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曾祖父は三男だったのですが、兄(長男)が戸主である除籍謄本が取れました。この方は嘉永6年(1853年)生まれでした。(黒船来航の年です) そこには高祖父(曾祖父の父)の名前もあり、明治10年に隠居した事などが書かれていましたが高祖父は今から206年前の文化13年(1816年)に生まれたようです。(ちなみに井伊直弼が生まれたのが文化12年です) 高祖父の名前の横に亡 祖父 善四郎 長男とありますが戸主から見て祖父と言う書き方なので高祖父の父の事です。その高祖父の父(五世の祖
「アルバムから抜かれたんか、この写真ずっと前から私の引き出しに入ってて・・・」と、母が今朝一枚の写真を私に差し出した。 「うわぁぁぁ古い車、こんな写真初めて見たわ」という私に、 「あれ、前に見せんかった?」と母はとぼけた事を言った。 この写真は祖父とその子供で(父の腹違いの兄弟)、1923年(大正12年)に撮られたものだった。それにしても凄い車だなぁ、一回乗ってみたいと眺めていたら、あれ、もしかしてこの建物、郵便局かも?と何かが湧いてきた。 先日シャイアンのDirecto
私は、絵葉書の裏がどうしても気になり、台紙と張り付けられた絵葉書の間にある少しの隙間から覗きこんでみました。すると数枚の絵葉書に文章らしき物が見えました。 そのうちの一枚を剥がしてみようという事でやってみましたが、糊付けされている葉書を無傷で剥がすのは難しく痛めてしまいましたが、大体は読むことができました。 今年パスポートを見つけた際、一緒にあった書類から、曾祖父が亡くなった事で祖父がいったん帰国したと知ったわけですが、偶然にもちょうどその時の絵葉書で、その事にまた驚きま
とても古い黒い生地の表紙の上には「Post Cards」と書かれています。 これは絵葉書ホルダーと呼べばいいのでしょうか?中には沢山の絵葉書があります。折角、絵葉書を差し入れるスリットがあるのに、それを無視して貼り付けてあります。裏に何か書いていないか見たいので、出来れば貼り付けないで欲しかったなぁ。 何枚かのハガキの横には、曾祖父か祖父のどちらかが書いた白い文字がありました。 羅府市ト パサデナ市乃 中間二アル有名なコロラド橋 私にも絵葉書を集める癖があります。やは
祖父の弟が新聞記者だったと、母は祖母から聞いていましたが、顔を知らなかったので写真があったにもかかわらず私達は全く気付いていませんでした。しかし、最近になってふと一枚の写真が気になり、そっと剥がしてみたところ裏に文字が書かれていました。 大正十二年三月二十七日撮影 於桑港日米新聞社内 「えっ!サンフランシスコの日米新聞社?!」 驚きました。まず、サンフランシスコに居たことも、日米新聞社というきちんとした会社の名前にも(笑) 早速、この前お世話になったサイト、邦字新聞・デジタ
曾祖母の夫(曾祖父)が出稼ぎに出た1904年時点では、二人の息子は5歳と2歳。夫の留守中、家を守るのも大変だったと想像しますし長い間とても寂しかったと思います。 さて、異国の地アメリカで、曾祖父、曾祖母、祖父、祖父の弟と4人で幸せに暮らせた時期が本当にあったのか疑問でした。 曾祖母の渡米記録は、一つだけ見つかりました。1922年(大正11年)の9月22日横浜出発、10月8日サンフランシスコ着の大洋丸の乗船者名簿に名前がありました。ただシャイアンの1920年のDirecto
曾祖父と祖父 1914年(大正3年)頃。42歳と15歳位と思われる。 今の時代って凄いわ~。白黒写真も簡単にアプリで色が付けられるのね。 知らなかった私が遅れているの? さて、手紙の内容とは少し違っていましたが、曾祖父はハワイに渡った1年後に、アメリカ本土に渡ったもようです。 1905年(明治38年)~1926年(大正15年)頃まで米本土で暮らし、たまに日本に帰国していた事がわかりました。 また、ユニオン・パシフィック鉄道で働き、ワイオミング州シャイアン市で長く暮らしてい
Googleで調べていると、様々な情報の中で目に留まるものが出てきました。 以下のサイトで検索をかけてみると、曾祖父、曾祖母、祖父、祖父の妻(先妻)、祖父の弟の名前が全部出てきました!!あった!!!嘘でしょう?? 100年以上も前の入国記録やら、国勢調査やら、名簿やら・・・・をざっと見ていると、住所や職業、体の傷などが明記されているものもあり、もう完全に導かれているとしか言いようのない不思議な感覚になりました。 全て、偶然じゃなく必然。私はご先祖様の歴史を知らなきゃいけない
祖父の事が少しだけわかり何かと興味が湧いてきました。PCで古い移民の歴史を調べているうちに、まるで何かに導かれる様にたどりついたのが、とても古い新聞でした。 邦字新聞デジタルコレクション。(画像はそこからお借りしました) https://hojishinbun.hoover.org/?l=ja もう、物凄くびっくり。 曾祖父の名前がそこに出ていました。 曾祖父は1904年にドーリック号に乗船しホノルルに渡った様です。 父の遺品の中にあった祖父の従兄弟からの手紙に
祖父の子の戸籍コピーや赤ちゃんの時の写真、絵葉書などが出てきたので、さらにわかったことがありました。 祖父は1919年(大正8年)に20歳で結婚し1921年に第一子が生まれています。 (写真は、前回載せた祖父の後ろに隠れていた男の子の9ヶか月時です) 生家前となっていますので、この頃住んでいたのはロスアンゼルスではなくてワイオミング州のシャイアン市?? 「それ一体どこ」とおもわず、独りで叫んでいました。 アメリカのオフィシャルトラべルサイトGo USA.jp では、西部開
祖父は、Los Angelesでテーラーをしていたそうです。 左側に黒いミシンが見えます。 前方の洋服棚に貼られている紙には、 ”We are not responsible for work left over 30 days.”と書かれてます。 洋服は30日以内に引き取らなきゃいけなかったんですね。 棚の上中央のポスターみたいなのには”PALM BEACH SUITS”の文字が。 今でもパームビーチスーツありますねぇ。 パームビーチとはアメリカのサンフォード社の商標名
祖父は子供の頃に海を渡ったようです。 写真に3と見れるので3年生かなと思います。 どうみてもアジア人は一人ですね。 言葉の壁や差別はなかったのでしょうか? 勇気ある~と思いました。 何年かの記載がないので推定ですが、1907年(明治40年)頃の様です。
黒画用紙で作られた様なアルバム。 その中にある写真には、白いペンで高松宮殿下歓迎記念日 ロサンゼルス市日本人街と記載されていた。 祖父はモーニングに、シルクハットのいでたちですが・・・ 理由はわかりません(笑) 今も昔も、皆沿路で宮様をお出迎えする様子は同じですね。 高松宮様に関してはウィキペディアでお勉強
昭和52年に祖父の従兄弟が父に宛た古い手紙が出てきた。初めて見る手紙には、手書きの家計図あり驚きの内容もありだった。 私の母に、祖母から聞いた話を思い出してもらいながら沢山二人で話をした。それから私も色々調べながら、少しずつだがご先祖様の歴史が分かってきたが、結局全てが解明出来た訳ではなかった。 私がこの手紙の存在をもっと以前に知っていたら、まだ、何かしら知ってる親戚などが生きてる内に、聞きたかった事が沢山あるけれど、今となっては全てが遅すぎた。 それより父は、先祖以外の事