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自己解放とは、素のままありのまま、好きなものを好きと素直に言えること



この半年間を振り返り眺めると

ふりかえれば、この半年間でとても大きく心持ちが変わりました。半年前にはとてもできないと思っていたことも、今はもう葛藤や違和感を感じることなく自然なふるまいとして、やっていくことができている。

1ヶ月くらい前に、こんな文章を書いた。

ずっと「どんなことを、どんなふうに、やるべきなのか」「どんな見せ方をすればいいのか」と、そればかりだった。いうなれば、「どうカッコつけるか」ということに、いっしょうけんめい邁進していたように思う。

てきとーに、力を抜いて、やっていけばいいじゃん。
それでいいのよ。それがいちばんよ。うんうん。

(略)

だからこそ、ありのまま、ありのまま。
ありのままを放流していきまくる。
そんな行動・行為を、これからは重ねていきたい。

2023/08/10 noteより

私の自己解放は、これに尽きる。

私にとっての自己解放

①好きなものを好きと言えること

好きなものを素直に出していくこと。
引け目を感じずに素のままの言葉で語っていくこと。

占星術は自己理解やさまざまなことに活用できるすばらしく有用なツールだと思って日々の暮らしに取り入れているし、波動とか周波数とかバイブスとかそういうものって本当にあるよなぁとつくづく感じているし、気とかエネルギーワークとか量子力学とかもファンタジーや空想科学にとどまらない実用的なものだと思っているし、代替医療やホリスティックな考え方は現代医学ではまかないきれない部分をサポートするものとしてとても大切な存在だと思っているし、寺社仏閣には本当に神様と呼べるような大いなる存在がおわしまし見守ってくれているなあって感じる。そして私は、この宇宙全体を構成しているひとつの存在として、エネルギーを循環させていくことを果たしていきたいなって思っている。

……というような、心の中で思っている紛れもない本音を、今まで表に出していくことができないでいた。引かれることを恐れていた。理性的な判断ができないヤバイ思考の持ち主だって思われるのが嫌だった

今はもう、なんともない。だって、私は「そうだ」って思うのだもの。そのことにどうして引け目を感じないといけない? 結果、理解されなくても、距離をとられてもかまわない。それ以上に、もしかして興味を持ってくれるかもしれない人との出会いがうれしいし、私はこういう私ですって旗を立てていることで、同じ世界観を持った人とより確実につながりあえる。それはものすごぉく素敵なことじゃあないか。

同時に、このことを殊更強く「なんでわかってくれないの!!」「わかってほしい!!」って、理解や同意を強要するような気持ちもなくなった。一度「たとえ全人類から否定されようとも私はこれを良いものだと言い続ける」みたいなあまりにも悲壮感あふれる思考に振り切れたときもあったんだけど(笑)今は「わかってもらえたらうれしいなあ」「わかってくれる人もいるよね」と、ふわっとした気持ちで在ることができるようになった。

なぜだろう。うーん。目に見えないエネルギーのサポートを受けたからとしか思えないな。こういうのって、頭で無理くり納得させていくものではないから。レイキ、フラワーエッセンス、ソマティック・エナジェティクス、コズミック・コンステレーション、アルーンetc、今年触れてきたさまざまなものたちの力を借りて、ゆっくりゆっくり魂や深層心理が癒され、浄化され、ねじ曲がっていたものが解きほぐされ、いわゆる『自己受容』的なものが進んだことで、外に承認を求めなくなった感じはあるのかもしれない。

いいねを求めないことで、心穏やかにいられる。発信や作品、それを形にすることそのもの・その過程が自分にとってのよろこびで、それが出来上がって世に放り投げた時点で、それ以上何も欲しないほどに100%心が満たされている。この感覚がいちばんのニュートラルだと思う。見ようが、見られまいが、反応があろうが、なかろうが、何も変わらない。見られるために、称賛されるためにやってるんじゃないから。

作り上げた時点で100%のよろこびが既にあって、たまたまそれがたくさんの人の目に触れて、コメントももらえたりしちゃったら、嬉しい気持ちが200%・1000%と倍増していく。でもそれはあくまでもエクストラ(おまけ・ごほうび)のようなもの。もらえたら格別なうれしさがあるけど、ないからと言って不満が生まれることもない。100%以上もらえた際には、そのあふれかえったよろこびを原動力に、もっとおおきな創造に打ち込んでいける。そんなかんじ。

②飾り立てない、仕掛けない

ふたつめの自己解放は、「飾り立てなくていい」「仕掛けなくていい」ということです。

過去にセールスコピーライティングを学んでいたことがあります。VTuberとして配信活動をしながら投げ銭を頂くという人気商売的なことをやっていたことがあります。人の心を動かして購買欲求をかきたてるメカニズムや言葉の扱いについて、最低限の知識は持っているんじゃないかと思います。

逆に、どんなものだと興味を持たれづらく行動に至らないのか、ということについてもなんとなく想像がつきます。そして、私がこれからたくさんの人に知ってもらいたいと思っている「ナラティヴ・アプローチ」は、その理屈でいくと、絶対に興味を持ってもらえないだろう、ましてわざわざお金を出してまでサービスを受けようとは誰も思わないだろう(少なくとも私が提供者である限りは)、と感じていました。

だから、ずっと踏み出せないでいました。やるなら、なにかとても興味をそそられるようなキャッチコピーとベネフィットを提示して、美しくてわかりやすいサービスに仕立て上げないことには、だれも見向きはしないだろうと決めつけていました。だって現に、私の友人・知人まわりにお試しをお願いしたときに、反応イマイチだったもん。

そんななかで出会った、由佐美加子さんのメンタルモデルの考え方。

“何かがない”っていう(内面の)世界から、外側の世界を作り出しているんだという事実を、とても面白いなと思っていて。“ない”って思っているからこそ、“ない”ことが嫌だから、なんとか避けようとするんだよね。やってることは。“何かがない”と思っている信念が本当に痛いから、“ない”っていう体験をしないように何かをやって、そして結局“ない”っていう現実が起こるっていう(笑)

この超シンプルなからくりが、実はすごくシステマティックにどんな人の中にも固有なものがあって。その中に人間が完全にはまっていって、人間は現実を変えられないっていう現象が起こっているっていう仕組みが見えたときに……

『#ホニャララLIVE 149 【ザ・メンタルモデル】 #由佐美加子 (21:34~)』より

ああ、まさに今語ったような信念を私は、固く固く自分の心の奥底で持ち続けていて。だから当然の帰結として、その通りことが現実に起こってしまっている。ここを乗り越えないことには、ずっと同じパターンにはまり続けて、いつまでたっても望む未来に辿り着けないぞ。これは、メンタルモデルをやるしかない。いざ、個人セッションを申し込みだ。

そうして、また解放が進みました。おっしゃるとおりでございますわ~と平伏するしかないツッコミ&ご指摘をガツーンと入れてもらって、そこから時間の経過とともにゆっくりと咀嚼しながら……気が付くと「まずはやってみないことには始まらないじゃん」「こんな素敵なものにみんなが興味持たないはずがないじゃん」と、ふわっとした心持ちになれるようになった。

いずれはサービスにピッタリな名前をつけたり、素敵なデザインのLPページのようなものも作っていくかもしれないけど、今この段階においては、まずはもうありのまま、私の素のことばで、ナラティヴを語っていけばいい。それで興味を持ってくれる人がいるかもしれないし、誰にも興味をもってもらえなかったら、そのときにまた色々考えればいい。自信のなさや恐怖心から自分を飾り立てるのはやめて、ただやってみよう。まずはそれからだ。

③整えすぎない言葉で

あと、「言葉や発信をあえて整えないでいよう」っていう気持ちも生まれた。世の中には「見てもらうため」の色々なノウハウにあふれている。そしていまやそのノウハウに基づいたアウトプットばかりが世をのさばっている。無駄と判断されたものが、秒単位・1文字単位で削ぎ落とされ続けている。わるいことではない。それは創意工夫の賜物であり、見る人への思いやりでもあるかもしれない。けれど私は、それって人がもつ知性をあまりにも信頼してないことのあらわれじゃないかと感じるときがあるし、世の中がそんなものばかりで占められてしまったら、人はどんどん「考える」回路を退化させていってしまうのではないかと、恐ろしくなってしまう。

だから私自身は、「よくわからない」とか「読みにくい」ままのアウトプットをどんどん世に放り投げていきたいと思っている。それでも読んでくれる人は読んでくれるのだし。読んでくれない人とは、波長が合わないってことだ。よくわからないなら、よくわからないよって声をかけてもらいたい。そこから対話を始めたい。ちょっと傲慢で高慢な考えかもしれない。でも怠慢なつもりはなくて、私はそういう「整える以前のことば」「まとまらない考え」を共有していく時間をこそ大切にしたいから。綺麗に整っていないものはよくない・未熟だというような考えとは、距離を置いたところに立っていたいから。

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