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龍神考(22) ー采女と春日の龍女ー

春日信仰の原風景についての整理


 前回まで考察してきましたように、雷神武甕槌命の春日の御蓋山御降臨には地主神の雷神猿田彦神への従前の信仰があったと思います。

 この歴史を紐解く鍵は「春日=春の太陽」と「猿=申=雷」の理解にあり、そうすると春日大社の勅祭「春日祭」について次のことが見えてきます:
春分に地上に降臨される「天孫」=太陽神天照大御神の御孫、邇邇藝命(ににぎのみこと)=「春日」
「天孫」(=「春日」=稲魂)を空中でお迎えし、蛇行する雷光でもって降臨の道筋を案内された猿田彦神=「春雷」
勅祭「春日祭」の別名「申祭(さるまつり)」→「雷祭」
春分の日(春季皇霊祭)も入る旧暦2月(新暦2月下旬〜4月上旬)の申(雷)の日
春日祭(申祭)→天孫(稲魂)の御降臨に関係する祭典天孫降臨とは稲作開始前の土地を整える神助春日祭の直後(3月15日)に御田植神事

 しかし、「申祭」の「申=雷」には猿田彦神だけでなく、武甕槌命の意味も当然あります:
武甕槌命御蓋山御降臨→神護景雲二年(768)1月9日(新暦2月1日甲寅)=立春直前
御本社(大宮)に御遷座→同年11月9日(新暦12月22日己卯)=冬至
猿田彦=「春雷」の始まる立春の直前の雷神武甕槌命御蓋山御御臨→従前の信仰を継承する「承前の原則」
冬至の武甕槌命大宮御遷座→旧暦10月(新暦10月下旬〜12月上旬)の「神在月」の後の大国主命から天孫への国譲り(一陽来復)につなげた武甕槌命の役割の反映→大己貴命(大国主命の別名)他を祀る水谷神社が摂社であることの背景

 上記二つの日付の直後の申の日が満月かほぼ満月である点は、春日大社の古絵図「春日宮曼荼羅」に描かれる春日山から昇る満月にも意識されているようです。
 これは冬(冬至〜立春直後)の満月ですが、満月への意識は仲秋の名月=旧暦8月15日に行なわれる春日大社の境外末社、采女(うねめ)神社の采女祭にもあります。
*前回は采女祭の時期として9月下旬半ばまでとしましたが、10月にかかる場合もあること(例:2020年10月1日)に気づき、失礼しました。

 旧暦8月(新暦8月下旬〜10月上旬)には秋分の日(秋季皇霊祭)が入り、七十二候の秋分の初候は「雷乃収声(らいすなわちこえをおさむ)」で、雷が収まる時期
*前回はウィキペディア「七十二候」により「(かみなりすなわちこえをおさむ)」としましたが、同「秋分」の記事では「かみなり」が「らい」になっており、今回は「らい」にしました。

 ここで采女命と言霊が近い天宇受賣命(あめのうずめのみこと)がついて振り返りましょう:
天岩戸開きに貢献の天宇受賣命は天孫降臨も随行猿田彦神の名を明らかにし、後に猿田彦神の死後はその名を継いで猿女君(さるめのきみ)の祖となる。
・采女命の采女祭→猿田彦神(雷神)の声が収まる「雷乃収声」やその前後
「雷乃収声」→天宇受賣命により海に送られた猿田彦神(雷神)の溺死
天宇受賣命は猿田彦神の死後にその名を担う→猿田彦神の祭祀を担う→采女祭が「雷乃収声」の頃に行なわれる信仰思想のベース
・雷神猿田彦神の溺死→春に降臨の稲魂が秋に天に帰る時期=「雷乃収声」→雷神が雷の母体の雲を形成する水蒸気の源である海にお隠れになる

 以上、春日信仰の原風景について自分なりに振り返って来ましたが、歴史的には次のような流れになるでしょう。
①原初的な自然崇拝:
 采女神社の場所や猿沢池から御蓋山・春日山、春の日の出や朝陽と雷を遥拝

②自然崇拝の神話への反映:
 天宇受賣は岩戸開き(太陽出現)、天孫降臨随行(太陽祭祀)、猿田彦(雷神)の名の確認・溺死・祭祀に関係

③神話上の神号を採用した祭祀(古事記編纂712年、日本書紀編纂720年):
 采女神社の場所や猿沢池から拝む春雷を猿田彦神として春日の御蓋山に祀る

④雷神猿田彦神信仰の春日御蓋山に雷神武甕槌命の御降臨(768年)以降:
 武甕槌命を大宮第一殿に、猿田彦神を地主神とする春日大社の信仰の形成

⑤采女神社創建(平安時代):
 帝(51代平城天皇と仮定)の寵愛が一夜で薄れたことを嘆いた采女が猿沢池に入水
 猿沢池の西(雷神遥拝の地)に采女神社創建
 采女祭の時期=仲秋の名月=秋分初候「雷乃収声」や前後=雷神猿田彦の溺死と猿田彦を祀る采女入水の時期
*天照大御神の命で天宇受賣は猿田彦神を海に送り、猿田彦神の溺死後に猿女君(さるめのきみ)の祖となり、猿田彦神の祭祀を担う

 こうしてみると、采女は天宇受賣を祖とする猿女君の系譜につながる女性だったのでしょうか?
 その点はまだ不勉強ですが、神話や春日大社の御由緒などからこのような推論になった次第です。

采女命に象徴される春日の龍女

 猿沢池に入水した采女命について51代平城天皇は次の御製を詠まれました:
「猿沢の池もつらしな吾妹子が玉藻かづかば水も干なまし」

「水も干なまし」は「水も干上がってほしかった」という意味だと思いますが、これは秋分初候「雷乃収声」のしばらく後の秋分末候「水始涸(みずはじめてかる)」=「田畑の水を干し始める」に対応することが、采女祭が「雷乃収声」やその前後であることに気づけば見えてきます。
 そして改めて、雷神猿田彦神を祀る采女命は、「雷乃収声」=雷が収まる時期=稲魂が秋に天に戻り、それに応じて雷神猿田彦神も溺死した時期に、自らも猿沢池に入水した様子が窺えます。
 帝の采女への寵愛の薄れは、天孫にも喩えられる稲魂が秋に地上から天にお帰りになること(*秋分の日=秋季皇霊祭)と重ね合わせることもできるでしょう。
采女の猿沢池入水と采女祭→秋分初候「雷乃収声」
平城天皇御製「水も干なまし」→秋分末候「水始涸」

 帝の寵愛がすぐ衰えたとされることは、入水した采女個人に限ったものでなく、平城天皇御即位の翌大同二年(807)に采女貢進の制度が一時廃止されたこと、先代50代桓武天皇の平安京への遷都で皇居が遠くに移ったことが、春日の住民に対する「寵愛の衰え」と寂しく受け止められたことの暗示でもあるでしょう。
 入水した采女は、当時の春日の住民の謂わば象徴的存在となったと思われます:
・春日の采女(住民)への寵愛の薄れ
・采女貢進制度の一時廃止(平城天皇御即位翌年の807年)
・平安遷都による皇居の移転


 この采女や春日の住民の思いも、嘉祥三年(850)に勅祭「春日祭」=「申祭」が始まったことの要因の一つにあるのではないでしょうか?

 一般に采女は各地から採用され、猿沢池に入水した采女も安積山(今の福島県郡山市)出身とするものもあり、その名「春姫」は「春日」や「春雷」との強い関係性を暗示しますが、春日の地元出身の采女もいたはずでしょう。

 采女に採用されたかどうかは別として、春日の女性らが春日山からの春の日の出や朝陽と春雷を拝み祀っていた春日信仰の原風景が私には想像されます。
 つまり彼女たちは、太陽や雨をもたらす雲や雷を祀り、降雨を祈祷していた日本各地にいたはずの「日巫女」=龍女の春日版です。

 しかし稲が実り収穫の時期が近づくと、田畑の水を干す必要があり、「日巫女」の降雨祈祷は必要なくなります。

 そして平城天皇の御製も「吾妹子」を采女=「日巫女」とすると、「吾妹子」=采女=「日巫女」が入水し、降雨を祈る「日巫女」もいなくなったので、秋分末候の「水始涸」にしたがって、「水も干なまし(猿沢池だけでなく田畑の水も涸れて欲しい」、という含意もあると考えられます。
 このように、春日の采女には「日巫女」=龍女の面影が見て取れるのです。

 また采女と言霊の近い天宇受賣が、岩戸からの太陽神のお出ましに貢献し、太陽神の御孫の御降臨に随行し、さらに春雷=猿田彦神の名を明かしてその祭祀も担うようになったお姿も、「日巫女」=龍女を彷彿とさせます。

 以上から、能楽『春日龍神』で明恵(みょうえ)上人の天竺渡海中止宣言を聞いて猿沢池に姿を消した春日龍神は、春日の龍女=「日巫女」の象徴、神格化であり、神話では天宇受賣に通じる存在、国家制度においては采女を暗示する存在である点に気付かされます。

天宇受賣と豊玉毘賣

 天宇受賣は天孫降臨が無事済んだところで「猿田毘古神」(古事記の表記)を海に送り、猿田毘古神が溺死された後、様々な海の生き物を呼び集め、天孫への忠誠心を問われますが、海鼠だけ応答しなかったので、紐小刀(ひもがたな)で海鼠の口を裂いた、という神話が古事記にあります。

「猿田毘古神」が溺死された際に描写される海水の泡粒に、溺死者の口から出る空気による泡粒を類推し、春日の大宮、若宮の神々同様に、地主神で雷神の猿田彦神にも「口」が意識されていると前回は指摘しましたが、その名を継いだ猿女君の祖である天宇受賣が関係することにも「口」への意識が窺えます。

 他方、天宇受賣が海の様々な生き物を集めて天孫への協力を問われた点は、天孫の三男、山佐知毘古(やまさちびこ)が海で紛失した釣り針を探し、陸に帰る際に、海神=龍神の指示で様々な海の生き物が協力したことの伏線でもあるでしょう。

 山佐知毘古と結ばれた海神の娘である豊玉毘賣(とよたまびめ)はご出産のために渚に上陸、そこで本来のお姿である「八尋和邇(やひろわに)」になって御子を出産されたことが古事記に記されますが、日本書紀のこの部分は「龍」のお姿になったとあります。

 つまり古事記と日本書紀で記述を変えることで、「和邇」=「龍」だと示されていると受け止めることもできます。

 ここで和邇(和珥)氏という古代氏族があり、その和邇氏の中に春日氏がいたことが思い出されます。
 和邇氏を仮に「龍氏」と置き換えてみると、春日の地名を担う春日氏も「龍氏」の系譜となります。ここにも能楽『春日龍神』が生まれた背景が見えてきます。

采女装束と龍女

 こうして見てくると、天宇受賣や采女には龍女の面影が一層濃厚になって来ますが、それは采女装束にも認められます。

 ネット上には「采女装束」の記事に写真が載っていますが、特に目を引くのが、掛衣の青海波(せいがいは)の模様と絵衣の椿の花と雲の絵柄です。


 青海波はもちろん海を示しますが、そこから立ち昇る水蒸気が雲を形成します。
 この雲を呼び、風雨や雷をもたらすのが龍であり、龍女=「日巫女」の本来の「靈能力」であることは過去の「龍神考」で何度も繰り返して来ました。

 また青海波の波の一つひとつは扇の形をしており、采女祭の最後に花扇が猿沢池に沈められるのも、采女の入水を暗示するものでしょう。

 管見では神楽に登場する猿田彦神はしばしば扇を持っているようですが、ネットで改めて調べてみると、伊勢大神楽や伊勢国一の宮椿大神社(主祭神=猿田彦神)の扇の舞もやはり猿田彦神が主役です。
 椿大神社では3月に扇感謝祭及び古扇焚き上げ式という行事もあるようです。
 すると、猿沢池に沈めれらる花扇は采女だけでなく、春日の「日巫女」が祀っていた地主神猿田彦神も暗示しているのではないでしょうか?


 さらに龍女の一つの象徴である豊玉毘賣は、春日大社の北にある東大寺二月堂の「お水取り」の名称でよく知られる修二会(しゅにえ)では、御本尊の十一面観音にお供えする「御香水(おこうずい)」を送ってくださる若狭の遠敷(おにゅう)明神=若狭姫大神のことでもありますが、二月堂の御本尊には紙のツバキの造花もお供えされます。

 
 ツバキ=椿は「春日」の「春」に木偏を加えた字ですが、安積山出身説の采女の名「春姫」も、こうしてみると、一層意味深長に思われてきます。

 また「日巫女」の神格化と考えてきた天照大御神と同一視される春日大社大宮第四殿=比売神の御神木ヒメサザンカもツバキ科ツバキ属の植物です。
 さらに、春日大社の末社椿本神社の御祭神=角振神を、神鹿の角と仮定すると、それは龍の角でもあります。

 このようにツバキが龍神、特に女性性が強調される龍女の伝承において重視されていることは、遠敷明神の里の若狭の八百比丘尼(やおびくに)の伝承地にもツバキが目立つことにも窺えます。

 八百比丘尼の各地の伝承も大変興味深いですが、だいぶ長くなって来ましたので、今回は八百比丘尼伝承には龍神に関係する「龍宮」や「人魚の肉」、「椿」、「庚申待ち」などのキーワードが繰り返し登場し、それが示すように、龍神信仰と猿田彦=庚申信仰には密接な関係があり、その関係が春日信仰の原風景や春日大社の御由緒、猿沢池に入水した采女伝説、采女と言霊が近似する天宇受賣と猿田彦神の神話とも相通じる点を指摘するに留めておきます。

 東大寺修二会に話を戻すと、その期間中、東大寺や二月堂、修二会の関係者らの冥福を祈るための過去帳の読み上げが行なわれますが、その中に「青衣(しょうえ)の女人」がいます。


 詳細は東大寺のHPをご覧いただくとして、「青衣の女人」の「青衣」は青海波の衣を、修二会で名を呼び忘れられたとして現れたという伝説は、帝の寵愛の薄れを嘆いて入水した采女を連想させます。
 すなわち青海波の女人は、采女や豊玉毘賣、「日巫女」、龍女を暗示するものと思います。
 魚の鱗のようにも描かれる青海波は、鱗は魚とされた古代中国以来の龍の形象に繋がり、青海波の衣(=魚の鱗)を着た采女は龍女、青衣の女人、海神の娘豊玉毘賣=遠敷明神に重なる存在だったことが改めて見えてきます。

東大寺二月堂横に祀られる遠敷明神(2016年3月15日)


福井県小浜市遠敷に御鎮座の若狭姫神社(2016年3月2日朝)


 前回は猿田彦神溺死の際の三つの御魂を連想した今年1月13日撮影の福岡市東区三苫の綿津見神社(豊玉毘賣と綿津見三神)の海岸の写真を載せ、沖に見える福岡県新宮町の相島(あいのしま)の若宮神社の御祭神も豊玉毘賣である旨をキャプションに入れていました。
 その同じ時に三苫の渚には扇形とは違う、長く尾を引くような「青海波」が寄せていました。

三苫の綿津見神社の渚に長く尾を引いて寄せくる「青海波」(2024年1月13日朝)

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