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明星の親が考えてきたこと  ~明星学園P.T.A.の歴史~

2020年12月5日(土)明星学園P.T.A.主催で開催された講演会内容の書き起こしです。

講師:大草美紀氏 (明星学園資料整備委員会)
日時:2020年12月5日(土) 14:00~16:00
会場:小学校いちょうのホール ※オンライン併用

明星学園は開校から保護者がサポートし、その後も、時には子どもたちが授業で使う教科書について先生と一緒に考えるなど、教育にも丁寧に関わってきたそうです。また、設立当初から、保護者の中には大変著名な方も多くいらっしゃいました。どのような方が、どんなふうに学園に関わってきたのか、昔の保護者はどんなことを考えていたのか、一緒にお話を聞きませんか?

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◆自己紹介
 皆様、こんにちは。初めまして、というかたも多いかと思います。学園資料整備委員会のオオクサミキと申します。PTA役員さんからの依頼を受けまして、今日は少しお喋りさせていただきます。
 私は教師ではありませんし教育の専門家でもないのに、どういう立場で話をするんだろう? と思われる方もいらっしゃるかもしれません。私は1973年から1984年まで、小学校2年生から12年生まで明星学園の生徒でした。また1992年から約10年間、高校の中に事務所のある明星会(同窓会)の役員兼事務として仕事をしていました。その間に生まれた息子が2000年に明星に入学しましたので、こんどは保護者として、12年間明星と関わりました。代議員(学級のPTA担当者)とか常任委員(学年のPTA代表)とかバザー執行部とか、だいたい1年おきに何かしらPTAの役を引き受けてやっていました。
 そんななか、中学時代の恩師・依田好照先生や、小学校でお世話になった大野映子先生に誘われて、「輝け!明星学園の会」という会を手伝い始めました。この会は明星が大好きな人たちが集まって勝手に明星を応援する活動をしていました。年に1度くらいのペースで明星の先生や卒業生、教育研究者を招いて講演会を開き、2006年から2019年まで13年間の活動で25冊の会報を発行しました。いちばん若手だった私は事務作業員で、作業をしながら依田先生から明星学園創立にまつわる話や依田先生が若かったころの明星の話、校長時代のことなどを聞きました。講演会の資料や会報づくりなどをするうちに、「門前の小僧習わぬ経を読む」というやつで、何度も何度も繰り返し聞いているうちにすっかり明星の原風景が脳内に浮かぶようになりました。
 2009年に明星学園に資料整備委員会ができた時に、「明星の歴史に詳しい働ける年代の人間」――ということで私に白羽の矢が立った……のかどうかはわかりませんが、当時の出口理事長と常務理事の塚田さんに呼ばれ、説得されて、前職を辞めて、明星学園の嘱託職員となりました。「倉庫に眠っている資料を整理する」という役割で就いた仕事でしたが、なぜか90周年記念誌の編集にも駆り出され、門前の小僧に磨きがかかって今に至ります。
 55年の人生のなかで明星と関わりがなかったのは、小学校2年生に編入するまでと、高校卒業後、大学・会社勤めを経て明星会で働くまでの8年間だけ、残りの39年間は何かしら明星と関わってきました。
 今日は、明星の生徒時代 ~ 明星会時代 ~ 保護者時代 ~ 輝け!明星時代 ~ 門前の小僧時代……という経験をもとに、背後に依田先生の気配を感じながら、おしゃべりしたいと思います。そう言うと依田先生は歴史的人物みたいですが、じつはまだまだお元気です。どうぞよろしくお願いします。

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◆成城小学校の小原先生と赤井先生
 明星学園の創立は1924(大正13)年5月15日です。
 創立者は赤井米吉(よねきち)先生と言います。赤井先生の仲間、照井猪一郎(いいちろう)・照井ゲン・山本徳行(とくこう)の3先生を加えて「4人の創立同人」とも言いますが、苦労して明星学園をつくり、育てた中心人物は、やはり赤井米吉先生です。この4人の先生は明星をつくる前は、新宿牛込にあった成城小学校で教えていました。

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 成城小学校の中心的な存在だった小原國芳(おばら くによし)先生は、赤井先生とは広島高等師範学校時代の親友同士でした。
 赤井先生は秋田県の公立学校で主事(今でいう教頭)の立場にあったのですが、その赤井先生を1922(大正11)年に成城小学校に招いたのも小原先生でした。しかし旧友同士とはいえ、小原先生と赤井先生は仕事に対する姿勢には違う部分がありました。お互いに教育熱心でたいへん有能な2人でしたが、1年ほど経つとだんだん関係が怪しくなってきます。詳しくは『明星の年輪―明星学園90年のあゆみ―』13~15ページを読んでいただきたいのですが、けっきょく赤井先生と小原先生の対立は鮮明化し、成城小学校の教員は小原派VS赤井派に分かれてしまいました。そして1924年の年が明けると、小原派による赤井排斥運動が起きたのです。校長の澤柳政太郎(さわやなぎ まさたろう)先生は2人をとりなそうとしましたが、その望みもむなしく、赤井派の先生たちは成城を去って新しい学校づくりに取り組むことになります。

 余談ですが、「4人の創立同人」と先ほど紹介しましたが、最初新しい学校をつくろうとしたメンバーは5人の先生方でした。幻の5人目は結城捨次郎(ゆうき すてじろう)先生といい、この人も成城小学校の教師仲間です。赤井先生たちは新学校創立のため、実業家の茶郷基(さごう もとい)さんという方に資金援助を願い出るのですが、結城先生はこの茶郷さんに気に入られなかったため創立メンバーから外れた‥‥といういきさつがあります。結城先生は赤井先生らと共に成城を辞め、明星の創立を目立たないところで援助したのち、やがてご自身は日本で最初の肢体不自由児のための公立学校(光明学校)をつくり初代校長となられました。

◆茶郷基氏の支援
 話を明星に戻します。茶郷さんの一人娘・喜久子さんは成城小学校の1年生で照井猪一郎先生の受け持ちクラスでした。茶郷さんは赤井先生と同じ石川県の出身。当時日本の領土だった朝鮮で鉱山を経営する実業家でした。たいへんなお金持ちで、数人の学生に学資金の援助をする‥‥という篤志家でもありました。昔のお金持ちというのは、自分のお金を増やすことばかりに必死になるのではなくて、茶郷さんのように未来を担う世代のためにお金をポンと出す、そんな方もいらしたのですね。1924年2月27日、赤井先生は国分寺駅南口の瀟洒なお屋敷に茶郷氏を訪ねます。そして自らの教育理念を語り、1万円(現在の約5,000万円)の援助をお願いします。これは赤井先生としては、かなり遠慮した金額です。いくら大正時代といっても新しい学校を1万円でつくることはできません。突然のお願いでしたから遠慮をしたのと、「差し当たり1万円くらいあれば何とかスタートだけはできるだろう。後のことは、また後で考えよう!」という大まかな考えだったそうです。

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 ところが話を聞いた茶郷さんは申し出を快諾し、「1万円では足りないでしょう。当分必要なだけの校舎を建ててあげましょう。設備費も、経常費の不足分も出してあげよう。至急に敷地選びをするように」とおっしゃいました。赤井先生はこのときのことを「ほんとうに棚からぼた餅のようなお返事だった」と書いておられます。
 さっそく翌日から、先生方は新学校建設のための土地探しに歩き回り、2月29日の午後(うるう年だった)、疲れ果ててたどりついたのが、井の頭の麦畑‥‥いま小学校のあるこの場所でした。
 それから約半月後の3月16日(日)、一同は井の頭の照井先生の家に集まりました。照井ゲン先生が筆を執り、白木の杭に「明星学園建設地」と墨で書きました。一行はこの杭をかついで行って、麦畑の中の小高い一地点に立てました。これが明星学園の最初の一歩です。
 脳内に映像が浮かぶようですね!


◆明星学園設立趣意書
 それからは忙しくなりました。なにしろ3月の半ばに新しい学校を建てる場所を決めて、その2週間後には新年度が始まるというのです。先生方は大急ぎで児童募集のちらしを作りました。

幼き日の印象は人の生涯を支配します。幼き者の教養に就いて社會がほんとうに覺醒(かくせい)せぬ内は民心の作與(さっこう)も思想の善導も庶幾(しょき)されませぬ。勿論(もちろん)之れは家庭、社會の風潮と至大な関係のあることで、獨り小學校教育のみの仕事ではありませぬ。然し現代の世相をなした一半の責は過去の小學校教育も背負はなければなりません。されば我子の行末を案ずる者、社會の前途を憂ふる人は先ず小學校教育の改善を計らねばなりません。輝く日光、新鮮なる空氣、滋養に富む食物、是等三つのものは凡ての成長の大要件です。地に樹つ草木、空に飛ぶ鳥、生とし生けるものは皆是等によってその生命を伸すのです。幼い人の子の成長も亦さうです。然るに塵埃の巷に建られた學舎、数十人を壽司詰にした教室は果してこの要件を満たし得ませうか。よしや食物の研究が進み、醫藥の新發見が如何に遂げられても、これでは幼い者をはぐくまれません。郊外へ! 陽の光を全身に浴び、清らかな空氣を胸いっぱいに呼吸する郊外へ、幼い者を救ひ出さなければなりません。
輝く理想、新鮮なる校風、生命の充てる教訓、是等三つのものは幼い魂の成長の大要件です。
神と自然と人間が與(あた)うる聖(とおと)い教を糧とし、温かい友情の風を呼吸し、至高の理想に向かって、幼い魂は伸び上がるのです。浮草の如くに點々として定まらぬ教師と點數と競争で駆らるゝ兒童が雑然たる知識の断片の蒐集を事として居る現代の小學校では幼い魂の伸びやうもありません。新しい教育へ、幼い者を救ひ出さなければなりません。
かかる考えを以って、森幽(もりかすか)に水清き井の頭公園脇に一千坪の大地とさゝやかな學舎を得て、友情に燃ゆる私達が、隠れた後援を誓わるゝ一教育愛好者に勵まされて新しい教育の樹立を企てました。思へば教育に身を獻げて茲(ここ)に十數年、互いに紆曲の道を辿って遂にカナンの地を得た心地がします。どうかこのさゝやかな芽生がよき成長を遂げます様、御援助を願ひます。

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 これが設立趣意書を載せた児童募集チラシです。現代のパンフレットのように写真が載っているわけでも、カラー印刷でもありません。裏面には募集人員と授業料などが書いてあります。
 「1、2、3年生、男女各15名ずつ、授業料6円」これは月謝です。そして開校予定日は「4月20日」と書いてあります。このチラシを8,000枚印刷し、3月24日、中央線沿線に配布しました。またゲン先生手書きのポスターも、新宿から西の中央線沿線のあちこちに手分けして貼って歩いたそうです。
 このときまだ校舎の建築は何も始まっていなくて、学校が建つ予定の場所には杭が立っているだけでした。どんなに急いでも1カ月で学校が出来上がるはずがありません。やっと材料が運び込まれて大工さんが仕事に掛かったのは開校予定日を過ぎた4月21日だったそうです。5月1日に保護者を集めて、開校を5月15日に延期するということで了承を得ました。

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◆開校の日
 そして迎えた5月15日、記念すべき開校の日はなんと土砂降りの雨! この日のことは創立同人の先生方がいろいろなところに書き残していますので、ぜひ『90年のあゆみ』などをお読みください。今日はその中から、照井ゲン先生が、学園創立10周年のときに書かれた文章を紹介しましょう。

 創立10周年!! いつの間にこんな長い月日が過ぎ去ったのか? かわいらしい1年生を11度も迎えたとはどうしても考えられない。「明星学園建設敷地」という棒杭を書いて、あの麦畑の中に立てたのは、ついこの間のような気がしてならないのに、もう早や 校舎が腐ってきたの、大修理だのなんて、私にはなんだか夢のような事実だ。
 4、5日前ひょっこり図書室にあった写真帳を開けてみると、第1枚目に開校の翌日、校庭で撮った20名(1名欠席)の子どもらと4人の先生方との記念写真が貼ってあった。11人の男の子はとりどりの洋服姿で、9人の女の子はいづれも真っ白なエプロン姿。何しろいちばん大きい子が3年生だったから、ちょっと見ただけでは誰だったのか見当がつかない。よくよく見つめていると、なるほど、これが、このごろ髪をすっぱりと分けて来たあの子だなぁと、がっちりした青年になった今の顔と結びついてくる。
 それにもまして4人の先生方の若かったこと。みな、はち切れそうな元気な顔。赤井先生のおつむの毛だってむくむくとして、このごろのように1本いっぽん並んでいるのではない。なんといっても10年という年月は争われぬものだと、つくづく無量の感に打たれました。
 
 子どもの募集はまだ建物の形さえないうちから始めたが、それにしても麦畑の棒杭1本を見ただけで、唯々学園の創立趣意を信じ、武蔵野の大自然を愛好して、大事なお子さんを入学させようと決心せられたあの当時の父兄の方々の勇敢さ、大胆さは今から考えると全く驚異と言うよりほかはない。学園に永遠の礎を据えてくださったその父兄の方々に対する私たちの感激は、教育理想の実現欲と相まって、その期待を裏切らぬよう努力せざるを得ませんでした。
 お母さん方もまた非常な熱心で、毎日2人、3人づつ変わった顔の見えない日とてはなく、よく皆と一緒に日光を浴びながら楽しい昼食を共にしたものです。幸にして2年目には新一年生の入学者が30名に近く、全校の児童数は創立の4倍くらいにまでこぎつけることができた。

 開校の日はすがすがしい若葉の5月15日、天気が良かったら武蔵野の空気を吸っただけでもどれくらい好い印象を残したかわからないのに、これはまたどうしたものか大変な荒天。印象の点からだけ考えるとこの方はむしろ強かったでしょう。朝から冷たいつめたい雨が止まずに降り続けている。今のように便利な自動車があるでもなく、淋しい公園の道をご臨席の澤柳先生をはじめ皆歩いてお出でになったものです。しかも校舎はやっと半出来で、周囲には窓一つなく、床板も仮張りのガタガタ、ほんとに屋根があるというに過ぎなかったのです。仕方がなしにあたりに幕など借りてまわしたが、それでも雨は遠慮なく吹き込んで来るので、澤柳先生も「これではあんまりひどいなあ」とおっしゃいましたが、ほんとうにお気の毒で皆に済まないという気持ちでいっぱいでした。せめて今日だけでも朗らかな天気を恵んでくれたらと、薄暗い空がうらめしくてなりませんでした。
 それから2、3年、学園に何か催し事があるたびに雨が降ったので、明星と雨とはつきもののように言われたものです。

 学園の誕生は今は故人となられた茶郷氏の後援によって案外楽にできたが、さてこれをはぐくみ育てていく苦心はまた決して容易なものではなかった。その意味において開校の日は、われわれにそうした暗示と覚悟を与え、とかく誇らかになりがちな人間の心に強い鞭をあて、謙譲と反省と同情とを教えてくれたものかもしれない。その後種々の事情からして経済経営における赤井先生の御苦労は大したもので、教育の実際経営における先生方の悩みもまた決して小さいものではなかった。

 すくすくと延びていく学園の子らと共にあるとき、中等部を終えて溌溂たる若人になりつつある彼らの姿を見た時、われわれは教育者でなければ味わい得ない、親心とでもいうような嘉悦と幸福とに満たされる。白髪の増えたことなぞはつい忘れ、いつもいつも若々しい明るい気持ちでその日その日を過ごしていけるのは、まったく純真な子らと共に働かせていただいているおかげだと、唯々感謝のほかはない。
(照井げん「追憶二三」小学部教育月報『ほしかげ』第7号 1934年5月15日)

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 おゲン先生が感心したように、当時の親御さんたちの勇気は大したものです。なんと言っても駅から15分も歩いた井の頭公園の向こう側の、棒杭1本が立っているだけの麦畑ですよ! 民家が2、3軒しか建っていなかった寂しい井の頭の森の中へ、よくも大切なお嬢ちゃんお坊ちゃんを通わせようと決心したものです。それだけ、その時代の公教育が良くなかったということの表れであったかもしれません。明治以降、日本の学校では効率重視の詰め込み主義教育が行われていました。〝お国の役に立つ〟画一的な人間を大量生産するための教育です。子ども第一主義などではありませんでした。ですから進歩的な考えを持つリベラルな人たちは、せめて自分の子どもたちはもっと自由で、自分なりの意思を持った人間に育てたいと強く願っていたのでしょう。そんな親たちの願いが成城小学校を生み、自由学園、文化学院、池袋児童の村小学校など、子どもの自発性を大切にしようとする私立学校を誕生させた、とも言えるでしょう。

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◆明星の最初の子どもたちはどんな家庭の子?
 このようにして始まった明星学園。最初の21人とはどんな家庭に育った子どもたちだったのでしょうか。
 資料整備委員会では2013年から、学園発行の『明星学園報』に「資料整備委員会だより みちくさ」と題する連載をしています。そのなかで、ここ数年は明星学園の保護者たちを取り上げています。106号に掲載した〝みちくさ〟第5回には、創立して最初の子どもたちの親がどんな職業の人だったかをグラフにして載せました。

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 ちょっと注意していただきたいのは円グラフにしていますが、じつはたった21名の子どもたちの親ですから分母が小さいのですね(笑) このグラフがそのまま明星の親の傾向だとは思わないでください。たまたま創立時はこういう分布だったということです。
 その次の号〝みちくさ〟第6回では、北原白秋と雑誌『赤い鳥』に関係した親たちのことを取り上げました。〝みちくさ〟にも書いたように、北原白秋をはじめ、童話作家の坪田譲治、児童文学者の与田準一、「シャボン玉とんだ」などの童謡詩人の野口雨情のお嬢さんも明星に通っていました。
 先日写真の整理をしていたところ、いつの撮影だか分からない写真があって、右端に写っている和服姿のお父さんの顔になんとなく見覚えがあったのですね。「あ!これ野口雨情じゃないかな?」と気づき、調べると確かにその学年で、撮影年が特定できました。なんとついに野口雨情まで顔で探せるようになりました(笑)

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 明星に子どもを通わせた親御さんにどのような人がいたのか、わかる範囲で書き出したものを今日の資料にしました。縁遠い人でも、おなじ明星の保護者だった人だと思うと急に親近感が湧いてきますよね。(文末に載せます)


◆「母の会」の誕生
 さて、母の会の話をしましょう。
 公立学校とは違って私立学校の子どもたちはさまざまな場所から通って来ます。地域に学校がひとつしかないところや、先祖代々その村で暮らしているというようなところだったら、子どもの顔を見ればどの家の子かわかるものですが、明星学園のような学校ではそうはいきません。学園を中心としてお母さん・お父さんがたが集まらなければ、お互いに知り合うこともできません。そこで赤井先生は創立の初期、まだ学園の教室に余裕があった頃、ひとつの部屋を「母の部屋」としておきました。そして家庭同士の横の連絡のために、通常の〝父兄会〟とはべつに、毎学期〝母の会〟を開き、そのほかにもときおり講演会など、頻繁に母親のための会合を催しました。先生方は「お母さん方もその意味を理解して、よく学園に来てくださった」、「いろいろな学園の仕事も手伝ってくれた」と語っています。創立の翌年から始まった10日間の夏季行事にもお手伝いのお母さん方が参加して、炊事をすべて引き受けてくれたそうです。
 こうして1年、2年と年を重ねるうちに、学級ごとのお母さん方の交流が密になり、やがて他の学年とも交流が生まれて、ついに1927(昭和2)年1月に「母の会」が生まれました。
 母の会の中心になったのは、山之内鈴衛(すずえ)さん、安田菫(すみれ)さんという方たちです。この〝母の会〟は母親たちの自主的な集まりで、学園の経済的な面の援助もしますが、自分たちの文化活動をして母親同士の交流を深めることが主な目的でした。子どもたちの教育について先生方と話し合うだけでなく、母親自身の教養を高めるためのいろいろな会合が催されました。戦争が始まってからもしばらくは声を低くして、歌の会なども開いていたそうです

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◆山之内夫妻と中等部の創設
 ここで山之内さんご夫妻の紹介をしておきましょう。
 明星が創立するとき、茶郷基氏が全面的に資金援助をしてくださったことは先にお話ししました。ところが創立の翌年、朝鮮半島に大きな台風災害が発生し、茶郷さんの経営する鉱山も大きな被害を受けました。
 創立2年目、生徒の数は増えていましたが、まだまだ学園の経営は苦しいものでした。しかし茶郷さんにいつまでも甘えてはいられません。金策に走る赤井先生の苦悩は大変なものでした。
 その年の年末、1925(大正14)年12月、赤井先生は山之内兵十郎(ひょうじゅうろう)氏を訪ねて相談します。山之内夫妻は創立同人の熱意に惹かれ、創立から少し遅れた6月に末娘を明星に編入させていました。会社を経営していた山之内氏は赤井先生の相談を受け、校舎建築費用や、その後の諸々の経常費支払いなどのため、多額の寄付をしてくださった学園の大恩人です。

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 お金の援助だけではなく、山之内夫妻は高等女学校と中学校の設立にも大きくかかわった方です。これも『90年のあゆみ』に書いたことですが、小学校3学年でスタートした明星学園は、最上学年が5年生になったころから上級学校の併設問題が深刻になってきました。というのも、その頃の赤井先生は、明星に中等学校をつくるときには、自由学園や文化学院のような、法令の制約のない、いわゆる各種学校をつくりたかったのです。その時代の法律で、認可を受けられる中等学校は男女別学で、校舎の場所も男女ではある程度離さなければならない、さらに男子の学校には配属将校を置いて軍事教練も行わなければならない、など数々の取り決めがありました。
 赤井先生は、中等学校をつくるときにはその校長として、広島高等師範学校時代の親友・上田八一郎(はちいちろう)先生を呼び寄せようとしていました。そのころ朝鮮の大邱(てぐ)中学校の教頭だった八一郎先生もまた、赤井先生と同じように、軍事教練のない男女共学の小さな無認可の学校を夢見ていました。

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 それではいっぽうの、お父さんお母さんたちはどう考えていたでしょうか?
 明星の親たちの多くは、都市部に住む新しい中産階層の人々でした。これは時代の流行の最先端を行っていた人たちです。第一次世界大戦後、日本はたいへん景気が好かった。いわゆる大戦景気とか戦争景気というものです。その大戦景気を背景に生まれた、都市に住む比較的豊かな新しい家庭層のなかで、特にリベラルな思想をもった人たちが明星学園を選びました。このような人たちは、子どもの自発的な活動を尊重する新教育=大正自由教育を支持しつつも、同時に子どもには高等教育を受けさせたいと考えていましたから、当然学校には受験に必要な学力をつけさせることも求めていました。
 赤井先生・上田先生の理想と、親たちの希望には、このように差があったわけです。
 やがて赤井先生も「生徒は私の所有物ではない。私の教育理想の犠牲になるべきものではない。やはり普通の中学校・高等女学校としての認可を受けて、その既定の範囲内で、可能な限り新しい試みをやるべきだ」と考え方を変えました。
 赤井先生は「財団法人明星学園」という組織をつくり、財団が運営する中学校・高等女学校として認可をとろうとしたのです。当時小学校は個人経営でもよかったのですが、中等学校以上は法人化する必要がありました。しかし法人化には多額の基本金が必要です。ここでもまた資金不足が大きな壁となりました。赤井先生・上田先生はあれこれと手を尽くしましたが基本金のあてはみつからず、あきらめて「こうなったらやはり無認可の各種学校にするしかないんじゃないか」と、自由学園や文化学院に見学に行ったりしていました。ですが、父母の間からは「どうしても将来は大学受験が可能な学校にしてほしい」という要望が強く、ここで「母の会」が動き出しました。


◆「明星学園後援会」
 お母さん方は父親たちに熱心に訴えかけて、こんどはお父さんたちの有志が集まって何度も何度も話し合いを重ねました。そしてこの会合から「明星学園後援会」が組織され、その後援会が中等部の設立を引き受けることになったのです。この後援会の中心人物が山之内兵十郎さんです。
 後援会の役員は、連日山之内さんのお家で話し合いを重ねました。さらに父母総会を開いて、中等部創立のために1口30円の寄付を募ります。山之内さんをはじめ3人の保護者から100口の大口寄付があり、全校では110人から3万3,000円という大金が集まりました。さらに懸案の基本金は、中学・女学校の2つで11万円を見せなければいけませんでしたが、茶郷基氏、尾高豊作氏(渋沢栄一の孫で赤井先生の友達。『新読本』などを出版した刀江書院の社長。明星学園顧問)、川井源八氏(保護者・三菱電機会社社長)、服部春一氏(保護者・国際図書社長)から合計11万円を借り受けることでようやく認可申請のめどが立ちました。
 こうして1928(昭和3)年2月17日に創立に関わる書類が完成し、4月5日に小学校校舎の北側に高等女学校の校舎が完成、いまの高校の場所に旧制中学校(男子)の校舎が完成しました。そして4月9日に女学校、10日に中学校の入学式が行われました。最後までハラハラさせられましたが、こうして未来の中学校・高等学校へと続く、小さな中等学校がスタートしたのです。これはまさに、お母さん・お父さんがたの支援の賜物でした。

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◆市村夫妻と軽井沢の寮
 もうひとかた、明星に大きな貢献をしてくださった方があります。
 軽井沢の大地主で、早稲田大学教授の経済学者・市村今朝蔵さんと奥さんのきよじさんご夫妻です。晩年のきよじさんの思い出話をお嬢さん方が聞き書きした『軽井沢 大切な人々』(1998年12月15日、日経事業出版社)という本を依田先生からお借りしてきました。その中から紹介いたします。

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 昭和5年は私達にとって特記すべきことの多かった年ですが、このことについては別に書き残しておきたいと考えています。
 この年の春早く、*明星学園園長の赤井米吉先生が突然名のりをあげて訪ねて来られました。一面識もない方だったのですが、主人と書斎で長々と話をされていました。先生が帰られるのをお見送りして、「あの先生の教育に対する考え方に全面賛成であり、気に入ったから応援することにしたよ」と未だ玄関の間に立ったままの立ち話でそんなことを申したのが、その後の長い明星学園との付き合いの始まりでした。

*明星学園は大正13年(1924年)5月、東京府下三鷹村牟礼(現在の三鷹市井の頭)に開校した私立の尋常小学校で、大正デモクラシーが生んだ自由教育運動を背景に、“個性尊重”“自主自立”“自由平等”を基本理念とした教育の実現を目指した。
 自由教育運動では先輩格の成城学園の教師をしていた赤井米吉、照井猪一郎、照井ゲン、山本徳行の4人が創立同人で、郊外の学園における生活と一体化した教育を理想としており、設立趣意書では、「敬虔(けいけん)なる生活」「美しい生活」「真実の生活」「勤労の生活」「協同と自覚の生活」を目標に掲(かか)げている。
 当初、照井の教え子の親であり、赤井と同郷の企業家、茶郷基が後援者として資金援助をしていたが、昭和初期の不景気もあって、学園経営は必ずしも順調にはいかなかった。しかも昭和3年、第1回の卒業生が出て中学校、高等女学校を開始するに当たっては、財団法人化が必要となり、理事長の赤井は金策に走り回った。
 そうした中で市村今朝蔵が軽井沢の土地を箱根土地に委託分譲するとのことを聞いた学園父兄の一人が、赤井を誘って市村家を訪問、明星学園にも分譲の仕事をさせてくれるよう頼み込んだのである。成城学園が成城の地を分譲して資金調達をしたことが刺激になったと思われる。
 今朝蔵は赤井から明星教育の趣旨を詳しく聞き、その理念に共鳴(きょうめい)、協力を答えた。『明星の年輪―明星学園50年のあゆみ―』は赤井の談話として「われわれが帰ってから今朝蔵氏はご夫人に、明星学園のよい学校であることを推奨され、3千坪の寄付と長女の米子さんを来年明星へ入れることを宣言されたそうである」と記している。

★この3千坪の土地は、市村氏が「明星の学校寮を建てるために」と寄付して下さった軽井沢の土地です。明星ではさっそくこの年の夏から、軽井沢での夏季生活を始めました。

 今朝蔵が明星学園に分譲を委託したのは3万坪、これを坪5円で販売、2円を市村側に支払い残額から生じる利益を学園の負債整理に当てた。分譲は明星学園不動産部の名で行われたのだが、素人の商法で手違いもあり、市村側への未納金が少なからずあった。しかし、市村は長女だけでなく、次女の信江も明星学園に入れたほか、今朝蔵自身も昭和10年から頼まれて理事に就任し学園経営にあたるなど明星の発展を心から期待していた。
 昭和28年の30周年記念に当たり、学園は今朝蔵に代り、きよじに功労者として5千円を贈呈したが、きよじは1,500円を今朝蔵の写真を入れる額縁の購入代として受け取っただけで、残額の3,500円は、“記念品代のもっともよい使い途”と言って、のし袋のままその場で、ふじ幼稚園に寄付したという。

★「ふじ幼稚園」は赤井先生が68歳の年に、自宅の敷地に開いた幼稚園です。

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 4月、長女米子の小学校入学、我が家は父親同伴にてもちろん明星学園への入学でした。上落合から吉祥寺まで学校が遠いのでそのことを心配しましたら、「子供なんてものは学校が近ければ一度家へ帰ってもまた遊びに出かけるから同じことだよ」と申した主人の言葉は今もって忘れられない思い出になっています。

 市村さんにいただいた土地に建てた寮は「上野原寮」と名付けられ、この寮を起点に浅間山、妙義山、八ヶ岳などへ出かける夏季生活が1960年代まで続きました。別名沓掛寮・軽井沢寮とも呼ばれて、長いあいだたくさんの明星生に親しまれました。


04.軽井沢寮

36回生軽井沢寮

 今朝蔵さんが亡くなった後も、夫人のきよじさんは学園評議員を務めてくださいました。また今朝蔵さんの弟の寅之助さんも、今朝蔵さんのすすめでお子さんたちを明星に通わせ、その後、照井校長の懇願に応じて1957年から理事長を務められました。
 在職中の市村寅之助理事長は、毎日のように学校に来て、授業を参観したり、職員室で教職員と談笑したり、議論をしたり、4・4・4制だった時期ですが低学年・中学年・高学年部の施設や設備の状態をみずから点検して回ったそうです。
 1964年、それは明星学園創立40周年の年でしたが、現中学校の4階建ての校舎建築が進行中で、市村理事長は10月に開催される東京オリンピックとともに、年内に完成予定の中学年部新校舎の実現を楽しみにしていました。しかし、40周年記念式典から2か月後の同年7月24日、静養先の軽井沢で急逝されました。62歳でした。

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◆戦後のPTA活動
 市村さんのお話の間に時代は戦後に移り変わりました。
 明星学園の誕生とほぼ同時に生まれた「母の会」は太平洋戦争が始まった頃までは続いていたようですが、やがて戦争が激しくなり、いつともなく中断した形となってしまいました。
 そして1945年、敗戦を迎えます。
 敗戦から2年後の1947年(昭和22年)、教育基本法と学校教育法が公布され、新しい憲法の実施と同時に、6・3・3・4制の新しい学制が成立しました。これが現在までも続いている制度で、それ以前の学校制度のことは「旧制」と呼んで区別しています。新しい学制の発足と合わせて、GHQの要請で日本の学校にもPTAの設置が奨励・推進されました。
 明星も1947(昭和22)年4月から新制中学校、翌1948(昭和23)年から新制高等学校が、いずれも男女共学でスタートし、これと合わせてPTAが発足しました。と、発足したことだけは記録にあるのですが、じつは戦後のPTAの活動はその後しばらく何も記録が残っていません。
 それからさらに5年後の1952(昭和27)年、高田止戈男(しかお)さんという方が会長の年に『明星学園P.T.A.会報』が創刊されます。
この会報の中にも書かれていますが、戦後のPTA活動のスタートというのは日本全国的にいろいろと議論があったようで、それは明星学園も例外ではなく、立ち上げはしたものの中味はまだなにもないという状態が5年間くらいは続いたということです。
 しかしこの『P.T.A.会報第1号』を読むと、明星のPTAは「何をしていいかわからないからやらなかった」という感じではなくて、おそらく戦後のごたごたの中で、生活するのが非常に大変だった時代ですから、落ち着いてPTA活動をする余裕がなかったのだろうと感じました。明星のお母さん・お父さんがたの記憶の中には、戦前の「母の会」がちゃんと生きていて、再始動の日を待っていたのだと思います。

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 ですから、この会報第1号が発行されると、満を持して、活発に活動を開始しています。まさに「待ってました!」という感じです。
 この年6月に会報第1号が発行された後、年度末の3月までになんと8冊の会報が出されています。ほぼ月刊誌です。すごいですね!
 そしてその間には総会、音楽会、講師を招いた講演会を開催し、会報には先生やお父さんお母さん卒業生などいろんな人が寄稿し、俳句をひねり、夏休みの過ごしかたについて考え、運動会について取材しています。
 第6号—クリスマス号には、「大学進学のために明星の高校はどうなのか?」「他校への転出問題」「明星に制服はあるべきかどうか」という投書が掲載され、議論はその後の号へと続いていきます。
 このPTA会報『道』のことは、2020年3月発行の明星学園報No.111のなかで、〝資料整備委員会だより みちくさ⑩「PTA会報『道』の足跡」〟にも書きました。ぜひお読みいただきたいです。そこにも書きましたが、最初1952年に創刊されたころは『P.T.A.会報』という題名だったのですが、1957年発行の38号から『道』という題名が付けられました。

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 この『P.T.A.会報』には、保護者と先生の投書、意見交換、疑問を呈すると次の号に答えが載るという形式が続いていきます。行事を見た感想や先生たちの裏話、家庭での話、心配事など、とにかく毎号雑多なことが、じつに気取らずに語られています。これを読むと、明星という学校は、子どもだけではなくて、そこに通わせていた親も教師も、自由に言いたいことが言い合える関係性だったのだな‥‥と感じます。


◆半世紀続いた明星学園の宝物
 明星学園では、1979(昭和54)年に松井憲紀(としのり)理事長が就任されて『明星学園報』を発行するまで、学園としての公式な定期刊行物がありませんでした。ときどきそれらしきものを発行しても、長続きしないのです。初期に発行したのは、1931(昭和6)年のお正月に創刊した『明星の教育』です。これはその年の12月発行の8号が最後、続いて1933(昭和8)年に創刊した小学部教育月報『ほしかげ』、これが昭和16年まで、これは戦争が始まってしまったので中断やむなしかもしれませんね。ほかに女学部発行の『明星-MIOZIO』、旧制中学校発行の『星雲時代』、戦後に新制中学校発行の『黎明』、新制高校新聞部の『星雲時代』(旧制中学の機関紙の題名を引き継いで発行されました)などがありましたが、近年まで続いたものはありませんでした。
 そんな明星で、唯一、ずーっと発行し続けられたのが、PTA会報『道』でした。
 他のものは保管状態も良くなかったので、とぎれなく残されているのも『道』と『ほしかげ』だけです。
 『道』の発行形態は時期によって変わってきましたが、発行されなかった年は一度もありませんでした。近年『明星学園報』ですら発行されなかった年があるというのに、『道』は途切れることなく、2010年度発行の通算134号まで、なんと58年間も続けられたのです。
 明星の先生たちも、他に発表の場がなかったこともあって、『道』にさまざまなことを書きました。ですから『道』を読むと、親の心配事とか、先生たちの考えていたこととか、時代時代のさまざまな変化が読み取れます。表紙を飾る子どもたちや保護者の絵も素敵です。

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 このNo.39はわかりますか? 宗像志功の版画です。宗像志功さんは保護者だったのでお願いして使わせていただいたのでしょうね。
 そして、大人だけではなくて、子どもも寄稿しています。授業で書いた作文などももちろん載っていますが、これはどうですか?
「ぼく、モルモットを飼いたい。だから、だれか飼っている人がいたら、わけてください。おねがいします。」という囲み記事です。モルモットはもらえたのでしょうか?(笑)

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 それから、こちらは先生たちと保護者有志と8年生が出席しての座談会ですね。

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タイトルが「Jazzと子ども」。「ジャズなんかきいてるとグレてると親は思う」とかね。もう今読んだら「そんなわけないでしょう! ジャズなんてオシャレで落ち着いてる~」って思うくらいなのですが、1961(昭和36)年当時、ジャズは不良っぽいとまじめに論じられていたんですね。ほんとうにおもしろいです。こういう座談系も頻繁に開かれ、『道』に記録が載っています。
 このように柔らかい一面もあれば、教師同士の誌上教育論争もありました。それからもちろん、保護者の投稿にもすばらしいものがたくさんあります。『道』を読み進めるだけでも、明星学園の戦後の教育内容の変化が詳しくわかります。
 歴代PTAの皆さん、ほんとうにありがとうございました。これは学園への素晴らしい貢献ですし、もっともっと語られるべき功績です。創立期の茶郷さん、山之内さん、市村さんらと並んで、学園から表彰されるべきことだと、私は思います。


◆PTAへのお願い
 ひとつ注文したいことがあります。せっかく続いてきたこの素晴らしい『道』が2010年で終わってしまったことが私は残念でなりません。きれいな見た目などにこだわらないで良いので、保護者の皆さんや、先生たち、私のような学校で働く職員からの寄稿文、そして子どもたちからのペット募集記事とか、そういうことを集めてコピーで綴るだけの冊子でもじゅうぶんだと思うのです。またぜひ、『道』を復活してもらいたいのです。
 これはPTAの作る会報ですから、法人としての明星学園とか、教師たちがつくるものとは絶対に違う視点でまとめられます。私立学校を支えるのはなんといっても保護者の支持です。その親の〝心のうち〟をいちばん知ることができるものは、やはり保護者の手でまとめ作られなければなりません。特に明星学園は、ほかとは一風変わった校風の学校ですから、「どうして大事なわが子を明星に通わせようと思ったのか」「通ってみて実際どうだったのか」、そういうことを正直な親の意見としてまとめた資料は絶対に必要ですし、それは学校の宝物になるはずです。実際に過去の『道』は学園の宝物です。
 何度でも言いますが、このような宝物を半世紀以上も作り続けたこと、そのほかにも有形無形の協力で明星学園を支えてくださったPTAの皆さんに、私は深い感謝と尊敬を感じています。
 PTAの皆さん方一人一人が、明星学園の功労者なのです。

 最後に、『道』に載せられたある先生の文章を紹介します。

 この文章の書かれたきっかけは、白金幼稚園の何人かのお母様方が明星を見学にいらしたことに始まります。1959(昭和34)年発行の『道』No.46に、見学に来た白金幼稚園のお母さん方の感想文が載っています。「明星学園の子どもたちが自然に恵まれた環境の中で育つこと、友達のように親し気な先生に囲まれていること、じっくり学ぶ授業の進め方などに感心しつつも、このような学校で育った子どもたちは大学受験を乗り切ることができないのではないか、将来激しく厳しい世の中で揉まれて砕けてしまうのではないか」という、同じような内容の感想文がいくつも載っているのですね。それに対して次の号に、明星の一人のお母さんから「白金幼稚園の人たちの感想に全面的に反対とは言えなかった」と、明星に通わせることに不安を感じているような投稿が載ります。これは現在明星に子どもを通わせている方々も、本当は不安に思っていることかもしれません。私もそうでした。本当に明星で大丈夫なのかな? ということは、実際に卒業してみないとわからないものです。だから親はいつでも不安です。そんな不安に、先生がどう答えたか。不安を感じた明星のお母さんの投稿に対して、高校の教頭の船山先生 (舩山理事のお父さんです) が、次のような文章で答えました。

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“問いたいところ”についてのお答え
   
船山 博彦(高校教頭)※

 先日、高校生が近くの公、私立の生徒を招いて明星で座談会を開きました。この時のくわしい内容は近く発行される、文芸部編集の35周年記念誌に掲載される予定なので、今はその時出席された先生のお話を通して簡単に紹介しておきます。
 一つは戦争反対についての事です。他校の生徒は憲法第9条の条文を引いて、戦争放棄の条文があるから反対するというのに対して、明星の生徒は条文のあるなしにかかわらず、戦争そのものを、本質的な面から反対しようとする、即ち法律があるかないかを問題にしようとしない態度と、条文についての知識を問題にしようとする態度との明らかなくい違いがあって、話し始めにはなかなか論点がまとまらなかったそうです。
 また現在の世相から大人の生活を批判する場合にも、他校の生徒は、まず自分が生きるためにもうける事を肯定しようとするのに対して、明星の生徒は、仕事そのものの意義を問題にしようとする。即ち、他校の生徒はもうかる仕事ならその仕事は大して意義のないものでも利用していいのではないか、意義があっても、もうからない仕事はつまらないと現実的にわり切っているのに対して、明星の生徒はそういう考え方に非常な潔癖さを示していたそうです。
 この二つの事から明星の生徒の特徴を考えてみますと、まず法律にあるかないかというよりも、その行為が正しいかどうかを自分自身で判断しなければいられないという事で、これは一方では規則のある無しにかかわらず正しい行為をする事にもなり、明星生のよい面として“表裏がない”という点にあらわれていましょう。しかしまた場合によっては規則を無視したわがままで勝手な行動ととられる場合も起きて来ることが考えられます。
 また生活の手段にしても、他人の隙をねらい、同僚を出し抜く事をいさぎよしとしない反面、お人よし故に他人にだまされ易いという弱さが心配される事にもなります。しかしこれは、だまされてもだまされてもあくまで善意を貫こうとする強さとなって、やがては人々の尊崇を得られなければならないものと思いますし、我々はそういう善意に生きようとする子供達が亡びないように援助をおしまないでありたいと思います。
 明星の生徒の現状をとらえる場合、見る方の主観的な立場も問題になりますが、やがては明星精神を立派に身につけて卒業してゆく過程にある者として、そのよい芽を思うままに延ばせるように御協力頂けたらと思います。明星生の現状の個々の姿をとり出してみた時には、問題とすべき点を多分に持ってはいながら、それらは成長の過程としてとらえてみれば、一見“弱さ”“たよりなさ”と見えても、それは現在の混乱した世に善意をつらぬく事の困難さを示している事で、我々としては、常に問題の核心を見つめてあくまで善意を貫く人になって欲しいと願っているわけです。
(PTA会報『道』48号、1959年12月発行)

※船山博彦先生は、1939(昭和14)年4月から1971(昭和46)年4月に亡くなるまでの32年間、明星の教壇に立たれた方です。牛込の成城小学校・中学校を卒業後、大正大学英文科に入学。名古屋の役所勤めを経たのち小学校の恩師であった赤井先生に「明星学園で教職に就きたい」と手紙を書き、1939年、明星の教師となりました。明星では高等女学校、中学校(男子)兼任の国語科教諭として赴任し、上田八一郎校長の補佐役として、太平洋戦争中とその後の苦難の時代に教頭を務めました。戦後、新制高等学校でも教頭として上田八一郎校長をたすけ、上田校長が病に倒れたあとは校長職を代行し、長年にわたって日夜学園の教育経営に尽力されました。永年学園の中心的存在として負ってこられた重責と心労から晩年は健康をそこなわれ、その重責から退かれましたが、それ以降も率先して縁の下の力持ち的な地味な仕事にとりくまれました。1971年4月15日に高校職員室で倒れ、2日後の17日未明に亡くなりました。
「私は明星が大好きだ。終生を明星のために捧げたい」と日ごろ同僚に語っておられたそうです。
船山先生の妻(9回生)、長男(29回生)、長女(31回生)も明星生。

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 船山先生の愛情あふれる文章は以上です。私はこれを読むたびに、こういう考えを持って子どもたちを見守ってくれる先生がいる明星学園に通えて幸せだった、自分の息子も明星に通わせてほんとうによかったと、改めて感じて、涙が出そうになります。

 ところで今日は私の仕事をボランティアとしてお手伝いいただいているお母様方も聞いてくださっています。資料整備委員会というのは私一人しかいませんので、一人でやっていると、たぶんぜんぶ片付けるのに何十年か掛かります。それをお母さん方がコツコツと何年間も、手弁当でお手伝いに通ってくださっています。この方たちにも、この場を借りて心から感謝申し上げます。今日の講演会の準備にも多くの資料が必要でしたが、ボランティアの方々が整理してくださったおかげで文書や写真などを探し出すことができました。

 今日の講演の材料となっているたくさんの資料は、すべて資料室で閲覧することも可能ですし、いつの日か学園のWebサイトで簡単に閲覧できるようになるのではないかと期待しています。Webで見られるようになるまでは、どうぞいつでもお気軽に資料室においで下さい。

 本日は、つたないおしゃべりをお聞きくださいましてありがとうございました。


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こんな人も明星の保護者でした
 (敬称略、在校生保護者は除く、五十音順)
《作家・詩人・文芸・児童文学》
 小川未明‥‥小説家、児童文学作家(孫が明星生)
 角野栄子‥‥童話作家、絵本作家
 北原白秋‥‥詩人、童謡作家、歌人
 串田孫一‥‥詩人、哲学者、随筆家
 壺井栄‥‥小説家、詩人
 坪田譲治‥‥児童文学作家
 直木三十五‥‥小説家、脚本家、映画監督。「直木賞」由来の作家
 野口雨情‥‥詩人、童謡・民謡作詞家
 ひろかわさえこ‥‥絵本作家
 正宗白鳥‥‥小説家、劇作家、文学評論家
 松居直‥‥編集者、出版事業家、児童文学者
 まついのりこ‥‥絵本作家、紙芝居作家
 武者小路実篤‥‥小説家、詩人、劇作家、画家
 与田準一‥‥児童文学作家、詩人
《美術・評論》
 恩地孝四郎‥‥版画家、装幀家、写真家、詩人
 川上四郎‥‥画家、童画画家
 清水多嘉示‥‥彫刻家、武蔵野美術大学教授
 田中一松‥‥美術史家
 富永次郎‥‥美術評論家
 三田村有純‥‥漆芸家、東京芸術大学名誉教授
 宗像志功‥‥版画家、画家
 薮内正幸‥‥動物画家、絵本作家
《写真家》
 浅井慎平‥‥写真家、コメンテーター
《学者》
 姜尚中‥‥政治学者、思想史家、東京大学名誉教授
 久保田明光‥‥経済学者、早稲田大学教授
 武田祐吉‥‥国文学者、國學院大學教授
 丸山眞男‥‥政治学者、思想史家、東京大学名誉教授
《ジャーナリスト》
 蟹瀬誠一‥‥AP通信社、仏AFP通信社記者、明治大学国際日本学部教授
 筑紫哲也‥‥朝日新聞社記者、朝日ジャーナル編集長、キャスター
 和田俊‥‥立正大学教授、朝日新聞論説副主幹
《政治家》
 岡崎栄松‥‥経済学者、立命館大学教授、のちの仙台市長
 前田多門‥‥政治家、実業家、文筆家、文部大臣
《映画監督》
 大林信彦‥‥映画監督
 亀井文夫‥‥映画監督
《作曲家》
 信時潔‥‥戦前の作曲家、チェロ奏者、東京音楽学校教授
 三善晃‥‥作曲家、桐朋学園大学教授
《ミュージシャン》
 イルカ‥‥フォークシンガー、絵本作家
 久保田早紀‥‥シンガーソングライター
 ささきいさお‥‥歌手、俳優、声優、ナレーター
 トータス松本‥‥ミュージシャン(ウルフルズ)、俳優
 野沢秀行‥‥ミュージシャン(サザンオールスターズ)
《俳優・声優・劇作家・演出家》
 石橋凌‥‥俳優
 大竹まこと‥‥タレント、俳優、ラジオパーソナリティ
 唐十郎‥‥劇作家、作家、演出家、俳優
 岸部一徳‥‥俳優、ミュージシャン
 串田和美‥‥俳優、演出家
 小松政夫‥‥コメディアン、俳優
 佐久間レイ‥‥声優、俳優、歌手
 菅原文太‥‥俳優
 高橋惠子‥‥俳優
 谷啓‥‥俳優、コメディアン、トロンボーン奏者
 千秋実‥‥俳優
 時任三郎‥‥俳優
 原田美枝子‥‥俳優
 竜雷太‥‥俳優
《料理》
 小林カツ代‥‥料理研究家、エッセイスト
《建築》
 清田文永‥‥戦後活躍した建築家、初代ジグザグ校舎を設計、梓設計社長
 近藤十郎‥‥台湾の近代建築に寄与した建築家
《スポーツ》
 具志堅用高‥‥プロボクサー、タレント
 塚原光男‥‥体操選手、オリンピック3大会で金メダルを獲得
《実業家》
 井野正次郎‥‥建築業、井野工務店社長、学園貢献者
 川井源八‥‥実業家、三菱電機会社社長、女学部に建物を寄付
《軍人将校》
 安達十九‥‥陸軍中将
 加藤隆義‥‥海軍大将
 花島孝一‥‥海軍中将
 和田健吉‥‥海軍少将


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