複眼持たぬ生き物のための複眼

(本文では"視点"という言葉を使用する。本文に於ける”視点”という言葉の定義は『ある物理的/思考的な立ち位置からの考え方』の総称であり、物理的な視覚を直接指す意味ではないことを前もって定義しておく)

ある事象に対し、複数の視点を想定し、なるべく私情を排して平等に把握しようと試みるとき、人間はひとまずフリーズしてしまうらしい、ということに気づいた。複数の視点はどこかで拮抗する。より多くの視点を尊重しようとすればするほど、ダブルバインド、トリプルバインド、もしくはそれ以上のバインドがかかって、フリーズしてしまうのである。

そのため、次には「より自分の気分が良くなる」ほうの視点を選択することになる。

「自分の気分が良くなる」という言い方には、若干誤解が生じやすいかもしれない。ここでの意味は、より利己的、自己中心的な利益を確保できる視点を選択するという意味ではなく、「納得できる/受け入れやすい/そうしたい」といった意味であり、自分には不利な状況となることが想定されるとしても、より自己犠牲的、より利他的、集団利益的な視点を選ぶ場合もあるし、また、より自罰的な視点、より他者から反感を買いそうな視点などを敢えて選ぶ場合すらあるだろう。

物理的には、人間は1度に1つの視点しか持ち得ない。それゆえ、思考で複数の視点をシミュレートしても、最終的にはある1つの視点を選ぶことになり、その判断は"自分"という一個人の意思に依るものとなる(誰か、もしくは集団に特定の視点を選ぶように強制されている状況だとしても、その強制に従うかどうかは、本質的には一個人の意思だ)。

この"視点"の問題を考えるとき、人間と対比になる生物として、真社会性の昆虫がいる。真社会性の昆虫は、各個体が各個体の利益ではなく、同種の昆虫の集団にとって最も利益になるであろう行動、すなわち特定の1つの"視点"を、プログラミングでもされているかのように的確に選択する。これは、人間が1つの像を結ぶ一対の眼を備えていることに対し、真社会性の昆虫が複眼を持っていることと関連してはいないだろうか。

もしかすると、複眼を持つ生物は、物理的に1度にその目の数だけの視点を持ち得るため、同じ目を持つ生物同士で最も利益になるであろう行動を、確実に起こっているはずの拮抗すら乗り越えて、とてつもない精度で選択することができているのかもしれない。人間にはなかなか想像がつかない次元だが、視点のみならず、1度にその複眼と同じ数だけの個数の"思考"をしている可能性もある。

この30年間で、人間は映像メディアとインターネット通信及びそれを媒介するインターフェイスのタッグによる、取得/発信情報量の爆発的加速化と増加によって、複数の視点をシミュレートすることがより簡単にできるようになった。しかし、情報が複眼的になっても、その情報の統合は結局「1個人による1つの視点の選択」というところに帰結する。

人間にとって、生身で取得する情報と遜色ないほどリアルタイム化し、リッチになっていく情報は、"擬似複眼"といえるだろう。擬似複眼から提供された情報の内容をなるべく尊重すれば尊重しようとするほど、バインドがかかりフリーズを起こす。前述の通り"物理的には、人間は1度に1つの視点しか持ち得ない"ため、脳もその形式でしか対応できない - 少なくともいまのところは。

ともあれ現在、人間は擬似複眼に対応しきれていない状態だ。
今後は、テクノロジーにバックアップされた超人(トランスヒューマン)となって、擬似複眼の複眼的思考に対応していくことで、真社会性の生物群へと変貌するのだろうか。それとも、1つの視点しか持ち得ない生身の人間であることそのものを、人間である証明だとして尊重していくのか。

生身の人間である私は、今日もひとまずフリーズし、一対の目をしばし瞑る。

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