純粋経験と思惟

西田幾多郎の『善の研究』における純粋経験のなかに「思惟」が含まれることに疑問の声が沢山あります。

「思惟」とは主体と対象の対立の上に成り立っている言語的知性であって、純粋経験はなんの反省も行われていない主客未分の状態であるから、そこに矛盾があり理論が破綻しているという理由である。

「思惟」が純粋経験に含まれていても矛盾ではないことを来週明らかにしたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?