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境界を越えるバス/旧国境編10/横浜市瀬谷区卸本町付近

2023年5月現地調査実施
2023/06/07初版公開
この記事のデータ類は2023年5月末時点のものです。
画像・図面は特記なき限り筆者自ら作図・撮影したものです。

今回紹介する場所は、武蔵と相模の国境が、東京と神奈川の都県境に合流する前の最終地点になります。バスが通る道は、現代では国道指定を外されていますが、元々は国道16号線の旧道で「八王子街道」の愛称を持つ区間です。ただし、江戸時代からの街道が通っていたルートではなく、昭和前期~中期にかけて自動車交通の利便を図って開削された道になります。バスは平日が1時間に2本/土休日は1時間に1本と、そこそこの本数が通っていきます。

現場付近の武相国境と区界

横浜市内の武相国境と今回の現場付近の関係図。ベースの白地図は freemap.jp より。
本シリーズの「旧国境編その1」は、図の右下、旧国境が海につながってる付近になります。

 今回紹介する地点までは両側とも横浜市内となるため、前回までの例に従って地点Tと名付けておく。これで、横浜市内を横切る旧国境を路線バスが越える地点は、(微妙なものも含めて)合計20箇所となる。今回の地点は付近に「横浜総合卸センター」という物流拠点があり、この開設にあたって「卸本町」という地名もつけられているので、本稿ではこちらを地点名の識別に用いる。この地点では、バスが通る道路は旧国境を横切る形となるため、前回記事の野境道路とは異なり、旧国境は一瞬で越える。ちなみに、トップ画像はバス道路が旧国境を越える地点を、相模国側で道路の北側から眺めた風景である。旧国境の尾根稜線が良くわかる。

バス道路の旧国境交差地点。交差点にて旧国境が横断しています。
右手が前回記事の野境道方面。左手が都県境との合流地点方面です。
こちらは、武蔵国側で道路北側から先程の交差点を眺めた図。
現代では都県境どころか市境にもなっていないので、舗装の継目はありません。
国境の路地の北側方向を覗いてみました。
高低差があることから、尾根を掘り割ってることが解ります。
道路南側の国境尾根。
後述するように、この先は米国海軍旧上瀬谷通信施設の管理エリアに入ります。

 ただし、地図を見るとわかるように、この付近では横浜市瀬谷区卸本町が、同じく横浜市旭区上川井町側に出っ張った形になっている。この理由の詳細は後述するが、横浜総合卸センターが開設された際に、その領域に卸本町を新設し、区界を変更したためである。もちろん武相国境は変更前の区界と同一であり、現代において瀬谷区が出っ張っている部分をショートカットして真っ直ぐ結んでいる。

現場付近のバス路線と現区界・旧国境。
ベースの白地図は freemap.jp より。

 バスが通る道路は、現代では横浜市道となっているが、元々は国道16号線(の前身)として開通した道路である。昭和前期以前は、現代の町田街道が横浜方面と八王子方面を結ぶメインルートであった。第二次世界大戦中頃から、この地点を含む後に国道16号線となるルートがバイパス的な位置づけで整備された。1968(昭和43)年に東名高速道路の東京―厚木インターチェンジ間が開通、これに伴い横浜インターチェンジ(当時)が開設され、ここに接続する国道16号線の保土ヶ谷バイパス・大和バイパスが開通した。保土ヶ谷バイパスは自動車専用道であったが、横浜インターチェンジを含む大和バイパスの区間には歩道も併設されていたため、後に旧道の側は国道指定を外されて現在に至る。

国境越えのバス路線

 この道路を通るバス路線は至ってシンプルである。相鉄本線鶴ヶ峰駅と小田急江ノ島線鶴間駅東口を結ぶ”間01”系統が殆どである。日中の運転本数は、平日が毎時2本/土休日は毎時1本となる。担当は、神奈川中央交通の大和営業所と中山営業所である。系統番号記号の"間"の漢字は、鶴間駅に由来する。
 この系統は、元々は横浜駅西口と鶴間駅東口を結ぶ”横04”系統として運転されていた。横浜駅側での並行路線への振替・統合が進んだ結果、2019年1月のダイヤ改訂で横浜駅まで行く便は平日早朝に1往復のみとなり、残りの便は鶴ヶ峰駅までの”間01”系統に振り替えられて現在に至る。

旧国境に差し掛かる"間01"系統鶴ヶ峰駅行。
平日日中は毎時2本/土休日日中は毎時1本の運転です。
国境尾根の切通を行く"間01"系統鶴ヶ峰駅行。
旧国境の交差点に差し掛かる"間01"系統鶴間駅東口行。
国境尾根の切通を抜けた"間01"系統鶴間駅東口行。

 現在では横浜駅東口―若葉台中央間を結ぶ”5”系統が、2008年に横浜市交通局から神奈川中央交通に移管される以前には、この系統の支線として上川井インターチェンジ近傍の亀甲山より分岐して卸センターまで乗り入れる便が存在した時期がある。

行政区分の来歴

 武蔵国側は、江戸期には都筑郡上川井村であった。1989(明治22)年の町村制施行により、周辺の6つの村と合併して、神奈川県都筑都岡村大字上川井となる。1939(昭和14)年に横浜市へ編入、横浜市保土ヶ谷区上川井町となる。1969(昭和44)年に分区により所属区が旭区に変更され、現在に至る。
 相模国側は、鎌倉郡瀬谷村であった。1989(明治22)年の町村制施行時に周辺の村を合併したが、村名は瀬谷村のままである。1939(昭和14)年に横浜市へ編入、横浜市戸塚区瀬谷町となる。この後、1969(昭和44)年に分区により所属区が瀬谷区となっている。
 1980(昭和55)年、横浜総合卸センターの開設に伴い、瀬谷区の中の町名として卸本町が新設される。この時に、瀬谷区瀬谷町の他、周辺の旭区上川井町や緑区長津田町の一部が卸本町に編入されている。これに伴って区界も変更され、現在のように瀬谷区が旭区側に張り出した形となった。緑区側へは張り出しが少ないためあまり目立っていないが、北東端の横浜町田インターチェンジに近い側が該当する、と考えられる。

現場付近の武相国境

 卸本町の南側、前記事の野境道路に至るまでの旧国境は、米国海軍の上瀬谷通信施設管理エリアの中を突っ切っていた。米国海軍管理エリアとはいえ、通信施設の中枢部分以外は立ち入り制限がなされておらず、農耕地や野球場としての利用は認められていた。このため、ほぼ旧国境沿いに歩道が存在していた。
 上瀬谷通信施設は、2015年に管理エリアの土地も含めて日本へ返還されたた。開発計画がいくつかたてられたが、2023年現在、具体的に動き出したものは、まだ存在しないようである。
 一方、卸本町北側の旧国境は、川井浄水場付近にて古くからの水路「横浜水道みち」と交差した後、横浜市旭区・緑区・瀬谷区の三区境を経て、現都県境と合流する。合流とはいうものの、都県境がV字型に食い込んでいる頂点に旧国境がつながっている、という形になる。この地点までの距離はおよそ800mであるが、この界隈でバス路線が都県境を越えている地点と密接に絡んでいるため、今後投稿を予定している都県境編にて、この地点界隈の詳細を解説する予定である。

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