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*禅語を味わう...027:山花開いて錦に似たり...

山花開似錦さんかひらいてにしきににたり


桜の季節が過ぎると、季節は春から初夏に向けて大きく動き始めます。
山梨では、桜と並んで、桃の花も、春を彩る主人公のひとつです。
春の一日、少し高いところから甲府盆地を見下ろす時、人里が一面の桃色に染まる様子は「桃源郷とうげんきょう」の名にふさわしく、とても美しいものです。
今回は、その「桃の花」にちなんだ禅語を味わうこととします。

山花開いて錦に似たり

この語の出典は、禅の語録『碧巌録へきがんろく』の第八十二則です。

す、僧、大龍だいりょうに問う、色身しきしん敗壊はいえす、如何いかなるか是れ堅固法身けんごほっしん
龍云りょういわく、山花開さんかひらいて錦に似たり、
澗水かんすいたたえてあいの如し...

『碧巌録』八二「大龍堅固法身」

ある修行僧が大龍禅師に問いかけます。
「形あるもの」は、いつかは亡びてしまいます。
永遠に亡びることのない、悟りの世界の姿である「法身」とは、一体どのようなものでしょうか?
大龍禅師は答えます、山には花が錦の如く咲き誇り、渓川たにがわの水は澄み切って藍のように青い・・・

大龍禅師とは、宋の時代に湖南省常徳府こなんしょうじょうとくふの大龍山に住した大龍智洪だいりょうちこう禅師です。
そして、修行僧の問いかけにある「色身」とは、この世界にある「形あるもの」のことです。
仏教は、この世界の「形あるもの」はすべて、「地・水・火・風・空」の五つの要素が、縁によって互いに結びつくことで、一時的にその姿をとるだけで、常住不変じょうじゅうふへんなものは何一つ存在せず、常に生成消滅を繰り返すのだと考えます。
しかしながら、その一方で、「悟りの世界」においては、何事によっても破壊されることのない、永遠不変の「法身」があると教えています。

修行僧が大龍禅師に問いかけたのは、「色身は敗壊する」...「形あるもの」はすべて滅び行く、ということでした。
「形あるもの」と言うとき、まず念頭に浮かぶのは、わたしたちのこのはかなもろい肉体です。
肉体をもつわたしたちの存在は、生まれ落ちた瞬間から、「死」に向かって歩み始めます。そして、この歩みは、一瞬たりとも休まることはありません。わたしたちにとっては「生きる」ということが、そのまま「死」に向っての歩みなのです。この歩みにはまた、「病」「老い」といったかげりがつきまとい続けてもいます。だから、わたしたちは「滅びないもの」に憧れ、「滅びない」存在になるために、様々な手段を講じます。「不老長寿」をもたらす「長命の秘薬」、「神仙の妙術」への激しい憧れは、人類の歴史に共通のもので、しばしばその憧れは洋の東西を問わず、狂気の影を宿します。
そして、仏教の修行者たちもまた、こうした憧れから無縁であることは難しい...

悟りを開き、この苦しみの世界のくびきである「六道輪廻ろくどうりんね」を逃れ出た者、解脱を得た者は、もはや苦の連鎖の中に生きることはなく、永遠の生命を得る...
こうした考え方は、『法華経』に説かれる「久遠実成くおんじつじょう」の釈迦如来という思想の中に現れています。すなわち、釈尊は、修行を重ねて三〇歳の時に悟りを開いたのではなく、遥か遠い過去(久遠)から悟っていたのだ、ただ、わたしたちに対して「輪廻転生りんねてんせい」を繰り返した後に、ついにブッダ(目覚めた者)としての姿を示したのだというのです。こうした考えが生まれてくる背景には、無慈悲な「時間」の威力、「無常」の苛烈さに曝されるなかで、わたしたちが抱く「永遠の生命」への憧れ、「時」の威力から解放されることへの強い願望が有ります。

この修行僧の問いかけの背後には、おそらくは、生々流転を繰り返す、肉体をもったわたしたちのこの存在は「仮の姿」であり、その真のあり方は、変わることのない不変の「法身」、いかなるものによっても破壊されることのない「堅固法身けんごほっしん」であるに違いない、それでは、その「法身」とはどのようなものなのか、そして、どうすればわたしたちはその「法身」に到達することができるのか、という痛切な思いがあったと考えられます。

このような問いかけに対しての、大龍禅師の答えが、先に見たとおり、

山花開いて錦に似たり
澗水湛えて藍の如し

でした。

さて、「色身」「法身」といった、現実離れした抽象的な概念を駆使しての問いかけは、自らの身体を通じての体験を重んじ、「実参実究じっさんじっきゅう」を旗頭はたがしらとする、禅の世界には合いません。地に足の着いていない、ただの理屈であれば、どのようなことを言うこともできますし、どのように受け止めることもできるのです。
「色身は敗壊する」と言いますが、わたしたちが、自分自身の身体で直に体験する「生老病死」の苦しみは、ただ「敗壊する」という一言で片付けられるようなことでしょうか? 
人生の喜び、悲しみ、夢や希望、不安や絶望、感謝、祈り...わたしたちは万感の思いを抱きながら人生を送っていきます。修行も同じです。
そうした一切を切り捨てて、「敗壊する」という一言で人生を決めつけてしまうことなど、できようはずもないのです。
この修行僧の問いかけは、おそらくは、生命の儚さに対する切実さに突き動かされ、正面から根本的な問題を問う、その真摯さは良いのですが、残念ながら、いまだ問いかけが自分自身の骨肉のものに成り切っておらず、上滑りをしています。

そのような修行僧の問いかけに対しての、大龍老師の答えは、ただ、眼の前の景色を歌う詠嘆えいたんを示しているだけで、一見、相手をはぐらかしているように見えるかもしれません。しかし、それは違います。
脚実地あしじっちを踏むことよりも、どうしても先走って頭で抽象的に考える方に走りがちな修行僧に対して、大龍禅師は、眼の前の世界をしっかりと見よ、その眼で見、その耳で聴き、全身全霊で、刻一刻と変わりゆくこの世界と、己自身を見つめよ、というのです。

おそらくは、折しも、大龍山には一面の花が咲き誇り、錦のような見事さであったはずです。そして、美を極めた錦のように咲き誇るこの花も、時の中で、瞬く間に散っていくのです。大龍禅師は、お前は、一刻一刻遷り変わりながら、一瞬の輝きを放ち、そして散っていくこの花たちの素晴らしさがわからぬか? というのです。
仏道というのは、「色身」「法身」といった無味乾燥な概念の世界を行くのではありません。美しく一瞬の輝きを放ち、そして潔く散っていく花と儚い生命に、自分の身体と心と、五感のすべてを総動員して、全身全霊で向き合っていく世界なのです。そして大龍禅師は、お前は、この見事に咲き誇る花々を観て、ここに何が足りないものが有ると言うのか? この花々のように輝き、そして散っていく姿以上に、どんな尊い「法身」が有るというのか? と厳しく問い返しているのです。

「山花開いて錦に似たり」という時、この「山花」とは何か? 
おそらくは、「桃の花」だと思われます。
「三月の桃花紅とうかくれないにして錦に似たり(三月桃花紅似錦)」(『禅林類聚ぜんりんるいじゅ』十九)、「桃花錦に似て柳はけむりの如し(桃花似錦柳如烟)」(同八)という言葉があるように、「錦」と呼ぶにふさわしい絢爛豪華な「山花」といえば、中国では「桃の花」なのでしょう。桃色の雲がたなびくような峡東の「桃源郷」を眺めるにつけ、そう思うのです。

さて、大龍禅師の答える下の句、

澗水湛かんすいたたえて藍の如し

「澗水」とは、渓川の水を指すといいます。大龍禅師が住しておられた大龍山を流れる渓川の水が水溜まりを作り、その清らかな潺が、青空を映してどこまでも清らかに、深く、藍色の水を湛えていたのでしょう。
サラサラと流れる渓川の水は、とどまることがありません。美しい藍色の水面も、実は刻々とうつり変わっていくものなのです。その中で、鈍色にびいろの空を映し、漆黒しっこくの夜の闇を映し、時にはそこに、夜空に輝く月を映すのです。

遷り行く山の姿、流れゆく渓川の水のように、何事にもこころを止めることなく、一瞬一瞬を生き切る...そこには「色身」、も「法身」もありません。
大龍和尚の指し示すような境涯に至ることは、容易ではありません。しかし、確かに、そこに道はある...
わたしたちも、眼で見、耳で聴く、全身全霊で感じる...脚実地を踏んで、自分の生きるその現場、わたしたちの経験の足元を、どこまでも大切に掘り下げていきたいものです。

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