境界を越えるバス/旧国境編8/南万騎が原駅付近 と 横浜隼人中学・高校付近
2022年11月/2023年2月現地調査実施
2022/02/21初版公開予定
この記事のデータ類は2023年2月現在のものです。
画像類は特記なき限り筆者自ら撮影・作画したものです。
旧国境は相変わらず江戸湾と相模湾の分水嶺をたどっているのですが、今回は、武蔵国側が横浜市旭区/相模国側は横浜市泉区・瀬谷区となるエリアです。ゴルフ場や公園となっている界隈では旧国境越え/旧国境沿いの道は少ないですが、住宅街として開発されたエリアでも、旧国境=現区境を越えるバス路線はさほど多くならないのが今回紹介するエリアになります。
現場の概要
「境界を越えるバス/武蔵相模国境編」では、旧国境をバス路線が越える/越えていた/越えそうである地点を、第1回の野島夕照橋界隈の横浜・横浜市境から始まって順に時計回りで紹介してきている。第4回で両側とも横浜市内となって以降は、旧国境をバス路線が越えている地点に固有の地名がない場合も多々あり、アルファベットの記号をAから順番につけて識別してきた。昭和後期に宅地開発されたエリアであるが故、開発に伴い地形が大規模に変わっていて、正確に旧国境の分水嶺を割り出すのに苦労したケースもあった。本記事でもここまでの例にならい、地点Q(南万騎が原駅付近)と地点R(隼人中学・高校付近)として横浜市旭区南西縁に存在する2地点を紹介する。この2地点を通る路線バスの系統は複雑に絡み合っていることもあり、2地点合わせて1本の記事にした。
地点Qで旧国境を越えるバスは、平日2往復/土曜1往復/休日運休であるため、現地をバスが通過する画像を撮影することは極めて困難である。あらかじめ御了承いただきたい。ただし、現場を見ればここが旧国境である分水嶺だと一目瞭然でわかる地点でもある。
一方、地点Rを通過するバスは、厳密な意味での国境超え路線になるかどうか微妙である。折り返し点である「隼人中学・高校」の停留所に至る道路が旧国境である分水嶺尾根上を通っているのである。この尾根には武蔵国側から進入し、横浜隼人中学・高校の正門付近の広場を利用した相模国側にある折り返し場にて方向転換する。ただし、横浜隼人中学・高校の校舎や校庭は完全に相模国側であり、ここに通う生徒を完全に武蔵国側にある鉄道駅から運んでいることを鑑みれば、十分に国境越え路線であると言えそうである。地点Qを通るバスとは対照的に、運転本数はそこそこあるため、撮影難易度は低い。
地点Q(南万騎が原駅付近)
場所の詳細
旧国境は、前回の地点P(横浜ゴルフ場下停留所付近)から暫く進むと、横浜カントリークラブ/戸塚カントリー倶楽部/万騎が原こども自然園の中もしくは境界を辿る。この区間には自動車が通り抜けできるような国境越えの道路は2本しか存在せず、バス路線の設定も無い。国境分水嶺に沿った道路は存在しない。
この区間を抜け、久しぶりに住宅街に入ったエリアに地点Qはある。武蔵国側は横浜市旭区柏町/相模国側は横浜市泉区緑園7丁目になるが、区界=旧国境であるにもかかわらず、住宅街は連続している。
現場は、並行する鉄道路線でいうと相模鉄道いずみ野線の南万騎が原駅と緑園都市駅の間だが、かなり南万騎が原駅の方に寄った場所になる。鉄道自体はやや長目のトンネルで通過している。国境越えの道路は、横浜市道中田さちが丘線という名前になってる。宅地開発に伴い地形はかなり改変されているが、それでも東京湾側と相模湾側の分水嶺であるためか、区界となる箇所はちょっとした峠っぽくなっており、遠目にもこの場所だと容易に判定できる。
現代では区界が不自然に何度も直角に折れている。武蔵国側の横浜市旭区は保土ヶ谷区から、相模国側の横浜市泉区は戸塚区から分区して成立した区である。旧国境はもともと保土ヶ谷区と戸塚区の境界であるため、今回の地点Q界隈は、分区に伴って区界を調整した区間には該当しない。ちなみに相模鉄道いずみ野線が開通したころの旧版地形図を見ると、たしかに区境は滑らかにつながっている。さらに調べてみると、なんと横浜市の公式サイト内の旭区のページにて、現場付近の区境を変更した旨の記述が見つかった。1979(昭和54)年6月26日付で「戸塚区岡津町と旭区柏町の境界を一部変更した」と記載されている。宅地開発の進展により、区境を道路上に移設し、1軒の家の敷地内を区境が横切らないよう配慮・調整した様子である。
この記録は、横浜市旭区の公式サイトにて、「区の紹介」→「旭区の歴史」→「町名の変遷」と辿るとみつかる。
通過するバス路線
前述したように、通過するバスの本数は平日で2往復/土曜が1往復であるが、2つの系統が関わり、若干ややこしいことになっている。
本記事にてでてくる路線は、相模鉄道の子会社である相鉄バスの路線がほとんどである。相鉄バスは首都圏の他のバス事業者とは異なり、系統番号記号の漢字の部分は担当営業所を示す。"旭"の場合、旭営業所が担当となる。
平日と土曜の朝に運行される1往復は、まず"旭87"系統希望ヶ丘駅発緑園都市駅行として運転される。この系統番号記号を与えられているのは、この片道1本だけである。希望ヶ丘駅を出発後、後述する地点R≒「隼人中学・高校」停留所に立ち寄った後、東海道新幹線の北側を並走。「桃源台」停留所を過ぎた辺りで右折して横浜市道中田さちが丘線に入り、東海道新幹線を越えてしばらく南下。ここまでは、希望ヶ丘駅~二俣川南口間を結ぶ主力系統の1つ”旭89"系統と同じルートである。この系統が左折して南万騎が原駅方面へ向かう交差点を直進。「柏保育園前」と「こども自然園入口」の間で旧国境を越えてさらに南へ進む。3つ先の停留所が終点の緑園都市駅である。
緑園都市駅で折り返した後は"旭19"系統となる。横浜市道中田さちが丘線を北上、「こども自然園」と「柏保育園前」間で国境を越え、その先で右折して"旭89"系統のルートへ合流、「南万騎が原駅」の停留所に至る。その次の「万騎が原第4」の停留所で"旭19"系統の主流となる万騎が原地区の循環系統とも合流して、終点の二俣川駅南口を目指す。
以上の2系統を合わせて1運行とみなすと、通常は”旭89"系統として運転される希望ヶ丘駅発隼人中学・高校/南万騎が原駅経由の二俣川駅南口行が、南万騎が原駅付近から分岐して緑園都市駅に立ち寄ってくる運行形態である、とみることができる。
平日のみ(土曜は運休)の夕刻に運行される1往復はもう少し単純で、二俣川駅南口と緑園都市駅の間を"旭19"系統として1往復するだけである。ただし、往路は「万騎が原第3」→「小学校前」→「万騎が原第5」→「南万騎が原駅」と停車するのに対し、復路は「南万騎が原駅」→「万騎が原第4」→「万騎が原第3」というルートをとる。
万騎が原地区のバス路線詳細
万騎が原地区にて行きと帰りでルートを変えるのは、緑園都市駅方面に行かずに二俣川駅と希望ヶ丘駅を結ぶ"旭89"系統や"旭99"系統でも同様である。このうち"旭99"系統は朝混雑時間帯の限定運行で、かつ、往路=希望ヶ丘駅方向にしか運転されない。"旭89"系統との違いは、後述するR地点方面である「隼人中学・高校」方面に立ち寄らないだけである。同時間帯の復路は全便"旭89"系統として運転されている。
ちなみにノーマルの"旭19"系統は、14時台~17時台に1時間間隔で運転されるだけで、他の時間帯には運転がない。二俣川駅南口から「万騎が原第3」にやってくると、「小学校前」→「万騎が原第5」→「万騎が原第4」→「万騎が原第3」と、緑園都市まで行く便の往路と復路を組み合わせたループを時計回りに走り、二俣川駅南口へと帰っていく。
この前の時間帯、朝混雑時が終わった9時台~13時台にのみ運転される"旭26"系統は、往路は”旭19"系統の循環ルートを1周した後、"旭89"系統往路のルートで南万騎が原駅方面に向かう。停車停留所の順序を書くと、二俣川駅南口から来たバスは、「万騎が原第3」→「小学校前」→「万騎が原第5」→「万騎が原第4」→「小学校前」→「万騎が原第5」→「南万騎が原駅」と停車し、希望ヶ丘駅へと向かう。
復路は希望ヶ丘駅方面から"旭89"の復路と同一ルートで万騎が原地区に入った後、"旭19"系統の循環ルートを時計回りに辿って二俣川駅方面へ行く。停車停留所の順序を書くと、希望ヶ丘駅から来たバスは、「南万騎が原駅」→「万騎が原第4」→「小学校前」→「万騎が原第5」→「万騎が原第4」→「万騎が原第3」と停車し、二俣川駅南口へ向かう。
往路・復路ともにこのように回り道をするため、"旭89"系統とは異なって「隼人中学・高校」へは立ち寄らない。朝混雑時間帯が終わっても14時まで"旭19"系統の循環線が運転されないのは、"旭26"系統が循環線の役割も果たしているからである。
行政区画の変遷
現横浜市旭区側は、江戸期には武蔵国都筑郡二俣川村であった。1989(明治22)年の町村制施行時に周辺の村と合併したが村名はそのまま残り、神奈川県都筑郡二俣川村となった。1939(昭和14)年4月に横浜市に編入され保土ヶ谷区の一部となる。1969(昭和44)年4月に分区により横浜市旭区の一部となり現代に至る。
現横浜市泉区側は、江戸期には相模国鎌倉郡岡津村であった。明治中期の町村制施行時に周辺の村と合併して神奈川県鎌倉郡中川村の領域になる。二俣川村などと同じタイミングで横浜市に編入されるが、こちらは他の鎌倉郡の町村と同様、戸塚区の一部となる。1969年の瀬谷区分区の段階では変化は無かったが、先述したように1979(昭和54)年にこの当時の旭区柏町と戸塚区岡津町(→現代の泉区緑園)の間で境界の変更がなされている。1986(昭和61)年の分区で旧岡津村の領域は泉区の一部となり、現代にいたる。
地点R(隼人中学・高校付近)
現場付近の詳細
現場付近の道路のつながり方は、文章で説明するよりも図面を見てもらった方が早いので、まず図を掲載する。バス路線は東海道新幹線北側を並走する横浜市道から、新幹線線路との間に設けられた対面通行2車線のアプローチ路を経て、旧国境の分水嶺尾根上を行く別の市道へと入る。国境分水嶺尾を路線バスが辿るある程度の長さを持った区間を地点Rとした。ある。停留所の名前の元になった横浜隼人中学・高校の敷地は市道西側=旧相模国側にある。この区間のバス停で武蔵国側=横浜市旭区側にあるのは、「隼人中学・高校」停留所のポールのうち、折り返し場を使わない南行=湘南泉病院方面行のものだけである。
ちなみに、二俣川駅や希望ヶ丘駅からくるバス路線は、善部第2交差点(上の図だと、上の方で右方向にはみ出した先)と「隼人中学・高校」の折返場の間は、往路・復路ともに折り返し運転で2回通ることになるので、見かけ上の運転本数が2倍になる。
経由するバス路線
基本的に相模鉄道線二俣川駅南口と希望ヶ丘駅を結ぶ路線の大部分が立ち寄る。この路線のバリエーションは、
1.隼人中学・高校へ立ち寄るかどうか
2.さちが丘経由であるか南万騎が原駅経由であるか
3.南万騎が原駅経由の場合、万騎が原地区を循環するかどうか
の3点で区別できる。ちなみに、2でさちが丘経由であれば、全便が1で隼人中学・高校へ立ち寄る。また、先述したように3で万騎が原地区を循環する場合は、1で隼人中学・高校には立ち寄らない。2で南万騎が原駅を経由し、3で万騎が原地区を循環しない場合に限り、1で隼人中学・高校に立ち寄る系統と立ち寄らない系統の両方が存在し得る。
以上を鑑みて、地点Rを経て隼人中学・高校に立ち寄る系統をまとめると、次のようになる。朝の通学時間帯にのみ頻発運転される"旭80"系統希望ヶ丘駅~隼人中学・高校折り返し(この系統だけはさちが丘・南万騎が原駅・二俣川駅方面に行かない)、朝の通学時間帯が終了した後から運転される"旭88"系統希望ヶ丘駅~隼人中学・高校~さちが丘~二俣川駅南口、朝の通学時間帯と午後の15時以降に運転される"旭89"系統希望ヶ丘駅~隼人中学・高校~南万騎が原駅~二俣川駅南口がある。これに先述した平日と土曜に片道1本だけ運転される"旭87"系統希望ヶ丘駅→隼人中学・高校→緑園都市駅を加えると、隼人中学・高校の停留所に立ち寄る系統のすべてとなる。
時間帯別に地点R=「隼人中学・高校」停留所へやってくる便を、以下にまとめておく。
《朝混雑時》
"旭90" 希望ヶ丘駅~隼人中学・高校折り返し
"旭89" 希望ヶ丘駅→隼人中学・高校→南万騎が原駅→二俣川駅南口
※この時間帯は、二俣川駅方向の便のみの運転。
希望ヶ丘駅方向は、隼人中学・高校に立ち寄らない"旭99"にて運転。
《9時台~13時台》
"旭88" 希望ヶ丘駅~隼人中学・高校~さちが丘~二俣川駅南口
※本系統のこの時間帯は1時間に1本の運転。
隼人中学・高校に立ち寄らない”旭26"系統と交互に運転される。
《14時台以降》
"旭88" 希望ヶ丘駅~隼人中学・高校~さちが丘~二俣川駅南口
"旭89" 希望ヶ丘駅~隼人中学・高校~南万騎が原駅~二俣川駅南口
※両者合わせて毎時2~3本の運転。
ちなみに隼人中学・高校へ立ち寄らない系統には、地点Qの項などでも説明した9~14時の間にほぼ毎時1本運転される"旭26"系統希望ヶ丘駅~南万騎が原駅~万騎が原地区循環~二俣川駅南口と、朝混雑時に片方向のみ運転される"旭99"系統二俣川駅南口→南万騎が原駅→希望ヶ丘駅がある。この系統は万騎が原地区を循環しないが隼人中学・高校も経由しない。朝混雑時間帯以外は運転されない。逆方向は"旭89"系統=隼人中学・高校に立ち寄る南万騎が原駅経由の系統にて運転される。
ここまでは相鉄バス旭営業所が担当する路線について解説してきたが、実はこれらと全く関係のない路線が平日限定で2往復のみ、「隼人中学・高校」の停留所を経由し、地点Rを通過する。"戸16"系統戸塚駅東口〜湘南泉病院〜隼人中学・高校〜三ツ境駅(南口)で、朝に三ツ境駅行/夕刻に戸塚駅東口行が各々平日にのみ2本づつ運転される。担当は神奈川中央交通戸塚営業所である。
この路線の親系統は"戸17"系統戸塚駅東口~湘南泉病院~三ツ境駅(南口)で、毎時2〜3本の運転である。湘南泉病院へ立ち寄るが隼人中学・高校には来ず、神奈川県道401号瀬谷柏尾線に戻ってそちらを辿る。早朝と夜間は湘南泉病院へも乗り入れない"戸19"系統になる。
"戸16"系統が武蔵国に入るのは、地点R界隈の国境稜線上区間の南行と、この道と接続する、東海道新幹線の北側で立体交差する道路とのアプローチ区間周辺のみである。隼人中学・高校の折返し場は使わないため、先述したように戸塚駅東口行のポールだけが武蔵国側に存在する。この区間以外はすべて相模国内なので、相鉄バス担当路線のように相模国側にある学校と武蔵国の鉄道駅と結んでいるわけではないため、国境越え路線とは言い難い、かもしれない。
行政区画の変遷
現横浜市旭区側は、地点Qと同様、江戸期には武蔵国都筑郡二俣川村→1989(明治22)年の町村制施行時に周辺の村と合併して神奈川県都筑郡二俣川村→1939(昭和14)年4月に横浜市に編入され保土ヶ谷区の一部に→1969(昭和44)年4月に分区により横浜市旭区の一部となり現代に至る。
現横浜市瀬谷区側は、江戸期には相模国鎌倉郡阿久和村であった。明治中期の町村制施行時に周辺の村と合併して神奈川県鎌倉郡中川村の領域となったのは地点Qと同じである。二俣川村などと同じタイミングで横浜市に編入されるが、こちらは他の鎌倉郡の町村と同様、戸塚区の一部となっている。分区により瀬谷区となったのは1969(昭和44)年で、泉区よりも早く、旭区の成立と同時期である。
おまけ:ねこ塚
横浜隼人中学・高校から東側=旭区の内側方向に十分弱歩いたところに、「ねこ塚」がある。現地の案内板によると、その昔、巡礼の旅をしていた老婆がこの地で疲労のため動けなくなり、亡くなってしまった。彼女と同行していた猫さんは、老婆を憐れんでその場所を動かず鳴き続けていたが、やがて動かなくなってしまった。これを憐れんだ地元の人たちが、老婆と猫さんを丁重に祀る塚を作った、という口伝があるとのこと。にゃむあみだぶつ…
現地調査中、地点Qから地点Rに向かっているときに、「史跡ねこ塚」とだけかかれた道標を発見、これに導かれて現地にたどり着き、案内板で由来を知った。正直、案内板を読んでいた時に、涙が止まらなくなってしまったのは、ここまで読んでくださった皆様だけの秘密、である。にゃん。