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那津を守る航海神と太陽神

はじめに

 今回の投稿のために福岡市内と近郊のいくつかの神社の追加取材の必要性を感じたのですが、なかなかタイミングが合わずにその機会に恵まれずにいるうちに、あっという間に二ヶ月ほど経ってしまいました。
 できる限り現場主義で研究してきましたが、ここ最近のように歯車がなかなか噛み合わない時は、こだわりすぎても却ってよくないと思うようになりました。
 そこで当初の予定から少し方向性を変えて、前回からの考察を進めていきたいと思います。ということで、まず前回の内容について少し整理しておきましょう。

 博多総鎮守櫛田神社の本殿の真裏に石鳥居が立ち並ぶ一角が、戦国時代に荒廃した博多の街を復興する豊臣秀吉公の指示による「博多町割」以前の、「那津」や「冷泉津」と呼ばれた「海」の「表鬼門の守護神」と信仰されていた時代の「旧参道」の名残ではないかと考えてきました。
 本殿の真裏から南西に延びる「旧参道」の延長線は、鎌倉時代に人魚が漂着した場所と伝わる「冷泉津」の船着場を経て、平安時代に大宰府へ左遷された菅原道真公が上陸したと云う「那津」の船着場に到達します。
 逆に「那津」と「冷泉津」からみて北東に御鎮座の櫛田神社が「海の表鬼門の守護神」とされる言い伝えは、より細かく言えば、港や船着場という意味での「津」からみた表鬼門の守護神と云うことだったものと考えられます。
 その後「博多町割」で櫛田神社の社殿はほぼ正反対の東北東に向きを変え、「海の守護」から「街の守護」の性格が濃くなったものの、「旧参道」の名残によって櫛田神社の「博多町割」以前の信仰の歴史が窺い知れ、「博多町割」以後の信仰との連続性を感じることができるのです。

 この「従前」の信仰の歴史を後世に「承け継ぐ」という「承前の原則」は、日本の信仰の大きな特徴の一つだと思います。
 今回は菅原道真公が上陸したという「那津」=「容見天神故地」を通して改めて「承前」について考えてみましょう。

那津のもう一つの守護神

 過去の記事(『博多総鎮守の太陽信仰』、『博多総鎮守の旧参道』)において、「天神さま」として信仰される菅原道真公が、左遷先の大宰府に向かっていらした舟から上陸された場所が「容見天神故地」であり、その石碑が現在は余香館という施設の敷地内に立っていることに触れました。
 もう一度その場所を下記リンク先のYahoo地図で確認しておきましょう:

https://map.yahoo.co.jp/place?lat=33.58398&lon=130.39896&zoom=18&maptype=basic

 次に「博多古図」でも「容見天神」の位置を改めて確認しましょう:

博多の大博通りに設置された「博多古図」の石板(部分)。右上の岬に「日本第一住吉大明神」、その対岸には「容見天神」、また「住吉大明神」の左下の石垣で囲まれた街区に「櫛田宮」の表示が見えます。

「博多古図」で大きく目を引くことの一つは、「容見天神」が「日本第一住吉大明神」(現「筑前國一之宮住吉神社」)の真向かいに表示されていることです。
 両者がこのような位置関係で表示されていることには何か意味があるに違いないと感じた私は、試みにYahoo地図の距離計測機能を使って余香館のマークと住吉神社のマークを直線で結んでみました。
 皆さんも上掲リンク先の地図の余香館の位置から、下記リンク先の住吉神社へと直線を引いてみてください。
https://map.yahoo.co.jp/place?gid=5t6giYkJWgI&lat=33.58591&lon=130.41270&zoom=17&maptype=basic

 するとこの直線は住吉神社の手前の池(「天龍池」)の中央を経て参道を真っ直ぐに進み、本殿に到達することが判明します。
 逆を言えば、住吉大神は容見天神の方を真っ直ぐ向いて御鎮座ということになります。
 前にも推測しましたとおり、容見天神の場所に菅原道真公が上陸されたのが、そもそもそこが「津」(船着場、港、港町)だったからだとすれば、住吉大神はそのずっと以前からこの「津」の方を向いて守ってくださっていたと想像されます。

 住吉大神は海の神々の中でもとりわけ「航海の神」としての御神徳が強調されてきました。管見では、福岡の筑前國一之宮住吉神社と大阪の住吉大社の現代は陸上を巡る御神幸では、御神輿が舟型の台車に乗せられます。これも住吉大神=航海神という強い意識を窺わせる重要なポイントです。
 住吉大神は底筒之男命、中筒之男命、表筒之男命の三柱の男神の総称ですが、「筒」=ツツの言霊は「津々浦々」の「津々」の意味も示しているのではないかと思われます。
 
 これまでみてきましたように、櫛田神社は「津の表鬼門の守護神」と信仰され、その「旧参道」は「冷泉津」そして「那津」の方へと、南西(真西から45度南寄り)に真っ直ぐ延びていました。
 それでは「那津」=「容見天神故地」に参道が真っ直ぐ延びる住吉神社にはどういう形での加護が期待されていたのでしょうか?

那津の住吉信仰と太陽信仰

「容見天神故地」の石碑が立つ余香館を「那津」と呼ばれた「海」の「津」(船着場)だったと仮定すると、そこから住吉神社本殿に延びる直線の方角は、真北(0度)から時計回りに約80度(真東からは約10度北寄り)になります。この直線は十二支を当てると卯の方位(真東から南北各15度の計30度の範囲)に入ります。
 皆さんも先ほどのリンク先の地図で確認してみてください。

 この余香館→住吉神社本殿の直線が、住吉神社の手前の「天龍池」の中央と参道を真っ直ぐ通過することは前述の通りです。次に余香館から住吉神社の境内(緑色で表示)の最北端と最南端にもそれぞれ直線を延ばすと、それらの方位は次のとおりです:
・余香館→境内最北端=77〜78度(真東から12〜13度北寄り)
・余香館→境内最南端=85度(真東から5度北寄り)
 これらの方位線と角度はあくまで現在の地図に載る境内の範囲に基づくもので、しかも私がパソコンの画面に分度器を当てて計測したものですので、若干の誤差はあるかもしれません。
 ですが、余香館=容見天神故地=「那津」という船着場から見た今の住吉神社が、卯の方位の北半分(真東から0〜15度)の範囲に収まることは確かです。
 
 すると容見天神故地からみた住吉神社は日の出の方位にあることが判りますが、具体的にいつ頃の日の出の方位であるのかを昨年のデータで確認してみましょう。
<『こよみのページ』参照:http://www.koyomi8.com

 福岡県福岡地方の地平線上の日の出の方位が上記の真東から5度〜13度北寄り(真北から時計回りに85度〜77度)だったのは次の期間でした:
・3月30日(85度/春分)〜4月18日(77度/清明)
・8月26日(77度/処暑)〜9月14日(85度/白露)

 4月18日の翌日以降、日の出の方位はさらに北上していき、年間を通じて最北=61度(真東から29度北寄り)となったのは次の期間です:
・6月10日(61度/芒種)〜7月4日(61度/夏至)
 この期間の太陽は朝のうちに住吉神社の上空を北から南へ移動します。

 すなわち余香館=「容見天神故地」=「那津」の船着場から見た住吉神社は、春分日(3月21日)の9日後〜秋分日(9月23日)の9日前の間の日の出や朝陽を拝む方位にあることが判ります。
 
 十二支は方位だけでなく時刻の表示にも使われてきました。機械的には一刻=2時間として次のように当てはめられます:
子=23時〜01時、丑=01時〜03時、寅=03時〜05時、卯=05時〜07時、
辰=07時〜09時、巳=09時〜11時、午=11時〜13時、未=13時〜15時、
申=15時〜17時、酉=17時〜19時、戌=19時〜21時、亥=21時〜23時。
 ただし昔は日の出が一日の始まりとされ、その時刻は卯の刻で、「日出」(にっしゅつ)とも呼ばれていました。
 
 昨年は余香館=「容見天神故地」=「那津」から見た住吉神社の境内の範囲の地平線から太陽が昇った時刻は次のとおりで、上記の卯の刻の範囲(05時〜07時)に収まります:
・3月30日=06:09、4月18日=05:45、8月26日=05:48、9月14日=06:00

 また日の出の方位が最も北寄りの61度(真東から29度北寄り=住吉神社の境内からさらに北側)になる頃、すなわち芒種から夏至の頃の日の出の時刻も次のとおり卯の刻の範囲に入ります:
・6月10日(芒種)=05:08、6月21日(夏至)=05:08、7月4日(夏至)=05:13
<『こよみのページ』参照:http://www.koyomi8.com

 次に下記サイトの「太陽高度(一日の変化)」で、余香館=「容見天神故地」(福岡市中央区今泉1丁目5)から見た昨年6月21日(夏至)の太陽の日の出(05:08/61度)からの動きを調べてみました:
・05:15=61.74度、07:00=74.93度、07:15=7669度、…
<『生活や実務に役立つ計算サイト keisan』参照:https://keisan.casio.jp
 夏至の朝陽は、機械的に十二支を当てた卯の刻が終わる07時に74.93度=約75度=寅と卯の方位のほぼ境界に迫り、日の出の05:08から一刻(2時間)+7分が経過した07:15には7669度=約77度=卯の方位に入っています。
 余香館から約77度(真東から約13度北寄り)の方角に住吉神社境内の最北端が位置することは前述のとおりです。
 つまり、日の出の方位が最も北寄りとなる夏至でも卯の刻が終わる頃には、朝陽が住吉神社境内の北端の真上(卯の方位)に差し掛かる形になります。
 こうしてみてくると、余香館=「容見天神故地」=「那津」からみた住吉神社には、春〜夏〜秋の日の出と朝陽を拝む卯の刻と卯の方位、すなわち「二つの卯」が強く意識されていたことが窺えます。
 言い換えると、「那津」の船着場から航海神の住吉神社を拝み、その加護を願う信仰と、春から秋にかけての日の出や朝陽を拝む信仰が重なり合っていたことが推察されます。そのことは、住吉神社の本殿に太陽神天照大御神も祀られている点に暗示されているようにも思われます。

「那津」という船着場の守護を航海神だけでなく、春〜秋の太陽にも祈る……。
 その意味するところが自然崇拝の観点からどのように説明されうるのか?一般に冬は波が荒れやすいということとも関係があるかもしれませんが、私にはまだ考えがまとまっていません。

 今はただ、住吉大神と天照大御神が兄と妹の関係にある点にだけ注目しておきましょう。
 先にも触れた住吉神社の天龍池は、伊邪那岐命の禊祓によって住吉大神が顕現された霊地と伝わっています。その直後に天照大御神が顕現された場所も天龍池か、またはその近隣の可能性もあるでしょう。
 だとすれば、余香館=「容見天神故地」=「那津」と住吉神社本殿を結ぶ直線が天龍池の中央を貫通する点も、「那津」が航海神=住吉大神と太陽神=天照大御神の両方の加護を仰いでいたことを暗示するものかもしれません。

 ここで「那津」の二つの守護神について少し整理しておきましょう:
・住吉神社(航海神)=兄=「那津」から春〜秋の日の出と朝陽を拝む方位
・櫛田神社(太陽神)=妹=「那津」から表鬼門の方位

 実際のところ「那津」や「冷泉津」と呼ばれた遠浅の海に面して御鎮座の住吉神社と櫛田神社とを比較すると、住吉神社の方が歴史は古いです。
 住吉神社は遠浅の海の本土寄りの岬の上にあるのに対して、櫛田神社は海寄りに堆積し結合した砂丘と砂丘(「博多浜」)の間の入江の跡地です。櫛田神社の現在の境内は福岡市埋蔵文化財センターの資料によると少なくとも平安時代前期まではほとんどがまだ海だったようです(これについては後日別稿で取り上げたいと思います)。
 すなわち兄の住吉大神は岬に、妹の天照大御神は入江(跡地)に御鎮座という形になります。
 あるいは、先ほどの伊邪那岐命の禊祓に関連して言えば、住吉大神は岬の先端の天龍池で、その後で天照大御神は入江の水際で顕現されたというふうに、自然崇拝の観点から考えてみることもできるのではないでしょうか。

 話の流れがやや逸れましたが、「那津」と呼ばれた海の中の「津」=船着場や港や港町の守護が航海神の住吉大神に期待されたのは当然ですが、そこには太陽信仰も重なり合っていたことが見えてきました。
 この重なりが、後に太陽神の奉祀に始まる櫛田神社も「那津」の守護神とされた信仰思想の背景にあったものと思われます。
 これは、「津」の守護という航海安全の御神徳が、従前の航海神の兄神から太陽神の妹神へ継承されることを可能にしたものでもあったと考えられます。
 ここにわが国の信仰の大きな特徴である「承前」の原則が認められるのです。
・「那津」の従前の守護神=兄=住吉神社(航海信仰)と重なる太陽信仰
      ↓(承前の原則)
・「那津」の新たな守護神=妹=櫛田神社(太陽信仰)と重なってきた航海信仰

 先ほど「那津」からみた住吉信仰に「二つの卯」が意識されていると指摘しましたが、櫛田神社の拝殿破風に波飛沫の中を跳ねる二匹の兎の彫刻があることも、「那津」の守護神としての性格を住吉神社から受け継いだことを暗示しているかもしれません。念の為、住吉神社がその後も博多の海を守って下さってきているのはもちろんのことです。

櫛田神社拝殿破風の彫刻。波飛沫の中の二兎は、卯の方位と卯の刻の「二つの卯」の暗示でしょうか。
上空の環天頂アークは御神木(銀杏)の祭典「ぎなん祭」が行なわれた2020年3月12日に現れたものです。

 
 

おわりに

 今回の考察はさらに、「那津」の守護神と言い伝えのある櫛田神社が太陽神天照大御神の奉祀に始まるものの、「那津」という船着場からすれば北東(45度)に位置することの意味を探るヒントにもなるでしょう。
 一般に神仏や神木、磐座、神体山、太陽、月、星などを拝む時、私たちはそれらの方を向いて拝みます。誰かに対面でお辞儀やお礼をする際にも、その相手の方に真っ直ぐ向きます。
 しかし(少なくとも日本の地理的条件からして)自分の位置から北東の方向には日の出も朝陽も現れません(視界の端には入りますが)。
 つまり「那津」からは日の出も朝陽も決して現れない方位に御鎮座の櫛田神社(太陽神)が「那津」の守護神とされてきたのです。
 これは、原初的な自然崇拝と後世に受容された鬼門信仰との融合の一つの事例として受け止められます。
 この点については次回以降に考えていきたいと思います。それはまた、太陽神を真北に向かって拝むという、原初的な自然崇拝の拝礼の形式とは異なる、太陽信仰と北極星信仰が融合した伊勢の神宮の信仰「太一」の思想について考えることにもつながっていきます。



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