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龍神考(12) ー雲は神のおわす処ー

 前回は「海」〜「天」〜「雨」〜「山」〜「馬」という雨にまつわる言霊の連環について考察しましたが、この連環の中に存在しつつも「あま」や「あめ」の言霊を含まない「雲」について考えます。
「雲」が「雨」という字を含むにも関わらず、「あま」や「あめ」とは読まない、あるいはその言霊を含まない字である点は、かなり興味をそそられます。
 そこで「雲」をなぜ「くも」と読むのかについて考えてみましょう。

「みくまり」と「みこもり」

 もう一度整理すると、「海(あま)」は太陽に温められて「天(あま)」で一時的に「雲」になり、「雨(あま・あめ)」となって「山(やま)」に溜まります。しかし降水量の不順に悩まされる時は、降雨祈願の場合は黒い「馬(うま)」を、止雨祈願の場合は白い「馬(うま)」が水神に奉納されていました。

 さてここで、「溜まる」を「籠る」と見立てるとどうでしょうか?
 地域の重要な水源地となってきた山には「天水分神(あめのみくまりのかみ)」が祀られていたりしますが、「水分(みくまり)」は「御子守り(みこもり)」に転訛して子守りの信仰の性格が加わったりします。
 福岡県糟屋郡新宮町の立花山の中腹に御鎮座の六所神社の境内には、天水分神を「若宮神社」の社号で祀る小さな祠があります。

六所神社の境内の天水分神を祀る小祠(右から2番目の丸い小石のある石祠)

 また新宮町には、源平の戦いに敗れて日向国に流罪となった平景清を探し求めて京都からここまで長旅をしてきたものの病没したと伝わる娘の人丸姫命を祀る人丸神社があり、御祭神の親思いの厚さ故に子供の守り神と信仰されていますが、すぐ裏手の小高い丘に人丸配水地があり、御子守り信仰の人丸神社と水分(みくまり)の役割を担う人丸配水地のある丘が昔は一対の関係にあったことが窺えます。

平景清の娘、人丸姫を祀る御子守り信仰の人丸神社
御子守り(みこもり)信仰の人丸神社の社殿の真裏の方向に位置する水分(みくまり)の人丸配水地

 一般に「若宮」はある神社において主祭神の御子神である場合が多いようです。15代応神天皇は八幡大神の神号や八幡宮の宮号で全国に祀られているのに対して、応神天皇の皇子の16代仁徳天皇は若宮八幡宮や若八幡宮の宮号で祀られているのがその好例です。
 武甕槌命(たけみかづちのみこと)、経津主命(ふつぬしのみこと)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、比売神(ひめがみ)を祀る春日大社でも、天児屋根命と比売神の間に蛇の形でお生まれの天押雲根命(あめのおしくもねのみこと)が「若宮神社」の社号で祀られ、水神や知恵の神として崇敬されています。

 大人より知識の吸収が早い子供を連想させる少彦名命(すくなひこなのみこと)も知恵の神様と信仰されるように、水神であり知恵の神でもある春日大社若宮神社の御祭神、天押雲根命にも「水分(みくまり)」と「御子守(みこも)り」の信仰がセットになっていることが窺えます。

K+母音とM+母音

 春日大神の御子で水神や知恵の神のご神徳がある天押雲根命の御名の中には雨をもたらす「雲(くも)」があります。
 そこで、「水分(みくまり)」と「御子守(みこも)り」、「籠(こも)る」、「雲(くも)」と並べると、「くま」、「こも」、「くも」には、K+母音とM+母音の組み合わせが共通していることが判ります。

 この組み合わせにおいて子音のKとMに続く母音を「A→I→U→E→O」と、変数のように変えていくと、一番注目されるのはKAMI=かみ=神でしょう。
 さらに言えば、「KAMI=かみ=神」と同じように子音のKとMを含む「くま」、「こも」、「くも」も「神」に通じる言霊を備えている可能性もあるのではないでしょうか?

 そう考えると、「籠(こも)る」の「籠」に「龍」が含まれている点が注目されます。これも「龍」自体が「神」あるいは「神」に準じる存在であることを示しているようです。
 ここで雨との関係が強調される「龗」を「おかみ」と読むことが改めて思い起こされます。
「龗」=「雨」+「口口口」+「龍」が「おかみ=OKAMI」であるならば、その雨を直接もたらす「雲=くも=KUMO)」もまた「龗=OKAMI=おかみ=御神」に通じる存在ということになります。

 また降雨や止雨を祈る際に奉納された「馬(うま)」を「駒(こま)」とも呼びますが、「駒=こま=KOMA」もK+母音とM+母音の組み合わせです。
 そして「こま」と言えば、神社にはしばしば「狛犬(こまいぬ)」がいます。
 K+母音とM+母音の組み合わせによる様々な言葉が、ある共通のニュアンスを帯び、それが畢竟「神=かみ=KAMI」に収斂しうる言葉とすれば、「狛犬=こまいぬ=KOMAINU→KAMIINU=神犬」ということになります。
「狛犬=神犬」とする見方は、稲荷大神の眷属である狐を「神狐」と呼ぶことからしてもおかしくはないでしょう。
 逆を言えば、「駒(こま)」自体が「神」に近い存在という認識があったことになるでしょう。実際、神社に奉納される「神馬」は神様の乗り物と考えられ、後世は絵に描いた馬「絵馬」を奉納する慣わしとなりました。

福岡市上和白の大神神社(福岡市東区高見台)の神馬像と向かいの丘に沈む直前の夕陽
上和白の大神神社の神馬像と拝殿(右)、高龗神を祀る貴船神社(神馬像の下)、参籠殿(左)


「かみ」、「くま」、「くも」、「こま」、「こも」など、K+母音とM+母音の組み合わせによって畢竟「神」に収斂しうる一群の言葉の中の、母音の入れ替わりとニュアンスの変化の法則性は私にはまだ不明ですが、「龍」も「龗」の形をとることで「神」に収斂しうる一群の言葉に属する点を今は押さえておきましょう。

 そうすると、前出の「籠(こも)る」の「籠」に「龍」が含まれていることも、「龍」がK+母音とM+母音の組み合わせに準じる存在だと認識されていたことを暗示していると考えられます。

 ここで「龍」と「龗(おかみ)」と「籠(こも)る」を対比してみると、「龍」に「雨+口口口」や「竹」が加わると、「りゅう」、「りょう」、「たつ」からは訛りようもないK+母音とM+母音の組み合わせである「かみ」や「こも」という読みになることが分かります。

 この対比をしてみて、すぐ「雨後の筍」を思い出してしまいましたが、筍や竹林を目にした古の人々は、その下に龍の存在を想像したのでしょうか?
 ただし「竹」の読み方にK+母音とM+母音の組み合わせはありません。 そこで「雨+口口口」に注目してみましょう。

言葉を発する神と雲

「口口口」は言葉を発する「口」が三つ並んでいますが、これは「霊」の「雨」と「巫」の間の「一」が旧字体「靈」の「口口口」でもあります。
「雲」が「雨」+「云」であり、「云」には「言葉を発する」の意味で「いう」の読み方もあることから、「雨+口口口」は「雲」に置き換えることも可能です。
 ならば「おかみ」=「龗」=「雨+口口口+龍」は「雲+龍」=「雲龍」であると捉えることもできるでしょう。
 つまり「龗」はK+母音とM+母音の組み合わせであるKUMO=「雲(くも)」に「龍」を付け加えたものだから、同じくK+母音とM+母音の組み合わせを含むOKAMI=「おかみ」という読み方につながり得たのではないでしょうか?

 このようにみてくると、「雨」+「云」からなる「雲」をK+母音とM+母音の組み合わせである「くも」と読む理由は、「口口口」=「云」=「言葉を発する」点にあることが窺えます。

 ところがそもそも論を言えば、「云」自体が「雲が立ち上がる」様を表した象形文字であり、「雲」そのものの意味もあります。

 ならば「雲」とは「空から言葉を発する存在」ということになりませんか?

「空から言葉を発する存在」と言えば、少なくとも鳴き声を発するという意味では「鳥」がいます。
「鳥が居るところ」に由来する「鳥居」は神々の鎮まる場所の入口でもあります。

「神」は「示」と「申」からなり、「申す」や「述べる」や「告げる」という意味の「申」は元々は雷光が空を走る様を表す象形文字であり、「伸びる」や「天の神」を意味する文字として生まれたそうです。

 しかし、「天の神」を意味する「申」が由来する「雷光」はそもそも「雲」の中で発生します。

 以上から次の対応関係が認められます:
「云=雲=くも=KUMO」→「上空=天から言葉を発する存在」
「申=雷光や天の神=かみ=KAMI」→「天=上空の雲から言葉を発する存在」
 
 
こうしてみると「云=雲」は「申=雷=神」のおわす処とも捉えられます。そうすると、神仏が雲に乗って私たち人間の前に現れたり、来迎すると考えられた論理にも納得がいきます。

夜臼式土器などで考古学上有名な新宮町夜臼地区の産土神、高松神社で拝んだ来迎雲(2022年1月3日朝)



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