪」の停留所があり、路線開設当初はここが終点であったが、1998(平成10)年に路線延伸がなされている。路線は三度丘陵地帯を登っていき、フェリシアこども短期大学(旧称:鶴川女子短期大学)の近くで終点となるが、後述する"鶴08"系統の「けやき通り」停留所へは百m前後の距離である。

岡上駐在所前交差点付近から、"鶴01"系統が走る都県境遠景。
鶴川駅行のバスが居る辺りは、都県境を越えて川崎市麻生区岡上のエリアになります。
都県境の路地との交差点を通過中の"鶴01"系統フィリシアこども短期大学行。

 東京都道・神奈川県道139号線に沿って、岡上駐在所の交差点を直進したバス路線が通る道は、程なく、都県境が東側の谷戸を登ってきて尾根上に出るため、都県境上の道となる。その先、三輪緑山の交差点で"鶴08"系統が東へ左折。県境尾根の東側=町田市三輪地区側に開発された住宅街三輪緑山エリアを一周する。このループの最奥となる「けやき通り」停留所が、先程の"鶴01"系統の終点「フェリシアこども短期大学前」の近傍である。三輪緑山の住宅街に東京都道・神奈川県道139号線からアクセスする主要路は2つあるが、"鶴08"系統は往路・復路とも同じ場所で出入りする。

三輪緑山の交差点を左折する"鶴08"系統三輪緑山循環線往路。
都県境は左側の道路上のはずです。
交差点を曲がり切って完全に町田市三輪緑山エリアに入った"鶴08"系統。
三輪緑山交差点から都県境の道の南側をみた風景。

 更に南下すると、都県境は緑山の交差点の手前で少しだけ西側に逸れた後、交差点にて西から東へと横切っていく。昔からの道は都県境をなぞるルートであった模様。1970年代初頭に本格的に開通した車道もそのルートであった様子だが、現代ではこのルートはベースとなる道幅はそのままであるが、自動車などは通行禁止となっており、ところどころで道幅を狭められている。地理院地図では、この方向が現代でも都県道であるように表示されている。
 バス路線は”鶴09"系統の奈良北団地行のみがこの交差点を西方向に右折こどもの国経由となる"鶴06"系統と"鶴07"系統は直進する。どの系統も交差点北側の短区間だけ、両方向とも東京都町田市側に入るが、交差点から先は神奈川県横浜市青葉区内となるため、これらの系統が完全に町田市内を走るのは、鶴川駅周辺のみとなる。この交差点にはこどもの国方向から登ってきて西側に左折していく"青56"系統青葉台駅~緑山循環線が通る。東急バスの担当。この路線は僅かな区間のみ都県境の道を走るものの、左回りの1方向循環でバス停のポールも横浜市青葉区側のものだけを使用するため、東京都町田市側には入らない。

こどもの国から登って来た"鶴07"系統鶴川駅行。
交差点南側なので、まだ横浜市青葉区緑山のエリアです。
三輪緑山二丁目のバス停に接近中の"鶴07"系統鶴川駅行。
バスの居る辺りの都県境は、画面奥方向へ道路を外れているので、
バスが居る辺りは完全に町田市三輪エリアです。
「今昔マップ on the web (c) 谷 謙二 氏」により作成した、
三輪界隈の新旧地形図(左:1977年発行版/右:2023年現在の最新版)。
現在は自動車通行止めとなっている緑山東側のルートが、開通当初は本線でした。

町田市三輪地区周辺の自治体の変遷

自治体の変遷の歴史

 このエリアの多摩郡側は、江戸期には武蔵国多摩郡三輪村→1889(明治22)年の町村制施行に伴う合併で神奈川県南多摩郡鶴川村三輪→多摩地区の東京都移管→1958(昭和33)年に合併により東京京都町田市三輪、となっている。
 一方都筑郡側は、三輪村の周りを取り囲んでいるため、4つのエリアに分けて考えることができる。
 東側が武蔵国都筑郡上麻生村・下麻生村で、明治期の町村制施行で神奈川県都筑郡柿生村となったエリアである。1939(昭和14)年に川崎市に編入、政令指定都市移行時に多摩区→分区で麻生区となった経緯は以前の記事にて何度か述べている通りである。南側は武蔵国都筑郡寺家村であったエリアで、明治期の町村制施行により周辺の村と合併して神奈川県都筑郡中里村寺家となる。1939(昭和14)年に横浜市に編入され、神奈川県横浜市港北区寺家町となる。以降、1969(昭和44)年に港北区から緑区が分区、1994(平成6)年に区の再編で横浜市青葉区寺家町となり現在に至る。この2つのエリアとの間には、当時の郡境を越えるようなバス路線は設定されていない。
 西側は更に2つに分けられる。その南部は、江戸期には武蔵国都筑郡奈良村だったエリアで、明治期の町村制施行で合併して神奈川県都筑郡田奈村となる。1939(昭和14)年に横浜市に編入され港北区となった以降の変遷については寺家村と同じである。現代のバス路線では、"鶴06, 07, 09"系統が最終的に都県境を外れて神奈川県側に入り込む地点が該当する。
 西側の北部は、江戸期に武蔵国都筑郡岡上村であった領域となる。明治期の町村制施行時もそのまま神奈川県都筑郡岡上村として単独で村制を施行。この時に都筑郡柿生村と町村組合を結成している。以降の変遷は柿生村と同じで、川崎市へ編入後、多摩区岡上→麻生区岡上となっている。1970年代に三輪村→鶴川村三輪→町田市三輪との境界線上に東京都道・神奈川県道が整備され、ここを鶴川駅から横浜市の旧都筑郡奈良村エリアを結ぶバス路線が開設されたため、現在のように都県境を越える路線が多数存在するようになった。

都県境についての考察

 都県境がこのように複雑に蛇行しまくった形態になっている理由は、このラインが江戸期以前の多摩郡の南端だったから、としか説明しようがない。では、正確な地図などない時代である律令制(概ね西暦600~700年代?)の時代に制定された多摩郡南端が、何故このように蛇行しまくったのか、その明確な理由について言及した資料は見つからなかった。ただし、岡上村→川崎市麻生区岡上は、かつては多摩郡に属していた時期があるとの記録がある。
 神奈川県側に張り出した町田市三輪地区=旧武蔵国多摩郡三輪村は、まだ辛うじて町田市=旧多摩郡の他エリアとつながっているが、その代わりに川崎市麻生区岡上地区=旧武蔵国都筑郡岡上村は、完全に他の川崎市麻生区エリアと離れてしまっている。元々つながっていなかったのだから、切り離されたという表現は妥当ではない。なお、旧武蔵国都筑郡は、大半が横浜市に編入されているが、柿生村と岡上村エリアだけが川崎市に編入されている。柿生村は橘樹郡生田村と隣接しており、橘樹郡北部はほぼ川崎市に編入されている。一方、岡上村は南側が都筑郡奈良村→町村制施行時に合併で都筑郡田奈村と隣接しているが、橘樹郡の村とは隣接しておらず、奈良村以外の隣接している村は、すべて多摩郡であった。ただし、奈良村方面との間は峠越えとなる細い山道で結ばれているだけであった。一方、岡上村と柿生村エリアは、間の鶴川村を飛び越して古くから結びつきが強かったようである。明治期の町村制施行時には、岡上村は柿生村と合併こそしなかったものの、両村で町村組合を結成し、川崎市に編入されるまで続いていた。
 なお、三輪村は町村制施行時に鶴見川源流域の村と合併して鶴川村となっているが、岡上村は勿論、片平川流域の柿生村もこの範疇に入る。結局のところ、三輪村が都筑郡とならなかった理由は謎のままであるが、岡上村が多摩郡にならなかった(留まらなかった)理由と表裏一体であることは確かなようである。江戸期の多摩郡が神奈川県の管轄のままであれば、後に単なる地域区分になってしまった郡境が入り組んでいるだけの状態になったと思われるが、多摩地区を諸事情により明治後期に東京都へ移管したため、結果として行政区分=都県境が入り組んだ現在の状態になってしまった。
 以前の記事でも述べたように、旧多摩郡の南端はこれより東側でも分水嶺を無視して入り乱れた状態になっているため、律令制の時代において、すでに、何らかの政治的思惑が郡境決定に影響を及ぼした、と考えるのが妥当?かと思われるが、なにせ1500年近くも昔の話なので、真相を定かにするのは難しそうである。

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